ネヘミヤ記12章

 一節から二十六節は、大祭司の代にしたがって、それぞれの時代の祭司とレビ人について名前が挙げられています。神の仕え人特に公の仕え人は、大祭司を中心に考えられています。民数記においても、大祭司が中心であることが示されます。

民数記

27:21 彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは主の前で、ウリムによるさばきを自分のために伺わなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルの子らのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって入らなければならない。」

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 大祭司は、主イエス・キリストの比喩です。主イエス・キリストの大祭司としての働きが全うされるために、地上に置かれた祭司やレビ人の働きがあるのです。大祭司は、罪の聖めを成し遂げ、ご自分に近づくものに、憐れみ深く、とりなし導く働きをします。救われたたましいの導き手であられます。今日の私たちの働きは、主イエス・キリストの働きなのです。

12:1 シェアルティエルの子ゼルバベルおよびヨシュアと一緒に上って来た、祭司とレビ人は次のとおりである。セラヤ、エレミヤ、エズラ、

12:2 アマルヤ、マルク、ハトシュ、

12:3 シェカンヤ、レフム、メレモテ、

12:4 イド、ギネトイ、アビヤ、

12:5 ミヤミン、マアデヤ、ビルガ、

12:6 シェマヤ、エホヤリブ、エダヤ、

12:7 サル、アモク、ヒルキヤ、エダヤ。以上はヨシュアの時代に、祭司とその同族のかしらであった者たちである。

12:8 また、レビ人では、ヨシュア、ビヌイ、カデミエル、シェレベヤ、ユダ、マタンヤで、感謝の歌を受け持っていたのはマタンヤとその兄弟たちであった。

12:9 また、彼らの兄弟のバクブクヤとウンニは、務めのときには彼らの向かい側に立った。

 これは、第一次帰還者の世代の働き人のリストです。大祭司は、ヨシュアです。

12:10 ヨシュアはエホヤキムを生み、エホヤキムはエルヤシブを生み、エルヤシブはエホヤダを生み、

12:11 エホヤダはヨナタンを生み、ヨナタンはヤドアを生んだ。

 これは、大祭司の系図で、各世代の大祭司のリストでもあります。このリストに従い、各世代の働き人が記されます。

12:12 次に、エホヤキムの時代に、祭司で一族のかしらであった者は次のとおりである。セラヤ族ではメラヤ、エレミヤ族ではハナンヤ、

12:13 エズラ族ではメシュラム、アマルヤ族ではヨハナン、

12:14 メリク族ではヨナタン、シェバンヤ族ではヨセフ、

12:15 ハリム族ではアデナ、メラヨテ族ではヘルカイ、

12:16 イド族ではゼカリヤ、ギネトン族ではメシュラム、

12:17 アビヤ族ではジクリ、ミンヤミン族、モアデヤ族ではピルタイ、

12:18 ビルガ族ではシャムア、シェマヤ族ではヨナタン、

12:19 エホヤリブ族ではマテナイ、エダヤ族ではウジ、

12:20 サライ族ではカライ、アモク族ではエベル、

12:21 ヒルキヤ族ではハシャブ、エダヤ族ではネタンエル。

 初めは、エホヤキムの時代です。

12:22 エルヤシブ、エホヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代にレビ人は一族のかしらとして登録され、また、祭司はペルシア人ダレイオスの治世に登録された。

12:23 レビの子孫で一族のかしらたちは、エルヤシブの子ヨハナンの時代まで、年代記に記されていた。

12:24 レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その兄弟たちが彼らの向かい側に立って、組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に基づき、賛美をして感謝をささげた。

12:25 マタンヤ、バクブクヤ、オバデヤ、メシュラム、タルモン、アクブは門衛で、門の倉を見張っていた。

 次は、エルヤシブの時代です。

12:26 以上はエホツァダクの子ヨシュアの子エホヤキムの時代と、総督ネヘミヤ、および学者である祭司エズラの時代の人々である。

 各時代ごとに記されています。

■ここからは、奉献式についての記述です。

12:27 エルサレムの城壁の奉献式に際して、彼らはあらゆる場所からレビ人を捜し出してエルサレムに連れて来た。シンバルと琴と竪琴に合わせて感謝の歌を歌い、喜びをもって奉献式を行うためであった。

 この奉献式は、城壁が再建されてすぐに行われたものではありませんでした。そのことは、十三章に記されています。

ネヘミヤ記

13:1 その日、民が聞いているところでモーセの書が朗読され、その中に、アンモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。

13:2 それは、かつて彼らが、パンと水をもってイスラエル人を迎えることをせず、かえってバラムを雇ってイスラエル人を呪わせようとしたからであった。私たちの神はその呪いを祝福に変えられた。

13:3 民はこの律法を聞くとすぐに、混血の者をみなイスラエルから切り離した。

13:4 これより以前、祭司エルヤシブは、私たちの神の宮の部屋を任されていて、トビヤと親しい関係にあったので、

13:5 トビヤのために一つの大きな部屋をあてがっていた。以前その部屋は、穀物のささげ物、乳香、器、またレビ人や歌い手や門衛たちのために定められていた、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一、さらに祭司のための奉納物を保管するところであった。

13:6 この間ずっと、私はエルサレムにいなかった。私が、バビロンの王アルタクセルクセスの三十二年に王のところに行き、その後しばらくして王にいとまを乞い、

13:7 エルサレムに帰って来たからである。そのとき私は、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。

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 「その日」は、奉献式の日のことです。そして、これは、四節の「これより以前」の出来事が起こった後の事で、その出来事は、ネヘミヤがエルサレムを離れていた期間に起こったことです。城壁の再建は、ネヘミヤがエルサレムにいた時に完成しました。そして、エルサレムを離れてバピロンにいる期間に多くの問題が発生したのです。十三章の記事のほとんどは、律法の書が朗読された記事以外は、奉献式の前に起きたことです。ネヘミヤは、再び堕落した民をもう一度聖別したのです。奉献式は、そのような出来事の後で行われました。

 城壁は、エルサレムの聖別のために再建されました。それは、神の都であるからです。異邦人から分離されて、神への奉仕が定められた通りに行われるためには、どうしても、城壁が必要でした。そのようにして、証しが保たれるのです。しかし、城壁再建後に堕落が起こったのです。聖別が損なわれていたのです。それらの問題を解決して初めて、城壁が再建されたことを喜ぶことができるのです。民が喜んでそれを行おうとしたのは、彼ら自身が神に従って行動する思いが回復したからです。城壁再建を価値あるものにしたのは、彼ら自身が聖別された時であるのです。

 私たちは、御言葉を読むことができ、また、教会の集まりに集うことでができることは、大きな恵みです。しかし、私たちが御言葉に従い、集まりに形だけ集うのでなく、その恵みを真に覚えて、神の教えに従い真理を証しし、兄弟姉妹を愛し、一致して歩むならば価値があるのです。形式が守られていても、実質がないなら価値がないのです。

 このときに、すべてのレビ人が探し出されました。これは、奉献式という一時的な働きのためだけに集められたのではなく、四十四節から記されてあるように、レビ人を任命し仕えさせるためでした。レビ人には、捧げ物と日当が与えられ、本来の務めに付くようにされました。

 また、このことは、一時は、レビ人がないがしろにされて、彼らが自分たちの農地に逃げ帰っていたことに関連しています。

ネヘミヤ記

13:10 また私は、レビ人の分が支給されていなかったために、務めに当たるレビ人と歌い手たちが、それぞれ自分の農地に逃げ去っていたことを知った。

13:11 私は代表者たちを詰問し、「どうして神の宮が見捨てられているのか」と言った。そして私はレビ人たちを集め、元の職務に就かせた。

13:12 ユダの人々はみな、穀物と新しいぶどう酒と油の十分の一を貯蔵庫に持って来た。

13:13 そこで私は、祭司シェレムヤ、学者ツァドク、レビ人の一人ペダヤに貯蔵庫を管理させ、マタンヤの子ザクルの子ハナンを彼らの助手とした。彼らが忠実な者と認められていたからである。彼らの任務は仲間に分配をすることであった。

13:14 私の神よ、どうか、このことのゆえに私を覚えていてください。私が神の宮とその務めのためにした数々の誠実な行いを、ぬぐい去らないでください。

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 そして、レビ人は務めに戻されましたが、奉献式の時には、彼らのいるすべてのところから探し出したのです。それは、完全な回復のためでした。神の宮のためであるのです。

 彼らはには、歌うたいという務めがあるのです。今日、聖霊は、御心のままに賜物を与えて、信者を用いられます。ひとつ一つの部分がその力量にふさわしく働くようにされるのです。ネヘミヤは、その役割が用いられるようにしたのです。私たちも、一人一人が与えられたものを用いることができれば幸いです。

12:28 歌い手たちは、エルサレムの周辺の低地やネトファ人の村々から、

12:29 またベテ・ギルガルやゲバとアズマウェテの農地から集まって来た。この歌い手たちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたのである。

 今日、私たちは、レビ人によって表される奉仕者としての立場を与えられている者がいます。それは、神の選びによりますが、与えられた立場にふさわしく、全ての者がその務めを果たすことは幸いです。自分の農地に留まり、公の奉仕に召されているにもかかわらず、これを果たさないことは、ふさわしくありません。

12:30 祭司とレビ人は自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめた。

 祭司とレビ人は、神に捧げるにふさわしい者となるために、自らをきよめました。そして、神の民をきよめました。これは、大切なことです。神に捧げ物をしようとするなら、自らをきよめないといけません。城壁を捧げようとした民についても、きよめられないといけません。そして、捧げられるものもきよめられないといけません。門と城壁は、聖別のために再建されたのです。それが神のものであり、神の聖さを現すものとして用いられなければならないのです。私たちは、人間的なもの、肉的なものを入れやすいのです。

12:31 私はユダの長たちを城壁に上らせ、感謝の歌をささげる二つの大きな賛美隊として配置した。一組は城壁の上を右の方に、糞の門に向かって進んだ。

 聖歌隊を編成して、城壁を通って位置に着き、歌いました。ここでは、右のほうに行った聖歌隊について触れています。「右」とは、城壁の外側から見て、右です。ネヘミヤは、どの位置から見ていたかというと、城壁の上に上がり、町の中心部を見ていました。三十八節に「左」と記されていますが、これは、意訳で、原語の意味は、「反対側」です。つまり、エズラの隊と反対側という意味です。自分の視点から見たら自分自身を右、左ということはできないのです。自分の隊については、反対側と表現したのです。右に対して反対側を単純に左側と訳してありますが、不適切です。

 城壁に上った場所は、記されていません。城壁の上で聖歌隊を編成したとあります。出発地点は、糞の門と炉の櫓の間です。そこには、谷の門がありますが、谷の門について触れていませんので、その近くから上りました。「右」の方向は、反時計回りに進む方向です。この隊は、エズラを先頭として進みました。

 まず「糞の門」のことが記されています。それは、糞によって表されている汚れを清めることを表しています。ここに記されている門のリストは、聖別に関して記されています。初めは、汚れの清めなのです。

12:32 彼らのうしろに続いて進んだ者は、ホシャヤとユダの長たちの半分、

12:33 アザルヤ、エズラ、メシュラム、

12:34 ユダ、ベニヤミン、シェマヤ、エレミヤであった。

12:35 祭司のうちのある者もラッパを持って進んだ。まず、ヨナタンの子ゼカリヤ。ヨナタンはシェマヤの子、シェマヤはマタンヤの子、マタンヤはミカヤの子、ミカヤはザクルの子、ザクルはアサフの子である。

12:36 次に、ゼカリヤの兄弟たちシェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタンエル、ユダ、ハナニで、神の人ダビデの楽器を持って続いた。学者エズラが彼らの先頭に立った。

 三十三節の「エズラ」と、学者エズラは、別人です。エズラは、一隊の先頭に立ちました。

12:37 彼らは泉の門のところで、城壁の上り口にあるダビデの町の階段をまっすぐに上り、ダビデの家の上を通って東の方の水の門に来た。

 「泉の門」は、聖霊を表しています。聖別のためには、聖霊による歩みが必要なのです。

 「ダビデの町」、「ダビデの家」と記されています。これは、主イエス様を表しています。ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。この方は、よみがえりによって、新しく生まれたものとし生きることを信者に教えています。これも、聖別の大切な教えです。

テモテ第二

2:8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。

2:9 この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。

2:10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。

2:11 次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

2:12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。

2:13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」

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 ダビデの子孫として生まれた方は、王として生まれたのです。その方は、よみがえられて、永遠の王として立たれます。また、肉には支配されない完全な方としてよみがえられたのです。そして、栄光を受けておられます。

 福音を伝える困難の中でその方をいつも思うことは、大切です。それは、福音を信じる人は、キリストがよみがえられたように、栄光を受けるようになるからです。それは、救いの立場だけではありません。とこしえの栄光を受けるようになるのです。その栄光については、彼と共に死ぬことによって与えられるものであることが示されています。キリストと共に歩んだ者として、栄光を受け、キリスト共に生きる者とされるのです。すなわち彼の受ける栄光と同じ栄光を報いとして受けるのです。

 また、耐え忍んでいるなら、キリストと同じ王権を受けて、治めるようになるのです。

 しかし、キリストを否んだならば、キリストから否まれるのです。それは、厳粛なことです。

 しかし、キリストは、真実な方です。私たちは、時として不真実です。裏切る者であるのです。神のことばに従わないことがあるのです。しかし、キリストは、常に真実で、信じた者を導かれるのです。

 そして、「水の門」は、御言葉を教えています。御言葉によって聖別されるのです。

ヨハネ

17:17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

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 御言葉を信じた弟子たちについて、真理によってさらに聖別されるように祈られました。その真理は、御言葉であって、弟子たちを聖別するのは、御言葉です。

12:38 感謝の歌をささげるもう一組の賛美隊は、左の方に進んだ。私はそのうしろに従った。民の半分は城壁の上を進み、炉のやぐらの上を通って、幅広の城壁のところに進み、

 もう一隊については、同じ聖別が別の観点から記されています。

 「左」と訳されている語は、原語で「反対側」という意味です。先の隊から見て反対側ということで、ネヘミヤは、こちらに加わりました。

 「炉のやぐら」について、「炉」は、神の怒りを表しています。やぐらは、敵に対する見張りのためです。これは、敵に向けられた神の怒りを表しています。それは、神様が聖い方であり、清いからです。それを世に対して示すものでなければならないのです。信者が世に対して、神の聖さを証しするためには、信者自身が世が滅びるものであることを明確に現す生活をしなければならないのです。

 「広い城壁」は、敵からの守りと安定した場所を表しています。

詩篇

18:19 主は私を広いところに導き出し私を助け出してくださいました。主が私を喜びとされたからです。

31:8 あなたは私を敵の手に引き渡さず私の足を広いところに立たせてくださいました。

118:5 苦しみのうちから私は主を呼び求めた。主は答えて私を広やかな地へ導かれた。

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 敵との戦いで守られ、揺るがされることのない安定を与えます。

12:39 エフライムの門の上を通り、エシャナの門を過ぎ、魚の門と、ハナンエルのやぐらと、ハ・メアのやぐらを過ぎて、羊の門まで進んだ。そして監視の門で立ち止まった。

 「エフライム」は、「二倍の実り」という意味です。

 「エシャナ」は、「古い」という意味です。

 古い門の「古い」は、他の箇所では、古い収穫を表すために使われています。それは、実りが多い事を表しています。

レビ記

25:22 あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。

レビ記

26:10 あなたがたは長く蓄えられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを片付けるようになる。

雅歌書

7:13 恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。

イザヤ書

22:11 二重の城壁の間に貯水池を造って古い池の水を引いた。しかし、おまえたちはこれを造った方には目もくれず、遠い昔にこれを形造った方に目を留めなかった。

→古い池は、水が枯れずに長い間保たれていたことを表しています。

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 ネヘミヤ記の古い門以外で用いられているのは、以上の箇所だけです。それは、実りの豊かさとして覚えることができます。ですから、実を結ぶこととして当てはめて考えることができます。贖われた者たちは、実を豊かに結ぶ者にならなければならないのです。

 「魚の門」は、聖別を表しています。

 「ハナヌエル」は、「神が好まれた」という意味です。

 「メア」は、「百」という意味です。聖別を表します。

 「羊」の門は、主イエス様を表しています。神に従順に従われた人としての主イエス様であり、十字架にまで従われて贖いの業を成就されたのです。ご自分を全く聖別されて歩まれました。

ヨハネ

17:19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

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 主が願われたのは、弟子たちの聖別です。主は、そのために御自身を聖別されたのです。この聖別は、十字架の御業を表しています。主がその犠牲を払われたのは、弟子たちの聖別のためです。主を信じた者は、聖別され、さらに御言葉によって聖別されることを求められたのです。

 そして、主とともにいる人々のためだけではなく、弟子たちの働きを通して彼らの言葉によって信じる人々のためにもそのことを願われました。ですから全ての信じた者が、御言葉によってさらに聖別されることを願われたのです。それが十字架の目的の一つであったことが分かります。

 「監視」の門は、敵に対する監視を表しています。聖別を破壊しようとする悪魔の働きに対しての監視が必要なのです。

12:40 こうして、感謝の歌をささげる二つの賛美隊は神の宮で位置についた。私も、私とともにいた代表者たちの半分もそうした。

12:41 また祭司たち、エルヤキム、マアセヤ、ミンヤミン、ミカヤ、エルヨエナイ、ゼカリヤ、ハナンヤもラッパを持って、そこにいた。

12:42 また、マアセヤ、シェマヤ、エルアザル、ウジ、ヨハナン、マルキヤ、エラム、エゼルもいた。こうして、歌い手たちは歌い、イズラフヤが指揮をした。

12:43 彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。

 賛美の歌は、神の働きとして、歌うたいの監督の下に歌われました。女も子供も歌うことによってはるか遠くまでその歌が聞こえました。神様が喜ばせてくださったとあります。私たちの歌も、賛美も神様によって喜び満たされて歌います。自分の歌を聞かせるためのものではありません。

12:44 その日、財宝や、奉納物、初物や十分の一を納める部屋を管理する人たちが任命され、祭司とレビ人のために律法で定められた分を、町々の農地からそこに集めた。これは、職務に就いている祭司とレビ人をユダの人々が喜んだからである。

 神のために仕える祭司とレビ人をユダヤ人は喜ぶことができました。実は、神を喜ぶことができないと、仕え人の働きを喜ぶことはできません。民に代わって仕えるレビ人に、彼らは、定められたとおりに捧げ物をしました。

 彼らは、喜んだので、神のために熱心に働くことができました。神に栄光が帰せられることを心から喜ぶことができることは幸いです。

12:45 彼らは、自分たちの神への任務ときよめの任務を果たした。歌い手や門衛たちも同様であった。ダビデとその子ソロモンの命令のとおりである。

 レビ人たちは、その任務を果たしました。幸いなことです。今日、教会で選ばれ、召された兄弟が同じように務めを果たすことによって全ての賜物が用いられるのです。

12:46 昔から、ダビデとアサフの時代から、歌い手たちのかしらたちがいて、神への賛美と感謝の歌がささげられた。

12:47 ゼルバベルの時代とネヘミヤの時代、全イスラエルは、歌い手と門衛のために定められた分を日ごとに渡していた。彼らはまたレビ人の分を聖別し、レビ人はアロンの子らの分を聖別していた。

 レビ人が経済的に支えられないと、その務めを全うすることができません。神のために捧げ物をするイスラエルの信仰にかかっていました。それが帰還後、明確に行われたのは、ゼルバベルとネヘミヤの時代です。その他の時代については、別の総督が立てられ、信仰を導くことがなかったようです。

ネヘミヤ記

5:15 私の前任の総督たちは民の負担を重くし、銀四十シェケルのほかにパンとぶどう酒を民から取り立てた。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。

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