ピリピ2章

2:1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、

 キリストによる励ましは、御心に歩む教えと勧めです。それが大きな報いをもたらすものであることで励ますのです。

 愛は、神の愛です。また、キリストの愛です。その愛が信者を御心を行う歩みに突き動かすのです。「愛の綱で引いた」とあるとおりです。

 御霊に満たされて御霊と一つになって御心を行うのです。御霊との交わりではありせん。

 同情を意味する語が二つ使われています。「愛情」と「あわれみ」→「腹の底からの同情」と「深い同情」です。他の人のことをどれだけ考えているかということが問われています。不一致を現した姉妹たちは、相手に対する深い同情が欠けていました。

・「励まし」→神の法廷に立つ証拠となる個人的勧めを与えること。すなわち、御心にかなった歩をするような勧め。御心を行う歩みこそ、神の前に高い評価を受ける。これは、教えによる強い動機付けになります。

・愛の「慰め」→励まし。ただし、その人の心に強い動機づけをもたらす。信仰により御心を行うことは、愛に応えてのことです。愛による力付です。

・御霊の「交わり」→御心を行うことにおいて一つとなること。これは、御霊に満たされることです。事を行うのは、御霊であり、人は、御霊に合わせることになります。人の肉に御霊が合わせることはありません。これは、御霊との交わりではありません。

・「愛情」→はらわたからの同情。内蔵。

・「あわれみ」→深い同情。誰かの困難や災難について深く感じること。

2:2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。

 これは、お互いの関係ですが、一節の言葉に対応しています。同じ考えあるいは判断は、何が神の御心に適うかという同じ判断を持つことです。そこには、不一致が生じることはありません。

 同じ愛を持つというのは、神から愛されていることを覚え、神の愛されている兄弟に対して、同じ愛を持つのです。愛の水準がともに肉の入らない、兄弟の尊さを覚えての愛であるなら幸いです。ヨハネの手紙はそのことを示しています。

 たましいを一つにします。たましいは、神の言葉に従う部分ですから、同じ判断の上に、同じ言葉に従うのです。そうするならば、不一致を生じません。これは、心を合わせることとは異なります。

ヨハネ第一

5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。

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・「同じ思い」→同じ考えをもつ、あるいは同じ判断をすること。

・「同じ愛の心を持ち」→同じ愛を持ち。

・「心を合わせ」→たましいをひとつにする。形容詞。信仰を通して神が明らかにしたことを互いに支持すること。キリストの中にあるので同じことを共有する。

・「思いを一つにして」→同じ考えをもつ、あるいは同じ判断をすること。

2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

 そして、不一致の原因について、直接的な指摘をしました。それは、肉の現れによるのです。利己的な思いや虚栄から来ているのです。それで、一致できないのです。

 その対処方法についても示しました。謙って、互いに人を自分よりも優れた者と思うことです。これは、本気で思うのです。人の思いの中には、自分を高くする思いが常に働きます。

2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

 さらに、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みることです。不一致は、自分のことしか考えないところから来ます。他の人のことを顧みることができないのです。

2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

 キリストもこのように考えていたのです。ご自分のことを考えたのではなく、他の人を尊いものと考え、顧みられたのです。それを自分の考えとするのです。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、(1)神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

 これは、自分のことを顧みず、謙られた姿です。神のかたちである方が、神と等しいと考えることに固執しませんでした。

2:7 (2)ご自分を空しくして、(3)しもべの姿をとり、(4)人間と同じようになられました。(5)人としての姿をもって現れ、

2:8 (6)自らを低くして、(7)死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 そして、二段階の謙りが示されています。まず、神が人の姿をとられたことです。そして、奴隷として仕える者の姿をとられました。自分の権利を一切主張されず服従したのです。これは、神の御姿と対比されています。このことは、最も価値あることとして評価されています。

 人として、自分を低くし、十字架の死にまでも従われました。これが次の段階です。

 動詞に着目すると、全部では、七段階の謙りが記されています。

・1 神としてのあり方を捨てられないとは考えず

・2 ご自分を空しくして

・3 しもべの姿をとり

・4 人間と同じようになられました

・5 人としての姿をもって現れ

・6 自らを低くして

・7 死にまで、それも十字架の死にまで従われました

・「しもべ」→奴隷。彼ら自身の所有権を持たない奴隷。新約聖書では、最も価値あることとして用いられている。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

 キリストが、御自分を捨てて、しもべとして十字架の死にまでも従われたので、神は、この方を高く引き上げ、全ての名に勝る名を与えられました。

 キリストが神からこの上ない評価を受けたのは、神に従われ、御自分を捨てたからです。これこそ価値あることです。これは、信者の完全な模範です。不一致を現した姉妹について、必要なことは、自分を捨てることです。彼らは、肉を現して不一致に至ったのです。それを捨てることで一致できます。

2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 すべてのものがキリストの偉大な名を認め、イエス・キリストは主ですと告白するために、引き上げられましたが、彼らがそうすることで、神がなされたことが正しいことであることを認めることになります。それは、父なる神に栄光を帰すことです。ご自分を捨てて従ったことこそ、神にとって最も偉大なことであることが神の取り扱いによって現されたのです。神の栄光のために全てを捧げられたからです。すべての人もそれが正しいと認めるのです。

2:12 こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。

 キリストの模範を示し、何が価値あるかを示したうえで、「こういうわけですから」と受けています。

 愛する者として勧めています。勧めの言葉を素直に受けることができることは幸いです。しかし、勧めの言葉は、しばしば反発を受けるのです。この勧めが愛によることを示すことで、彼らが受け入れることができるようにしています。

 従順になることを勧めました。まず、いつも従順であったと、彼らのことを褒めています。そのうえで、さらに従順であることを勧めました。

 また、それは、自分の救いを達成することになります。この「救い」は、信者の歩みに関することであり、御心を行うことで与えられる報いを指しています。御国で資産として受け継ぐのです。そのような祝福が与えられることを覚えるならば、喜んで教えに従順になれるのです。これは、神の言葉のうちを歩む強い動機付けになります。

 なお、この「救い」が、永遠の滅びから救われることではないことは明らかです。救いという語は、最終的には、御国での相続を指しています。未信者がイエス・キリストを信じて、永遠の滅びから救われることに対して救いという言葉が使われますが、そのこと自体は、救いの全てはではなく、始まりにすぎません。しかし、御国での相続は約束されており、救いという語が用いられています。今日、「福音を信じて救われる」ということを「いわゆる未信者のための福音を信じて、未信者が永遠の滅びから救われる」ことに限定する考えが多いですが、これは、狭い意味での解釈によるものであり、聖書の示すところとは異なります。「救い」の主要な部分を占める、「信者が神の御心を行って報いを相続する」ことが無視されています。その結果、信仰を持ったけれども、神の言葉に熱心に従うことのない信者をつくってしまいます。さらには、報いを求めることが悪いことであるかのような教えさえなされています。主イエス様御自身が、「天に宝を積みなさい」と言われたのです。そこに心があるからです。強い動機付けになるのです。むしろ、積極的に宝を求め、宝がいただけるように熱心になるべきなのです。

2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。

 私たちが志を立てるのは、神の御心を行うためです。神は、御心のままに志を立てさせます。もはや、私たちの思いを成し遂げることはありえません。私たちの内に、信仰によってお住みになる主イエス様が事をなさいます。

2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。

 すべてのことを不平を言わず、疑わずに行うことができるのは、それが神の御心を行うことであり、神の業であるからです。

2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

 その目的とすることは、「非難されることのない純真な者」となるためです。後半に、そのことをキリストの日に誇ることができると言いました。キリスト日に行われることは、信者に対する裁きで、地上でなしたすべてのことが評価されます。その時に、ピリピの信者に関して誇ることができます。それは、ピリピの信者が神の目に適う、高い評価を受ける者となっているからです。そして、それは、働き人であるパウロ自身の報いとして帰ってきます。

 また、彼らは、「傷のない神の子」となります。神の子とは、神の相続者を意味します。御国を相続する者としてこの世のものを求めず歩むのです。傷がないことは、相続者は、御心を行なったことに対する報いを御国で永遠の資産として受け継ぐのです。そのことにふさわしい振る舞いがあることです。いのちの言葉をしっかり握リます。「いのち」は、御国で報いを受けることです。その約束をしっかり信じて、その報いを受けられるように行動することです。肉によって、この世のものを求めることはありません。それは、いのちをもたらさないからです。

 そして、光の子供として輝くのです。光は、教えの比喩です。神の教えにかなった振る舞いによって、神の教えを証しするのです。輝くという表現が使われていますが、神の栄光が現されるのです。人々は、人の振る舞いによって、神の教えはこのようなものかと実際に目で見るからです。

 パウロは、そのために努力しています。その結果は、キリストの日に見ることができますが、無駄にならないことを期待しています。

2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

 「信仰の礼拝といういけにえ」は、ピリピの信者が神の御心のために自分を捧げることを表しています。すなわち、御心に従って生きることです。それが礼拝です。それに対して、パウロは、自分のことを「注ぎの捧げ物」と例えています。

 いけにえは、ピリピの人たちが御心を行う面を表し、注ぎの捧げ物は、パウロが労苦していることに対応し、自分を捨てることを表しています。ここでは、注ぎの捧げ物が、究極的にはキリストが十字架で命を捨てたことを表しているように、パウロが命を捨てることを言っています。ピリピの人たちが神の目に適う者になるために、いのちを捨てることも喜ぶのです。

 なお、これは、いけにえの本体と添えて捧げられるものとの対比として、価値の違いを比較しているのではありません。

 パウロは、ここで自分を捨てる模範を示しています。はじめにキリストが御自分を捨てたことを模範として取り上げましたが、自分を注ぎの捧げ物と言うことで、キリストと同じく自分を捨てる者であることを示しているのです。キリストが高く評価されたのは、十字架の死にまでも従われたからです。それを表す注ぎの捧げ物は、キリストの最も偉大な栄光を表していて、添えて捧げられるからと言って、決して粗末なものを意味してはいません。もし、この捧げ物が粗末な捧げ物であるとするならば、パウロの犠牲も粗末なものであり、模範としてはふさわしくないものになってしまいます。

 パウロは、これを神の恵みとして喜びました。彼にとっては、その死は、神の恵みとして与えられるものであり、彼はそれを信仰によって自分のものとして受け入れ、喜ぶことができます。

 神の恵みですから、その喜びを共有して喜ぶことができるのです。

・「喜びます」→神の恵みのを知って喜ぶ。

・「ともに喜びます」→神の恵みを共有する。

2:18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。

 ピリピの信者が神の恵みによって喜び、パウロとともに喜びを共有することを願いました。

2:19 私は早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あなたがたのことを知って、励ましを受けるためです。

 次にテモテのことに言及しましたが、テモテの模範を示すためです。但し、彼に関しては、ピリピに送り、ピリピの人々のことを知って励ましを受けるためであることを記し、ピリピの人たちを幸いなものと考えていることを示しました。その模範は、自分を捨てることです。そのような勧めにあたって、ピリピの人たちが進んでその勧めを受け入れることができるように配慮しています。

2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

 テモテのピリピの人たちへの思いも紹介し、ピリピの人たちを真実に心配していることを証しし、ピリピの人たちが喜んでその模範に倣うように配慮しています。

2:21 みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

 人が自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいないと言いました。これは、信者についての言葉で、信者であっても、自分のことしか求めないのです。みな、もれなく、自分のことが第一であり、イエス・キリストのことは二の次です。

2:22 しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。

 しかし、テモテが適任であることを記し、彼は多くの人とは異なり、自分のことを求めない人であり、ピリピの信者に遣わすのにふさわしい人なのです。ピリピの信者もテモテから模範を学ぶことができます。

 パウロがバルナバとともにすでに起こされた集会を回り、励まそうとしたとき、マルコは、仕事のために離脱した人であり、ふさわしくなかったのです。マルコは、模範になり得なかったのです。バルナバは、そのような失敗があったとしても、用いたいと考える人です。しかし、マルコの訓練という意味では大切ですが、その旅の目的にそぐわないので、別の機会を用いて訓練すべきだったのです。バルナバは、パウロの意見を入れつつ、マルコの訓練のためには、別行動を取りました。その時、評判の良いテモテが取られましたが、彼は、その働きの初めから、自分のことを考えない人でした。

 テモテが適任である証明として、パウロとともに福音での働きの中で仕えてきたことを取り上げました。直訳としては、「子が父に(する)ように、福音の中で私と一緒に仕えたのです。」となります。テモテがパウロに仕えたということではありません。子は、親を敬い、親に服従するのです。仕える相手は、イエス・キリストです。

2:23 ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。

2:24 また、私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。

 テモテを送る理由については、パウロのことを知らせることもありました。パウロは、近いうちに行けると主にあって確信していました。ピリピの人たちは、そのような言葉によって、不一致の問題を先延ばしせず、直ぐに解決が必要だと感じたはずです。

2:25 私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。

 そして、ピリピから来ていたエパフロディトを送り返すことを記しました。これも、自分のことを顧みず、他の人の益を図る人の模範として記しています。彼の紹介の言葉は、彼の働きの尊さを示しています。

□私の兄弟

 キリストにあっての兄弟という意味だけでなく、自分の身内として愛すべき者として記しています。

□同労者

 パウロとともにキリストに仕えて働く働き人であるということです。彼をとうしてパウロに贈り物が届けられたのです。彼については、パウロのように福音を宣べる働きをしたとはかぎりませんが、少なくとも、贈り物を届ける働きは、同労の働きなのです。

□戦友

 パウロとともに戦うものです。

□あなた方の使者

 キリストにある愛の業のために遣わされた者です。

□私の必要に仕えてくれた

 パウロの必要を満たす働きをした人です。

2:26 彼はあなたがたみなを慕っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。

 この人の幸いは、ピリピの信者を慕っていることです。大切なものと考えていました。兄弟姉妹に対する愛の心があるので慕っているのです。

 自分のことを心配させることを気にしていました。自分のことは考えず、他の人の負担となることを避けようとしたのです。私たちは、自分のことを心配していただくことを求めやすいですが、彼はそうではありませんでした。

2:27 本当に、彼は死ぬほどの病気にかかりました。しかし、神は彼をあわれんでくださいました。彼だけでなく私もあわれんでくださり、悲しみに悲しみが重ならないようにしてくださいました。

 彼が死ぬほどの病気から癒やされたのは、神のあわれみによりました。これは、神がかわいそうに思ったということではなく、契約に基づいて神が癒やされたことを表しています。エパフロディト自身が信仰によって癒やしを求めたのです。主は、応えてくださいました。パウロもそのために祈り信仰によって求めたのです。主は、応えてくださいました。彼の働きは、命をかけた働きであったのです。このように、自分を捨てた模範を示しました。

・「あわれみ」→「契約に対する忠誠を果たす」

2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。

 彼を大急ぎで送り返すのは、ピリピの人たちが再び会って主にある恵みを喜ぶためです。パウロにとっては、心配が少なくなるためでした。ピリピの人たちの悲しみが取り除かれることは、彼の心配を少なくします。

2:29 ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。

 神の恵みを知って喜ぶように勧めました。彼らの喜びは、神の栄光になります。主にあって、自分を捨ててキリストに仕えた者として迎えるのです。そのような人こそ神の前に価値があり、尊敬に値する人です。

2:30 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。

 彼の働きは、キリストの働きです。ピリピの人たちに代わってパウロに仕える働きであり、そのためにいのちの危険を犯したのです。彼も、キリストのために命をかける人です。

 このように、一連の模範は、いずれも自分を捨てることです。二人の姉妹にとって、学ぶべき模範であったのです。