ネヘミヤ記11章

■くじによる選び

11:1 民の指導者たちはエルサレムに住んでいたが、それ以外の民はくじを引いて、十人のうちから一人ずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし、あとの九人をほかの町々に住まわせた。

 ネヘミヤの時代のエルサレムの城壁の再建は、エズラ記の宮の再建に続くものですが、宮の再建は、いかに教会を建て上げるかについての教えです。城壁の再建も、集会を建て上げることについて教えています。その中でも、特に聖別と教会としての行動について教えています。

 当時、エルサレムに住む住民は、少なかったのです。他の町々に住む人は、それぞれの所有地に住んだのです。城壁の中での出来事は、教会での行動の比喩として学ぶことができます。それぞれの相続地に住む人々は、個人あるいは家庭における生活として覚えることができます。

 エルサレムの住民の数は少なかったのです。

ネヘミヤ記

7:4 この町は広々としていて大きかったが、その中の住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった。

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 それで、都に住む人を増やしました。本来、イスラエル人は、自分たちの所有地に住むべきでした。しかし、あえてエルサレムに住む人たちを増やしたのは、これが「聖なる都」だからです。聖なるとは、神のものであることを表します。神のためにそうしたのです。エルサレムは、神の預言によって再建されることになっています。神様が選ばれた都が荒れたままになっていることは、ふさわしいことではありませんでした。敵のそしりなのです。

 今日、教会が荒れたままになっていることは、神の御心ではありません。教会としての証しが立たない状態ではいけないのです。少なくとも、教会の集まりが予定されている日は、集会に集いませんと物理的に証しが立たないのです。集わされた一人ひとりによってその能力と導きに従って証しが立てられることが幸いです。

 ここには、くじという方法によって十人のうち一人が選ばれました。神のために神の選ばれた場所での証しを担うようにしたのです。旧約においては、選びにおいて神の御心を求めるためにくじが引かれました。今日、くじが用いられることはありません。今日、私たちを選ばれ導くのは、聖霊です。これは、聖霊に導かれて、集会での働きのために立つ人の比喩です。

 イエス様がよみがえられてからマッテヤが十二使徒として選ばれたときは、くじ引きによりました。この時は、聖霊が下っていなかったので、旧約の方法によりました。アンテオケの教会から遣わされたバルナバとパウロは、聖霊によって選び分けられました。

使徒

1:24 そしてこう祈った。「すべての人の心をご存じである主よ。この二人のうち、あなたがお選びになった一人をお示しください。

1:25 ユダが自分の場所へ行くために離れてしまった、この奉仕の場、使徒職に就くためです。」

1:26 そして、二人のためにくじを引くと、くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられた。

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使徒

13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。

13:3 そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

13:4 二人は聖霊によって送り出され、セレウキアに下り、そこからキプロスに向けて船出し、

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 聖霊が取り分けると分かります。聖霊がその任務に召すことが分かります。

使徒

20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

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 長老も、聖霊がお立てになります。ある程度の経験と年齢に達すれば長老になる資格があるのではなく、聖霊が、その人を導き、その人を長老にふさわしい者に成長させます。先輩の長老は、聖霊が立てた人を、長老としてふさわしい者と認めて、長老として立てるのです。勿論、聖霊は、すべての人を主イエス様に似た者とするために導かれます。その導きに従って成長することは幸です。

 また、くじに当たらない人は、住むことはできませんでした。無秩序にエルサレムに住む人が決まったわけではありません。また、住むことを希望した誰もが住むことができたわけではありません「住まわせた。」とあります。これが、聖書が示している事実であって、その他の人たちが住んだ事実については、記されていません。

 このことは、教会での働きに与ることができるのは、聖霊の導きにしたがって導かれた人だけであるということです。例えば、自分を現すような肉の思いによって教会の働きを願ったとしても、聖霊の導きに従わない限り、ふさわしいものとはなりません。秩序の乱れや混乱が生じます。私たちは、確かに完全なものではありません。しかし、聖霊の導きに委ね、祈りつつ、聖霊に用いられるものとなりたいと願います。

11:2 民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな祝福した。

 エルサレムに住む人は、くじによって選ばれましたが、選ばれた民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々であったことを示しています。くじに当たって落胆した人については、記されていません。恐らくそういう人はいなかったのでしょう。エルサレムに住むことは、所有地から離れることで不都合があったと考えられますが、神のために喜んで犠牲を払いました。また、周りの人々は、神のために進んで犠牲を払う人全てを祝福しました。

 選びは、神の導きによります。しかし、選ばれた者に求められているのは、自ら進んで神に自分を捧げることです。その人は、祝福を受けます。しかし、強いられたにしても、務めが委ねられています。

コリント第一

9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

9:17 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。

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 以下に記されている人たちは、その働き、或いは、職業に従って記されています。これは、教会における働き人の比喩になっています。

■かしらたち

11:3 エルサレムに住んだこの州のかしらたちは次のとおりである。ユダの町々には、イスラエルの人々、祭司、レビ人、宮のしもべたち、ソロモンのしもべたちの子孫が、それぞれ自分たちの町の自分の所有地に住んだ。

 かしらたちは、エルサレムに住みました。しかし、その紹介の前に、エルサレムに住まなかった人のリストが挙げられています。一般の人々と、宮に使える人々がそれぞれの所有地に住んでいました。すなわち、多くの者は、自分の所有地に住んだのです。ここでは、「イスラエル人」という表現か使われています。それは、神の民とされたイスラエル全体を指しています。教会は、集う時だけが神の民なのではなく、それぞれが置かれたところにあって、神の民であるのです。そして、祭司であり、レビ人であり、宮のしもべとして、神に仕える者たちであるのです。それぞれの家庭や地域また、仕事場での証しが、その人の証しのすべてであるのです。それは、教会の証しに影響を与えます。

■ユダ族とベニヤミン族

11:4 エルサレムには、ユダ族とベニヤミン族のうちのある者が住んだ。

□ユダ族

ユダ族では、まずウジヤの子アタヤ。ウジヤはゼカリヤの子、ゼカリヤはアマルヤの子、アマルヤはシェファテヤの子、シェファテヤはマハラルエルの子、マハラルエルはペレツの子孫の一人である。

11:5 次にバルクの子マアセヤ。バルクはコル・ホゼの子、コル・ホゼはハザヤの子、ハザヤはアダヤの子、アダヤはエホヤリブの子、エホヤリブはゼカリヤの子、ゼカリヤはシロ人の子孫である。

11:6 エルサレムに住んだペレツの子孫は合計四百六十八人の勇士であった。

□ベニヤミン族

11:7 ベニヤミン族では次のとおりである。まずメシュラムの子サル。メシュラムはヨエデの子、ヨエデはペダヤの子、ペダヤはコラヤの子、コラヤはマアセヤの子、マアセヤはイティエルの子、イティエルはエシャヤの子である。

11:8 彼の次にガバイとサライで、九百二十八人。

 ペレツの子孫は、「勇士」でした。神のために戦う力ある人たちです。私たちも、神の働きのために自分を捧げ、皆、勇士として戦うことができることは幸です。

テモテ第二

4:5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

4:6 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。

4:7 私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

4:8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。

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 パウロは、勇敢に戦う勇士でした。これは、剣を振り回すことではなく、具体的には、テモテへの勧めに見られるように、まず、どのような場合にも慎むことです。これは、自分の願いや欲望に従って生活するのではないことを教えます。むしろ、御言葉にかなった歩みを求めることです。御言葉を述べ伝えるのであれば、ふさわしい生活が求められるのです。

 困難に耐え、神を愛して忍耐するのです。伝道者として働くことです。このときには、キリストを証ししすることで迫害を受け、パウロは、そのために死に定められました。そして、共に証しを支えるはずの人たちがパウロを離れたのです。御言葉を述べ伝えることの危機があったのです。それでこの言葉が記されています。テモテは、伝道者としてどんなときにもその務めを果たすことが求められているのです。

 私たちは、それぞれ異なる賜物としての能力を与えられていますが、自分に与えられた務めを果たすことが求められています。働きの場も異なります。しかし、それを忠実に果たすことは幸いです。これが勇士です。

 このような働きに主が豊かに報いてくださることも示されています。それは、「義の冠」で、義の実を結んだ者への栄誉として与えられ冠です。「義の冠」と記されていますが、「信仰を全うした」ことに対して与えられるものです。それは、救いの立場を与える言葉を信じそれを全うしたことだけではありません。「義人は、信仰によって生きる」とあるように、神の言葉を信じて、それを守り通し、従いとおすことがまた、義であるのです。ここでは、信仰の歩みに関していっています。この冠は、主の現れを慕って、主にふさわしい歩みをする者に与えられる栄誉です。

■監督者

11:9 ジクリの子ヨエルが彼らの監督者であり、セヌアの子ユダがこの町の副監督者であった。

 そして、町の監督者として一般の人々を治める「監督者」が記されています。これをそのまま新約に適用することはできませんが、監督者としての働きは、新約聖書は、長老の働きとして示されています。長老の働きの目的のひとつは、集会の監督です。

■祭司

11:10 祭司のうちでは、エホヤリブの子エダヤと、ヤキン、

11:11 ヒルキヤの子セラヤであった。ヒルキヤはメシュラムの子、メシュラムはツァドクの子、ツァドクはメラヨテの子、メラヨテはアヒトブの子である。セラヤは神の宮のつかさであった。

 祭司のかしら名が記されています。その中で、「神の宮のつかさ」は、宮に仕える祭司の管理をした人です。

 宮での祭司の役割は、いけにえを捧げることです。祭司は、教えを保ち、教える者たちでもありますが、宮での奉仕はいけにえを捧げることです。これは、今日、いけにえとしての神の御子を覚え、感謝と賛美と礼拝を神に捧げることに適用できます。そして、新約時代においては、イスラエルに対する祝福の先取りとして、王である祭司としての立場の比喩です。

ペテロ第一

2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

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 選ばれた種族は、神によって特別に選ばれた種族で、本来イスラエルのことです。しかし、今日私たちは、アブラハムの子孫として選ばれた種族なのです。

 王である祭司については、キリストと共に治める者として王なのです。このことは、黙示録にも約束されているように、私たちは、王権を持つのです。そして、祭司として神に仕えるのです。

 聖なる国民とは、神の民であるということです。

出エジプト記

19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

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 そのことは、イスラエルに約束された祝福であるのです。

 この人たちは、神の前に礼拝者として仕える人々です。私たちは、兄弟姉妹全員が祭司として仕えることを許されています。

 そして、祭司をまとめるものとして宮の司がいました。祭司は、それぞれが神の前に責任を果たすものですが、無秩序ではありません。司が管理します。

 今日、その指導者は、本質的には聖霊ですが、実際的に兄弟姉妹の礼拝を導く働きをなす者がいるのです。霊的な指導者として働く者がいるのです。霊的な状態になければ、兄弟姉妹の礼拝を導くことは出来ません。自ら、主イエス様を深く覚え、心から礼拝をなす者でなければ、兄弟姉妹を礼拝に導くことはできません。

11:12 彼らの同族で宮の務めをする者は八百二十二人。また、エロハムの子アダヤ。エロハムはペラルヤの子、ペラルヤはアムツィの子、アムツィはゼカリヤの子、ゼカリヤはパシュフルの子、パシュフルはマルキヤの子である。

 「宮の務めをする彼らの同族」とは、アロンの子孫の祭司のことです。祭司たちは、八百二十名いました。彼らは、神に仕える者として、神の宮の近くにいることが最もふさわしいのです。それで、彼らの数は、特に多い人数になっています。ここまでが祭司の記述です。節の区分が変則的になっています。

 次に、エロハムの子アダヤが取り上げられています。これは、十三節の中程までの区切りで、アダヤの同族の人数が記されている所で切れます。

11:13 アダヤの同族で一族のかしらたちは二百四十二人。また、アザルエルの子アマシュサイ。アザルエルはアフザイの子、アフザイはメシレモテの子、メシレモテはイメルの子である。

 アダヤ族の同族の「かしらたち」は、二百四十二名です。

 また、アザルエルの子アマシュサイがいたと記されています。ですから、この人は、祭司と考えられます。

11:14 彼らの同族の勇士たちは百二十八人。彼らの監督者はハゲドリムの子ザブディエルであった。

 彼らの同族の「勇士たち」が百二十八名です。そして、その勇士たちの「監督者」がハゲドリムの子ザブディエルです。彼らは、祭司ですが勇士でした。教えを保ち、最も聖なることに関わる祭司たちで「勇士」であることは幸いです。彼らは、単に教えを知識として保っていただけでなく、彼らは、神と共に歩む勇士であったのです。信仰に立って歩むことができる者が勇士であるのです。

 

■レビ人

11:15 レビ人のうちでは、ハシュブの子シェマヤ。ハシュブはアズリカムの子、アズリカムはハシャブヤの子、ハシャブヤはブンニの子である。

11:16 また、レビ人のかしらのうちシャベタイとエホザバデは、神の宮の外まわりの仕事をつかさどっていた。

 祭司に続いて、ここからは、レビ人の記述です。レビ人のかしらは、ハシュブの子シェマヤです。

 また、二人のレビ人のかしらシャベタイとシェマヤは、神の宮の外の仕事の監督をしました。レビ人は、礼拝の仕事に関係していましたが、直接礼拝を行う人たちではありません。祭司の仕事を補助します。いわば、仕える働きをします。今日、これは、奉仕の働きをする人として適用して考えることができます。

11:17 また、ミカの子マタンヤ。ミカはアサフの子のザブディの子である。マタンヤは祈りの時に感謝の歌を歌い始める指導者、バクブクヤはその同族の副指導者であった。また、シャムアの子アブダ。シャムアはエドトンの子のガラルの子である。

 ミカの子マタヌヤは、レビ人です。二十四節までが、レビ人に関する記述になっています。「祈りのために感謝の歌を始める指揮者」は、祈りと感謝の働きを教えています。祈りを導くのは、聖霊です。

ユダ

1:20 しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

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エペソ

6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

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 また、祈りは、個人的にも捧げられますが、ここでは、集団としてのそれらの働きであって、集会の働きを表しています。集会における祈りや感謝は、公に口を開く兄弟によってささげられますが、それは、その兄弟の個人的な祈りと感謝ではなく、集会としての祈りと感謝で、全ての兄弟姉妹のものです。それで、私たちは、「アーメン」と言います。

 また、歌については、霊の歌を歌うように示されています。

エペソ

5:19 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。

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コロサイ

3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

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 霊の歌と示されているものは、これが肉に属するものでないことを明確にしています。それは、霊である神様にふさわしい歌であるのです。私たちは、歌に感情を求めますが、求められているのは、霊の歌で、私たちの感情に訴えるものではなく、霊的な歌すなわち聖書によって知られる真理に基づく、私たちが知性によって理解できる事柄によって歌うのです。

11:18 聖なる都にいるレビ人は合計二百八十四人であった。

 この記述は、単純にレビ人の人数に関する記述です。

■門衛

11:19 門衛では、アクブとタルモン、および門の見張りをする彼らの同族で、百七十二人であった。

 門衛は、レビ人から任免されました。

歴代誌第二

8:14 彼はその父ダビデの定めに従い、祭司たちの組分けを定めてその務めにつかせ、レビ人もその任務につかせ、毎日の日課として、祭司たちの前で賛美と奉仕をさせた。門衛たちも、その組分けに従って、おのおのの門に立たせた。神の人ダビデの命令がこうだったからである。

23:4 あなたがたのなすべきことはこうです。あなたがた、祭司、レビ人の三分の一は安息日に勤務し、入口にいる門衛となる。

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 門衛は、外部から入るものの吟味を担う者です。

 これは、今日、教会への受け入れについて適用できます。人の受け入れや、教えの吟味を含みます。

11:20 そのほかのイスラエルの人々、祭司、レビ人たちは、ユダのすべての町で、それぞれ自分の相続地にいた。

 ここでは、レビ人の記述の中にエルサレム以外の場所に住み着いた人々について記されています。

 これは、比喩としては、信者の行動は教会における行動が全てではないことを教えています。

 それぞれの民は、ゆずりの地にいました。神様から与えられたところに住んだということです。勝手な場所に住みませんでした。これは、今日、わたしたちそれぞれの個人的な歩みについて教えていますが、それは、神からの譲りであるということです。私たちが置かれた環境は、すべて神様によります。私たちは、いわば、自分の思いのままに歩むのでなく、神の御心にかなった歩みを求められていることを教えられます。

 実は、個人の歩みや家族としての歩みは、教会の証しに大きな影響を与えます。置かれたところにあって神の民としての証しを立てるのです。

 与えられている環境は、神からのものです。喜びと感謝をもって神を恐れつつ歩みたいと願います。また、就職や進学などの進路についても、祈りつつ神の導きに委ねることは幸いです。あるときは、わたしたちの思いを超えたことが起こるかもしれません。しかし、最善に導いてくださる方であり、そのことを通して大きな栄光を現される方です。

■宮の僕たち

11:21 宮のしもべたちはオフェルに住み、ツィハとギシュパは宮のしもべたちをつかさどっていた。

11:22 エルサレムにいるレビ人の監督者は、バニの子ウジであった。バニはハシャブヤの子、ハシャブヤはマタンヤの子、マタンヤはミカの子である。ウジはアサフの子孫の歌い手の一人で、神の宮の礼拝を指導していた。

 ここからは、再び宮に奉仕した人々について記されています。

 宮のしもべとレビ人は、監督者の下に置かれました。これは、奉仕者の仕事を表しています。

 今日、奉仕の働きも、聖霊の導きによりますが、各自の願いのままに無秩序に行われるものではありません。長老に責任を負います。その奉仕が長老を無視して行われるようなことはあってはなりません。

 また、ウジは、神の宮の礼拝を指導しました。

 今日、これを公の礼拝行為として、パン裂きにおける礼拝として覚える時、これを指導するものは、聖霊です。「わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言われた方を知ることができるのは、聖霊によります。具体的には、御言葉によってイエス様を知ります。

ヨハネ

16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

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 パン裂き自体は、礼拝ではありませんが、パン裂きの中で、礼拝の心が起こり、礼拝が捧げられます。これを導くのは、聖霊ですが、具体的に兄弟姉妹を主イエス様を覚えるように導く働きは、公の兄弟の働きです。兄弟が、聖書により主イエスを覚えたり、祈りをなすことによって兄弟姉妹を礼拝に導くことができます。

11:23 歌い手たちには王の命令が下っていて、日課が定められていた。

11:24 また、ユダの子ゼラフの子孫の一人で、メシェザブエルの子ペタフヤは、民に関するすべての事柄について王を助ける役を務めた。

 歌うたいの働きは、王の命令による日課でした。歌うたいを最初に編成したのは、ダビデ王です。しかし、ここで「王」は、次の節の内容から現存の王を指していると考えられます。イスラエルは、全てペルシャの王の支配の下にありました。これは、全てを支配しておられる、神の比喩となっています。

エズラ

7:12 「王の王アルタクセルクセス。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。中略。さて、

7:13 私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたと一緒に行ってよい。

7:23 天の神の宮のために、天の神によって命じられていることは何でも、熱心に行え。御怒りが王とその子たちの国に下るといけないから。

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 歌うたいは、レビ人の奉仕であり礼拝の一部ですが、王の命令でもあります。これは、今日行われる奉仕が、主の命令によることを表しています。これは、主の働きです。

 また、王に代わって「民に関する全てのことがら」を委ねられた者もおりました。具体的には、納税などの働きと考えられます。これは、エルサレムと、その相続地に住む全ての人に関係することです。その全ては、、王の支配の下にあったのです。これは、全ての働きが神のものであることを示しています。

コリント第一

12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。

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 賜物も、奉仕も、働きも三位一体の神の主権によるものです。

■ユダの子孫の一部

11:25 農地がある村々で、ユダの子孫の一部が住んだのは、キルヤテ・アルバとそれに属する村々、ディボンとそれに属する村々、エカブツェエルとその村々、

11:26 ヨシュア、モラダ、ベテ・ペレテ、

11:27 ハツァル・シュアル、ベエル・シェバとそれに属する村々、

11:28 ツィクラグ、メコナとそれに属する村々、

11:29 エン・リンモン、ツォルア、ヤルムテ、

11:30 ザノアハ、アドラムとそれらに属する村々、ラキシュとその農地、アゼカとそれに属する村々であった。こうして彼らは、ベエル・シェバからヒノムの谷までの一帯に住みついた。

■ベニヤミンの子孫

11:31 ベニヤミンの子孫は、ゲバから、ミクマス、アヤ、ベテルとそれに属する村々、

11:32 アナトテ、ノブ、アナネヤ、

11:33 ハツォル、ラマ、ギタイム、

11:34 ハディデ、ツェボイム、ネバラテ、

11:35 ロデとオノ、および職人の谷に住んだ。

11:36 レビ人のうち、ユダにいたある組はベニヤミンに加わった。

 二節と二十節には、「イスラエル人」として人々のことが記されています。神の民であることを表しています。イスラエルは、全イスラエルを表す言葉ですが、実態は、レビとベニヤミン、ユダが大半であったのです。彼らは、それぞれの相続地に住みました。神が与えた土地です。エルサレムが教会としての働きを表しているとすれば、各相続地は、各自の個人的な歩みの場所です。彼らは、神から与えられたものとしてこれを受け取りました。

 わたしたちに与えられた環境は、神からのものです。わたしたちは、いろいろと良い環境を望むかもしれませんが、与えられたところにあって感謝と喜びを持って、神を恐れつつ、信仰の歩みをすることは幸いです。それぞれが置かれたところにあってふさわしい証しを立てるのであれば、それが教会の証しであるのです。