ピリピ1章

1:1 キリスト・イエスのしもべである、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。

 彼は、使徒として手紙を書きませんでした。彼らに、教えの啓示を受けた者として、教えを伝えることを目的としていないからです。この手紙の三章に、悪い働き人について記されていますが、それでさえ、この手紙の目的である不一致の解決のために記されていて、悪い働き人を肉によって行動している悪い模範として示しているのです。

 彼は、しもべと名乗っています。自分を捨て、キリスト・イエスの御心を行うしもべです。人としてのキリストの名を用いているのは、この方自身がしもべとして神の御心を行われた方であることを踏まえています。不一致の問題が肉の現れであることを弁えていましたので、それを諭すにあたって、自分自身に関しては、そのようなものが一切ないことを示す配慮をしています。

 「全て」という語を繰り返し使用しています。すべての聖徒に宛て、監督たちと執事たちに宛てました。その中には、不一致を起こした姉妹たちも含まれていることを明確にするためです。彼らは問題を起こしていますが、聖徒として尊い者として覚え、回復させるためです。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

 彼らが、神と主イエスが備えた恵みを獲得することでき、それを完全に達成することを願いました。

 「恵み」と「完全さ」を真に必要なこととして、祈っています。

・「恵み」→神とキリストによって備えられた良いもの。信仰によって獲得できる。恵みがあるように祈ったことは、彼らが信仰によって獲得することを願っています。

・「平安」→「神の御心を行うことで獲得できる完全さ」。

1:3 私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。

1:4 あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、

1:5 あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。

1:6 あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。

 三節から六節は、一つのまとまりになっていて、三節の「感謝」の内容が列挙されています。

 彼は、ピリピの信者のことを思うたびに神に感謝していました。「私の神」と言い表していて、神との親しい交わりの中にあったのです。

 彼は、祈りのたびに喜びました。彼らに神の恵みを見たからです。最初の日から「福音の(働き)中で御心を行うことにおいて一つであること」に対して祈りつつ、そのことを喜び感謝していました。ここにも、不一致の問題を念頭に福音の働きは、神の御心を行うことで一つになることであることを示しています。不一致は、その目的から全く逸れていることを示しています。

 そして、あなた方の間で良い働きを始めている方は、キリスト・イエスの日までに完成させてくださると確信しつつ、感謝していました。

 よい働きは、十一節に記されているように、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされることです。それは、肉を捨て、御霊によって新しく生まれた者として生きることで実現します。そのことは、三章九節に記されています。

キリスト・イエスの日は、まもなく来るのです。

 人となられて、今は、栄光を受けておられる方の名を用いることで、信者も同じように栄光に与ることを覚えさせています。

ピリピ

3:9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、

3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

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・「喜び」→神の恵みにたいする認識のことです。その喜びは、神様を知り、その恵みを知ることで与えられるものです。

・「福音を伝えることに『ともに携わって』きた」→福音の(働き)中で御心を行うことにおいて一つであること。「ともに携わる」と訳されている部分は、多くは、「交わり」と訳されていますが、「交わり」では、語の理解が難しい。これは、御心を行うことにおいて一つとなることです。

1:7 あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。

 彼が、ピリピの信者について、彼らが義の実に満たされる者になると考えることは、正しいことだと言い、彼らは、必ずそうなると励ましています。

 その理由を示し、彼らがパウロとともに恵みに与った人々であるからです。その恵みは、パウロが投獄されたときも、福音を弁明し立証しているときも共に与ったのです。彼が投獄されたとき与った恵みとは、彼が投獄されたことは、神のために自分を捨てて神の御心を行うことであり、ピリピの信者もパウロを支えたのです。また、今も投獄されています。ピリピで投獄されたとき、また、福音を伝えたとき、支えたのです。彼と一つになってそのようにすることで、神の御心を行い、祝福に与ったのです。パウ自身、投獄されたことを恵みと考えていました。神の御心として神のために苦しみを受けるならば、大いなる報いを受けるのです。

 神の御心のために一つになって歩むピリピの信者のことを心に留めていました。

 ピリピの信者がパウロを支えたことは、次の聖句に記されています。

ピリピ

4:10 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。

4:12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。

4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。

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1:8 私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。

 彼は、ピリピの信者を大いに慕っていました。神の御心のために良いことを志し、行う人たちであるからです。彼は、不一致の問題があることを承知していて、その姉妹たちを含めて全てを慕っていることを告げました。

 姉妹たちの振る舞いは、肉を現してしまい、互いを尊い者と考える愛が欠けていました。しかし、彼は、そのような人たちに対しても深い愛をもって慕っていることを示し、模範を示したのです。たとい相手が肉を現すような人であっても、尊び愛するのです。

1:9 私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、

1:10 あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、

1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。

 彼らの愛が、いよいよ豊かになることを願いました。特に不一致に至った姉妹たちに必要なのは、愛です。

 その愛は、知識が増し、識別力によっていよいよ豊かになります。知識は、直接的な経験を通して知ることです。愛を示すという経験を通して愛は豊かになるのです。そして、物事を正しく認識する識別力が必要です。

 彼ら自身の判断では、相手と一致できないと思えるものがあったのです。しかし、それが肉の現れであることに気付かないのです。彼らは、愛において経験不足でした。自分を捨てて愛することがまだ十分に身についていませんでした。また、識別力に欠けていたのです。大切なものを見分けることができませんでした。自分自身のことを求めないことこそ価値があることを見分けるべきでした。

 そして、彼らがキリストの日に備えるように勧めました。その日に、裁きが行われます。純真で非難されることがいなことは幸いです。それは、神の御心のままに従うことで実現し、義の実は、神の御心を行うところに結ばれます。

1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。

 パウロの身に起こったことは、福音の前進につながりました。

1:13 私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、

 まず、彼がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と他のすべての人に明らかになったことです。

1:14 兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。

 兄弟たちの大多数は、恐れることなく大胆に御言葉を語るようになりました。パウロの投獄を期に、確信が与えられたからです。

1:15 人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。

1:16 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、

1:17 ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。

 党派心からキリストを宣べ伝えることは。パウロを苦しめるものでした。その人自身の働きは、肉からのものであり、その人自身が報いを受けることはないからです。福音は、そのような肉の現れを殺すものです。それなのに、福音を伝えるという働きにおいて、肉が現れることは残念なことです。

 姉妹たちが現した不一致も、根本は、肉の現れです。純真な動機が失われたのです。他の人の話として記されていますが、姉妹たちに関しても同じことが言えるのです。

1:18 しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。

 しかし、彼は、キリストが宣べ伝えられることを喜びとしました。

1:19 というのは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の支えによって、私が切に期待し望んでいるとおりに、このことが結局は私の救いとなることを知っているからです。

 その理由は、キリストが宣べ伝えられることで、人々が変えられキリストの素晴らしさが現されるからです。その働きのために彼は召されたのです。それが間接的になされるにしても、キリストの素晴らしさが現されることで、結局彼に報いが帰ってきます。救いは、彼の行いに対する報いであり、彼が期待し望んだことです。

 彼の投獄をとおして、親衛隊にキリストのことが知られ、他の人が奮起し、キリストが宣べ伝えられることでキリストが崇められることになります。それが結局は、彼の報いとなります。

1:20 私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。

 それで、彼の願いは、どんな場合にも恥じることなく大胆に語ることです。彼に委ねられた働きを全うすることです。また、語るだけでなく、彼自身によってキリストが崇められることです。彼が生きるにしても、死ぬにしても彼の身を通してキリストが崇められることを願いました。

1:21 (なぜならば)私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 彼にとって、生きることは、キリストです。彼自身が、キリストと一つであり、キリストの御心の実現のために生きることであるからです。彼の内にキリストが住まれ、キリストが業をなします。

 死ぬことも益です。それは、死ぬことで、キリストの素晴らしさが現されるからです。

 彼にとっては、生きることは、キリストが現されることを追求することです。自分自身の何かが現されることなど何一つ求めることはありません。

 死ぬことも益と言えるのは、彼の死をとおしてキリストの栄光が現されるからです。死ぬことは、肉にとっては最も避けたいことです。しかし、その死さえ益なのです。

 ここには、不一致を現した姉妹たちに対して、パウロの模範が示されています。

1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。

 彼は、死を避けたいのではないことを示したうえで、肉体において生きるならば、彼の働きをとおして実を結ぶことになることを覚え、どちらが良いか分からないと言いました。「選ぶ」は、中態です。死の選択は、人にはできません。そちらのほうが良いと考えることができても、死を与えるのは、神様だからです。

1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

 彼は、板挟みになっていました。世を去ってキリストとともにいるという彼にとっての願いは、たくさんあります。なぜならば、それがより優れているからです。

1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。

 しかし、彼は、ピリピの人たちのことを考えるとき、肉体にとどまることがもっと必要であると考えていました。

1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

 パウロの働きの実は、ピリピの人たちに信仰の成長と恵みのゆえの喜びをもたらします。この喜びは、彼らが信仰により、神の言葉を信じ、その御心を行うことで、恵みが実現し、その恵みを喜ぶことです。信仰の成長と喜びは、一体のものです。

 このような実を結ぶことになるので、そのために主は、パウロを用いると確信していました。それで、ピリピの人たちとともにいるようになることを知っていると言いました。

・「喜び」→神の恵みに対する認識。恵みのゆえの喜び。「恵み」と語源的なつながりがあります。

1:26 そうなれば、私は再びあなたがたのもとに行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

 パウロがピリピの人たちのために働くとすれば、それは、ピリピの人たちの誇りになります。キリストが働き人を遣わし、自分たちに大いなる祝福をもたらすために働いてくださることを見るからです。「キリスト・イエスにあって」と記されているとおりです。

 これは、パウロの能力など人間的なものを誇ることではありません。私たちは、能力の優れた人を崇めたがるのですが、それは誤りです。その人を用いて祝福をもたらすキリストにあっての誇りであり、キリストが豊かに働いてくださることの誇りなのです。

1:27 ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、

 パウロが行く、行かないにかかわらず、福音にふさわしく生活するように命じました。福音は、神の言葉全体を指します。いわゆる未信者の救いのために語られる言葉だけではありません。それは、良い知らせであり、信じる者に永遠の祝福をもたらします。滅びから救われ、御心を行うことに対して永遠の報いを受けるのです。その福音にふさわしいことは、キリストの裁きで報いを受けられるような生活をすることです。

 福音は、その人をとおしてキリストが現されることを目的としています。それは、人が、肉に死に、キリストの復活と同じ状態に変えられることで達成されます。福音にふさわしい歩みは、そのような歩みです。

 具体的には、霊を一つにして堅く立つことです。霊は、神の言葉を受け入れる部分です。座とも言います。たましいは、神の言葉に従う部分です。霊とたましいを一つにしているのを見るのです。神の言葉に対して異なった考えを持ちません。また、神の言葉に従う点においても異なった歩をすることもないのです。このように言うことで、皆同じように一つになって神の言葉を受け入れ、従うことを期待しているのです。パウロは、そのために働き、それこそピリピの人たちが祝福を受け継ぐ道です。

 パウロは、その実現のためには、死ぬことも厭いませんでした。このように示したのは、二人の姉妹が、福音の信仰のために戦っていながら、肉を現し、不一致に至っていたからです。それは、福音の目指すところからは外れていました。「一つにして」という言葉が繰り返されていますが、二人の姉妹の不一致を念頭に記されています。同じ神の言葉を受け入れ従うならば、不一致はないことを示しているのです。

・「心」→たましい。

1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。

 そのような歩みは、たとい反対者がいたとしても脅かされることがありません。反対者たちは、この地上だけの働きです。しかし、ピリピの信者は、永遠の報いを望んで生きているのです。揺るがされることはありません。そのことを「救い」と言っています。御国で報いを受けることが救いなのです。反対者たちには、滅びのしるしです。神の言葉に従っている人を見ながら、反対するのですから、彼らは、神の前に申し開きをすることができません。これは、福音を知らないことよりも遥かに責任が重いのです。

1:29 あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。

 その反対者からの苦しみは、あってはならないことではなく、それも恵みであることを示しました。キリストを信じることで恵みは実現します。それは、永遠の滅びから救われることだけでなく、信仰の歩みの中で信仰によって受け継ぐ祝福も指しています。そして、迫害も神様が備えた良いものです。それによって神の栄光が現されます。その人自身も、神が栄光を受けたのであれば、栄光を与えられます。

1:30 かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。

 その苦闘は、かつてそして今もパウロが経験している苦闘です。それは、神の恵みです。