テモテ第一4章

4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

 真理の柱また土台としての教会について示し、神の言葉の中に生きることの大切さを示しました。それが、集会の行動なのです。しかし、それに反する働きがあることを示しました。そのような中に陥り、誤った行動を取らないためです。

 その誤った行動があることを示したのは、御霊です。明らかに言われたとあるように、明確にそのことを示しました。しかし、御霊が言われることを知ることができるのは、特別な人だけです。私たちは、今、明確に御霊が言われることを知ることはできません。御言葉から知ることはできますが、御霊の直接の啓示という奇跡によっては知ることができないのです。これは、パウロなどの限られた人に示されたことです。それを取り上げたのは、単なる予測や人の考えによるのではなく、根拠は、御魂の啓示であり、間違いなく起こることであることを示したのです。

 示された内容は、後の時代に起こることで、これは、神の啓示による以外知り得ないことです。

 ある人たちが信仰から離れるのです。信仰は、神が御言葉によって示された神の御心を信じることです。ここで、信仰から離れるというのは、その正しい教えから離れることを言っています。全く信じなくなることではありません。

 彼らを惑わすものがあるのです。一つは、惑わす霊です。霊は、神の言葉を受け入れる部分です。その教えを受け入れている部分が正しい教えから外れているのです。そのような霊を持つ人が教えをなすので、惑わすことになります。霊と表現されていますが人のことで、教えをなす人のことです。間違ったことを語る人に惑わされて、そうなるのです。

 もう一つは、悪霊の教えに心を奪われることによります。間違った教えは、悪霊がもたらします。

4:2 それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。

 その間違った教えをする者たちは、良心が麻痺しています。良心が麻痺しているというのは、良心が神の教えによって正されない状態にあることを言っています。人は、良心に従って行動します。良心は、人の行動の基準であるからです。その良心がいつでも神の言葉に整合していれば良いですが、必ずしもそうではありません。良心は、神の言葉によって教えられ、正されます。しかし、良心が麻痺している時、神の言葉によって正されません。自分が正しいとしている考えで突き進むのです。

 彼らが語ることは、偽りですが、その教えは、偽善です。正しい教えとして彼らは、語るのです。全く悪を行うようなことは語りません。もし、明らかに犯罪であることを勧めたら、信者は、聞くことはほとんどないのです。その教えが正しいかのように語られるので、聞いてしまうのです。しかし、正しいように見えて、実は、間違った教えであり、偽善なのです。

4:3 彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。

 その教えの具体例が示されています。結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりします。

 それが誤りであることが、食物を例として示されています。いずれも欲に関係している事柄です。ですから、食物を例として説明されています。結婚についても、同様に説明できるからです。

 食物は、人が感謝して受けるように神が造られたものです。それは、人の体を維持するために必要なものであり、神様が備えてくださった物です。ただし、食物がそのようなものであるという真理としての正しい知識を受け入れていて、信じている人にとっては、良いものなのです。

 真理を知っている人とは、神の御心を行うという「真理」を自分の体験としている人のことです。

4:4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。

 神が造られたものは、全て良いものです。神の目に適っていることを表します。捨てるべきものは何もありません。感謝して受ける時は、それが神の前に良いものであることを認め、確信するから感謝できるのです。そのような人にとって、良心も神の真理に整合していて、食物は良いものであると認めているわけです。ですから、どのような物を食べたとしても、咎められることはありません。

4:5 神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。

 それが、神の御心に適っているという神の言葉の教えがあることと、祈りによって、その人の良心も、その教えに整合しているという事実によって、それは、聖なるものとされているからです。それは、汚れた食物が聖くなるという意味ではなく、食物が神によって咎められることがない、神の御心に適っているものであることを表しているのです。

 なお、御言葉が聖いとしているならば、それで十分ではないかと考えるかもしれませんが、食べる人の良心が、その教えに整合していない場合には、その人にとっては、食べてはならない物となり、食べることは、良心に反することを行うのであり、それは、罪とされます。

4:6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。

→「これらのことを兄弟たちに教えなさい。あなたは、~良い教えの言葉で養われたキリスト・イエスの良い働き人になります。」

 テモテは、他の人に教えることで、立派なすなわち、神の目に適った良い奉仕者すなわち執事になります。ここでは、教えをすることが執事の務めとして示されています。良い執事は、信仰の言葉で養われている必要があります。これは、正しい教えを正しく信じていることです。そして、自分が従ってきた良い教えとは、実践してきた真理の言葉によって養われていることです。知識と実践です。これは、正しい教えをするための正しい知識と、模範を示すことで教えに力があるからです。

4:7 俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。

 「俗悪」とは、信仰から離れて神に近づくため、神に近づく(知る)のにふさわしくないことを表しています。

 「愚にもつかない」は、年寄り女のようなという原語の意味で、ここでは、差し障りのない訳になっています。意味としては、ばかなということです。

 そのように、神の御心に適わない作り話や、愚かな作り話を避けるように命じられています。それらは、何の価値もありません。

 それと対比して命じられていることは、敬虔になることを追求することです。鍛錬は、繰り返し練習することです。

・「俗悪な」→信仰から離れて神に近づくため、神に近づく(知る)のにふさわしくない。形容詞。

4:8 肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。

 その敬虔を追求する鍛錬は、全てに有益です。なぜならば、敬虔は、神の前に価値あるものであり、敬虔であることは、今生きている時に永遠の命の経験することであり、来るべき命すなわち御国において受ける報いをもたらすものであるのです。今の命は、キリストともに一つになって歩むことで経験する命のことです。父と主イエス様が一つなって歩まれたように、イエス様と信者の関係も同じであり、そこに命があります。

 人は、肉体の鍛錬が有益であることを承知しています。肉体の命のためには、鍛錬は、少しは有益です。全く鍛錬しないと、病気になります。

ヨハネ

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

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4:9 このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。

 この勧めの言葉が、真実に価値あるものであることを示すために、そのまま受け入れるに値することを告げました。

4:10 私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。

→「なぜならば、このために私たちは労苦し、苦闘しているからです。それは、全ての人々、特に信じる人々の救い主である神に望みを置いているからです。」

 訳出されていませんが、「なぜならば」という接続詞が二度出てきます。勧めの言葉が真実であることを示す理由を初めに記しました。それは、パウロの働きの目的はそこにあったからです。すなわち、信者がこの地上で命を経験し、御国で報いを受けるためです。

 後半は、その労苦している理由を示しています。それは、信じる人々が、神が報いを備えてくださるという望みの中に生きているからです。それを達成できるように労苦するのです。

 この望みは、救い主である神に置いています。望みと救いが関連づけられていて、救いは、信者が御心を行なって歩むことで報いをいただくことを指しています。この望みは、報いをいただくことなのです。

 生ける神と表現し、実在の神が必ずそのことを実現していくださることを強調しています。

4:11 あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。

 もう一度、このことについて命じ、教えるように命じられています。この二つの勧めに挟まれた言葉は、最も重要な教えです。

4:12 あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

 そして、その命令と教えが効果的であるために、軽く見られないようにしなさいと命じました。彼は、若いと表現されています。四十歳ぐらいと言われています。年寄りからすれば、若いのです。一般的には、思慮のなさや、軽率な行動が目に付くのです。

 軽く見られないためには、言葉、態度、愛、信仰、そして純潔において、信者の模範にならなければなりません。

4:13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

4:14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。

 テモテの役割は、聖書の朗読と、勧めと、教えです。パウロが行くまで、それに専念するように命じました。専念するのですから、ひたすらそれを行うのです。それは、テモテに与えられた賜物を有効に使うためです。それをしないことは、賜物を軽んじることです。彼には、その能力がありました。その能力は、生まれつきのものではなく、ある時突然に与えられた能力によります。按手を受けた時に与えられたと記されています。そして、それが与えられることは預言されました。ですから、神様が明確な目的を持って与えられたことが他の人々にわかるように与えられたのです。

 それは、旧約聖書を読み、そこから、新約の真理を勧めと教えとして与える能力です。

 今日、このように明らかな奇跡によって賜物が与えられることはありません。聖書が完成しているからです。

 しかし、今日でも、聖霊は、信者を通して業を行なわれます。神様は、肉の働きを用いることはないからです。神の業は、すべて聖霊によってなされます。その最も大きな働きは、信者を神のさまに変えることです。そのように変えられた信者を通して、与えた能力を用いての働きもされます。

 私たちは、自分の持っている聖霊の賜物としての能力を用いることができます。それは、生まれながらの能力ではなく、聖霊によって与えられる能力です。生まれながらの能力が賜物ではないのです。聖霊に満たされて与えられる能力です。生まれながらの能力で何かをしたとしても価値がありません。聖霊による業こそ、神の前に価値があります。

4:15 これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

 人々に教えをすることに心を砕くのです。それは、模範を伴ったものです。ひたすら励むのです。片手間ではありません。そうすることで、彼自身が進歩します。その進歩は、人の目に明らかになります。

4:16 自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。

 これらのことに心を砕いて励むことは、まず、自分自身に気をつけることです。それは、教えの中に生きる模範のことです。彼自身が肉によらず、聖霊による歩みをすることが必要です。肉的なものを入れず、神の御心を正しく、純粋なものとして伝えるのです。

 教えることは、教えの内容について気をつけることです。そのために、テモテはよく聖書を読んだでしょうし、正しく語るために研究したでしょう。語ることが分からないのに正しく語ることはできません。旧約聖書の意味を正しく理解し、新約の教えを正しく教えるのです。表面的な理解や、間違った理解では、正しく教えることができません。その間違った教えを聞く人たちを救うことはできないのです。なぜならば、間違った教えの中に生きたとしても、神様から報いをいただくことはできないからです。教える者の責任は大きいのです。

 そして、働きをあくまでも続けることです。同じことでも、繰り返し教えなければ、なかなか理解されないものです。

 そうすることで、テモテ自身が、報いを受ける歩みをすることができます。正しい教えを知り、その中に生きるからです。

 また、教えを聞く人たちは、真理の教えによってよく教えられ、また、その中に生きるようになります。そうすれば、豊かな報いを受けることになります。それが救いです。