ピリピ3章

3:1 最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい。私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。

 「主にあって喜びなさい。」という勧めは、この後も記されています。主の恵みを経験することで喜ぶことであり、肉にはよらない喜びです。ユウオデヤとスントケに対する勧めの言葉として記されているのです。それは、彼らがどうしても覚えなければならない言葉です。彼らは、自分を喜ばせていたのです。福音のために奮闘してきたにもかかわらず、肉が現れるようになったのです。彼らの喜びが変質したのです。彼らは、自分を喜ばすことが喜びであるかのように考えるようになってしまったのです。以前の生まれたままの状態に戻ったのです。真の喜びは、別のところにありました。それは、「主にあって」喜ぶことです。肉にはよらないのです。主にあっての喜びは、他の人のために自分を捨てるところにあります。

 そして、主にあって喜ぶことは、安全のためにもなります。肉を喜ばせる生き方は、非常に危険です。不一致のような問題に陥る可能性があるのです。

・「喜ぶ」→主の恵みを経験することでの喜び。

3:2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。

 この章の主題は、肉を現すことが価値がないことを示すことです。間違った教えに対する矯正のように見えますが、不一致の問題に関連して記されています。

 犬どもと言われている働き人に気をつけるのです。肉体だけの割礼の者と記されています。彼らは、律法を守ることを主張した人たちです。しかし、律法は、影であって、本体は、キリストにあります。彼らは、悪い働き人です。律法を守るという主張は、熱心なもののように見えますが、誤った教えです。彼らに気を付けなければならないのです。

3:3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。

 彼らは、人間的なものを誇りとしていました。しかし、神の前に真に割礼の者にふさわしいのは、神の御霊によって礼拝をなす者たちであるのです。御霊によって礼拝するというのは、肉にはよらず、御霊によって神の御心を行うために自分を捧げることです。割礼は、肉(包皮)を捨てることで、肉を捨てることの比喩になっています。

 彼らは、割礼を受け、律法に基づいて礼拝をしてたかもしれません。しかし、彼らは、それを人間的な誇りとしていたのです。彼らのしていることは、肉を誇ることです。それに対して、御霊によって歩むことこそ価値があるのです。肉にはよらず、御霊による歩みです。肉を殺し、御霊によって生きるのです。そして、キリストを誇るのであって、人間的なものを頼みとしないことであるのです。それこそ割礼の者です。割礼の意味するところは、肉を捨てるということです。肉を捨て、御霊によって生きることであるのです。

 この間違った教えの主題は、一見すると、この書の不一致の矯正という主題とは別の主題のように見えますが、肉に従って歩み、自分を誇るという点では、同じ主題でつながっていることが分かります。不一致に対する、姉妹たちへの勧めの前にこの章があるのも、肉に従うことの愚かさを戒めるためです。そして、パウロの、肉に従うのではなく、完全に肉に死んだ生きたかを示すためです。

3:4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。

3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、

3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。

 ここでパウロは、自分は、人間的なものにおいて頼むところがあると言い表しました。人間的な価値観からすれば、頼むところがあるといっているのであって、彼自身が今もそれを頼んでいるということではありません。「私は、それ以上です」と記したのは、それ以上に「頼む思いを持っている」ということではありません。彼は、そのようなものを頼む思いを持っていないことを言い表しています。ですから、彼がそれ以上といったのは、彼が人間的な観点から頼むものを彼ら以上に持っていたということです。

 それを具体的に上げています。八日目の割礼、イスラエル民族に属し、ベニヤミン族でした。生粋のヘブル人でした。これは、肉体だけの割礼の者が誇っていたことでした。彼らは、イスラエル民族の者であることを誇っていたのです。また、律法を守っていましたが、パウロは、律法を守る点においては、パリサイ人として厳格に守り、教会を迫害するほどの熱心でした。彼は、律法を守る点において非難されるところのない者でした。

3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

 人間的には、多くの誇ることができるものを持っていましたが、キリストのゆえに損と思うようになりました。それらは、神の前には、キリストとを信じることによる義と、それにより栄光を受けることができることに比較したら、何の価値もないものです。それは、得でないだけでなく、損失であると考えました。それは、よりすぐれたものを持っていれば、それだけ誇る機会となるからです。誘惑を受けやすいのです。実は、損なのです。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、

3:9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

 また、彼は、律法に関わる優れたものだけでなく、一切のことを損と思いました。それは、一切のものがキリストのすばらしさに比べたら、ちりあくたに等しいからです。彼は、それらを捨てました。彼が望みとしていたのは、キリストを得ることができることです。それは、単にキリストを持つことができることだけでなく、キリストの中にある者と認められることです。そのことが意味しているのは、自分自身の律法の行いによる義でなく、キリストを信じる信仰による義です。これは、彼が信じた時に義とされたことだけを言っているのではありません。彼は、その「義」について、「望み」といっています。それは、既に得られたものではありません。既に得られたものであるなら、望みとは表現しません。この義については、次の節から記されるように、彼の歩みが義とされることです。完全な者とされることであるのです。それは、信仰によって与えられます。信仰により、キリストがその人のうちに住まれ、キリストの業として義の行いをされます。肉にはよらないのです。信仰による義です。

ローマ

8:3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

8:4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。

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3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、

3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

 キリストが死んで復活されたように、パウロも肉に死んで、新しく生まれた者として御霊によって歩み、肉が全くなく、神の御心だけを行う完全な状態になることを願いました。キリストをよみがえらせたのは、全能の神の力によります。神は、それと同じ力を働かせて、信者を神と同じ者に変えます。その完全な状態に達することを求めました。

 「達したいのです」と語り、それが彼の望みであることを証ししています。彼が望んだ義は、死者の中からの復活に達することです。完全な義の実現です。これは、肉に対して死に、新しく生まれた者として御霊によって歩むことです。キリストが肉体において死なれて復活されたことに対応します。死者の中からの復活と同じ状態である完全な者になることを願っていました。

 それは、彼がキリストを知ったからです。また、その復活の力を知ったからです。キリストの歩みのすばらしさを知ったので、自分も同じになりたいと願ったのです。キリストの復活の力は、それを可能なものにします。キリストをよみがえらせた全能の神がそれを実現されます。

 キリストが苦しまれたように、自分も苦しみを経験することで、キリストの死と同じ状態になり、死者の中からの復活に達したいと願いました。肉との戦いがあるから苦しむのです。肉に死ぬためには、苦しむことになります。

ペテロ第一

4:1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

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 キリストも肉をお持ちになりました。肉において苦しみを受けたのです。信者は、同じように肉に対して死ぬという苦しみを経験しています。肉に対して死ぬことで、罪との関わりを断つのです。

 人は、たとえば、健康のために食べる物を制御しようとしても、難しいのです。肉のさまざまな欲望を制御することは困難です。そして、その肉の欲の働きのために罪を犯すのです。肉を殺すためには、苦しみが伴います。ただ、肉の力ではそれはできないことです。キリストの愛に応え、キリストを信じることで可能です。

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

 死者の中からの復活という、完全になることを追求していましたが、既に得たのではありません。それを捕らえようとして追求しています。そして、それは、人間の努力ではなく、肉の力で追求しているのではありませんでした。そうではなく、キリストが捕らえてくださったのです。これは、それを獲得できるようにキリストが働いていてくださることを表しています。それは、信仰により内に住まわれるキリストによるのです。キリストが業をされるので可能なのです。

3:13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、

3:14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

 彼は、それを捉えたとは考えていませんでした。彼は、神の賞を得るために目標を目指して一心に走っていました。この賞については、上に召してくださる賞と記されていて、彼を高く引き上げ栄光を与えることを表しています。それは、「天辺に」という意味で、むしろ目標としては、最高の栄誉を求めていたのです。それは、義に対する報いとして与えられます。

・「上に」→上の方へ。天辺に。

3:15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。

 これは、成人の考え方です。大人の考え方であるのです。すなわち、神からの賞を求めて歩むことができる人は、大人であるのです。将来を見据えて歩むことができるのは、成人なのです。子供は、将来を見据えることが難しいのです。今、自分が喜ぶことを求めます。今のことしか考えない生き方は、子供の生き方であるのです。

3:16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。

 私たちは、完全にされることを目指して歩むべきです。また、それを追求すべきです。しかし、私たちが背伸びすると危険です。また、急にきよめられるわけでもありません。パウロは、追及していましたが、完全な者とされたわけではありませんでした。訓練を通して段階を踏まなければならないのです。ですから、今達しているところを基準とし、更なる成長を求めるのです。

 勧めをする場合においても、自分の基準を当てはめてはなりません。自分と同じようにしない人たちに対して厳しい取り扱いをしてはならないのです。

3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

 パウロは自分の模範と、自分と同じように歩んでいる人を見倣うように勧めました。パウロは高慢ではありません。パウロは完全な者とされているとは考えていません。パウロは、八節から十五節で自分は、この世のものをちりあくたと思い、また、自分は、キリストの復活と同じ状態になって完全な者になることを追求していました。これがその模範です。ここにも、完全に自分を捨て、自分に死ぬ生き方の模範が示されています。これは、肉的なものを誇る人々を取り上げて、それが間違った生き方であることを示すとともに、それを捨てた生き方こそ価値があることを示したのです。

3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

 パウロを見倣うように求めましたが、それは、それとは違う生き方をしている人たちがいたからです。彼らは、十字架の敵として歩んでいたのです。十字架は、肉を捨て自分を捨てることを表しています。それと反対の生き方をしていることを「敵」と呼んでいます。

 それは、地上のことにしか心を留めないで歩んでいる人たちがいたからです。この章の前半に記されていた肉を誇る人たちもそうです。彼らは、「キリストの十字架の敵」です。

 これは、未信者のことではありません。この世の人たちは、この地上のことを心に留めて生きているのは当たり前です。もちろんその人たちが滅びに向かうことは悲しいことです。しかし、ここでは、信者でありながら、そのような歩みをしている人たちがいることを取り上げています。パウロは、そのような人たちのことを涙をもって語りました。非常に残念なことです。

3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

 その十字架の敵とは何かを、ここで説明しています。彼らは、自分の欲望を神として歩んでいたのです。そして、彼らの思いは、地上のことだけです。彼らが、尊いこととして考えている彼らの栄光は、彼ら自身の恥なのです。彼らが良いことと考えていることが、実は、神の前に恥なのです。

 これが十字架の敵として歩んでいる人の歩みです。「十字架の敵」として示したのは、十字架が表しているのは、「死」だからです。肉に対して死に、世に対して死ぬことを表しているのが十字架です。キリストの模範は、自分を捨てて従ったことです。そして、十字架の死にまでも従いました。完全な服従があります。自分を捨てたのです。十字架の敵として歩んでいる人は、そのような十字架によって表されていることに従わず、いわば敵対して生きていたのです。

 肉に従って生きている人は、肉欲の実現を求めています。しかし、それを他の人が見るとき、恥ずべき歩みをしているのが分かるのです。当人は、そのことを深く心に留めません。多少咎めを感じるにしても、肉の欲望に勝つことは、ありません。彼らは、恥を沸き立たせているのです。

 彼らの最後は滅びであると記されていますが、このような生き方がすぐにその人の救いの立場を失わせることはありません。イエス・キリストを信じている限り、救いの立場を失うことはないのです。それで、この滅びは、彼らが神の前に死んだ者としての歩みをしており、義の実を結ばす、報いを失うことを表しています。聖書では、肉に従って生きることが滅びであると表現されています。また、死であるとも記されています。肉に従って生きるなら、彼らの最後は、滅びです。

 最後という表現を使っているのは、裁かれるときが来ることを示しています。今は、彼らは、欲望のままに満たされているかもしれませんが、キリストの裁きの座で、彼らは、取り返しのつかない裁きを受け、報いを失うことになるのです。

 彼らがよいと思ってしていることは、彼ら自信の恥です。彼らはそれに気がつきません。欲望に従って生きているとき、自分の姿が見えないものなのです。

3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 パウロは、自分が天に属する者であることを示しました。この地に属する者ではないのです。先の肉を誇る人たちは、地に属する者のように振る舞っていました。この地にあって満たされているのです。

 しかし、私たちは、天に属し、そこから救い主が来られるのを待ち望んでいます。「救い」は、天において報いを受けることを指しています。すでに、信仰により永遠の滅びから救い出されていますが、ここでは、その信者に宛てて記されているのであり、天の報いを受けることを指しています。キリストが「救い主として」来られるのを待ち望むことは、その報いを受けることを望むことであるのです。この地のものを求めている者たちは、その報いを受けません。肉に死に、御霊によって歩むのでなければ、報いはないからです。

3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

 キリストが私たちの卑しいからだを変えることができる御力を持っていることが示されています。私たちは、朽ちない体を持つ者とされます。それは、単に朽ちない体を持つことだけでなく、キリストと同じ栄光に輝く体に変えられるのです。キリストが栄光に輝いているのは、初めから持たれる栄光とともに、父の御心を行われたからです。十字架の死にまで従われてそれを豊かに現されました。キリストと同じように栄光に輝くためには、私たちも神の御心を行う者でなければならないのです。肉によって生きていて、栄光を受けるでしょうか。キリストの御力は、その点に関しても発揮されるのです。キリストは、その御力で、今働いています。イエス・キリストに対する信仰により、キリストが信者のうちにあって働かれ、ご自分の業をなすのです。そのようにして、御心を行わせ、実を結ばせ、私たちが永遠の資産としての報いを受けるのです。それが救いです。