テモテ第一3章

3:1 次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」

 監督は、群れを個人的に訪問し、ふさわしい気付きや世話を自然に行うような働きです。その働きは、嫌々ながらする働きではありません。また、指名されたからする働きでもありません。熱望するような働きです。自ら進んで熱心に行う働きです。それは、聖霊の選びによります。聖霊が監督にふさわしいように成長させるのです。先輩の長老は、それを見極め監督に立てます。執事について、「執事について「も」審査を受けさせなさい」とあり、監督は、審査を受ける必要があります。

 それを求めることは、「良い」すなわち御心に適ったことなのです。

・「真実」→「信頼するに値する」

・「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」→「もし誰かが監督の働きをすることを熱望するならば、良い御心に適った働きを熱望することである。」

3:2 ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、

 それで、御心に適ったふさわしい証しが伴わなければならないです。

一、非難されるところがなく

 どのような点においても悪いところを見つけられないことです。非難や攻撃を受けたとしても、悪い点が見つけられないのです。

二、一人の妻の夫であり

 この言葉の意味するところは、妻を持つ場合、一人の妻であることすなわち複数の妻を持たないということです。

 これは、監督は、必ず一人の妻を持ちなさいとしいうことではありません。結婚することは良いことですが、結婚しないことはもっと良いことです。ですから、結婚しないことで霊的な高嶺を歩む人が監督になれないというのはおかしなことです。

三、自分を制し

 原語では、酔っていないことを意味します。比喩的には、悪い影響を受けていないことを表します。正常な判断ができる心の状態です。ですから、これは、自分を制することとは異なります。直接的な意味として、酒飲みでなくとするのが順当です。心の問題であるならば、酒や、麻薬、精神病の影響を受けていないということになります。一般的には、酒の影響です。

四、慎み深く

 健全なことです。神の前に節度があり、偏っていない均整の取れていることです。

五、礼儀正しく

 秩序だった。この世に対してふさわしい。滅びていく世に対してどうでもいいということにななりません。礼儀のような社会秩序を重んじることが必要です。

六、よくもてなし

 客に対して物惜しみをしないこと。

七、教える能力があり

 この教える能力については、以下の聖句から、御言葉を正しく理解していて、それを他の人に教える能力であることがわかります。

テモテ第二

2:2 多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。

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 教えることは、パウロから聞いたことで、使徒として受けた啓示すなわち今日聖書として記されていることを教えるのです。聖書に書かれていることを正確に理解し、他の人に分かるように教える能力が必要です。

 特に使徒の時代には、聖書が完成していませんから、伝えられたことを正確に次の世代に教えることは大切なことでした。今日、聖書が与えられていることは幸いなことです。聖書の言葉から正確に神様の御心を知ることができるようになっています。ただし、聖書の言葉を、正しく理解する能力が必要です。その言葉が教会で証しされ、兄弟姉妹に影響を与えるからです。また、多くが比喩で記されていますので、聖書の御言葉の理解は単純ではありません。比喩の解き明かしは、聖書の中に記されています。それを調べて解くのです。自分の想像で解くのではないのです。その調べる努力を怠って、類推や単純な言葉の同一性から解くようなことをしてはいけません。比喩は、非常に正確に記されています。その箇所だけに当てはまるような解釈は、避けなければなりません。

3:3 酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、

八、酒飲みでなく

 酒にふけっていることで、常習的に酒を飲む人のことです。

九、乱暴でなく

 打つ人のことです。

十、柔和で

 「衡平すなわち、釣合いが取れていること」また、「法の精神を保つために過度に厳格な基準を緩めることによる真の適正さの意味での柔和」一般的な意味での優しさを意味しません。

十一、争わず

 争いをしないのです。争うことで一致が損なわれるのです。それを避けます。

十二、金銭に無欲で

 お金を非常に欲しがるということをしないことです。

3:4 自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。

十三、自分の家庭をよく治め

 これは、具体に治める行為のことではなく、それをするために備えることを表しています。ですから、普段現れる行動としては、模範を示すことで、指導する場合に適用されるならば、模範をもって指導することです。

 これらは、「なければなりません。」と記されているように、義務です。原語「G1163 dei」は、「必要である」という意味です。そうあったら望ましいというような弱い勧めではなく、監督には、必要なものとして求められています。

・「よく治め」→ 他を指導するための必要とされる模範を備える性格を予めよく打ち立てておくこと。

3:5 自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

 家庭において、模範によって家族を指導し治めていることが必要です。神の教会の指導は、家庭における子供に対する指導よりも難しいのです。親子の関係は、深い愛情によって結ばれています。そして、身近にいることで相互理解もあります。最悪の場合、子供を無理やり言うことを聞かせることもあります。しかし、教会では、多くは、血の繋がりがありません。兄弟姉妹の関係は、肉の家族よりも深いものですが、実態は必ずしもそうではありません。教会の集会で顔を合わせるだけでは、相互理解もあまり進みません。わがままな人に対して、あるいは、言うことを聞かない人に対して、忍耐を持ち、柔和をもって接することになります。日常において、家庭で常に模範となるような歩みをしている人でなければ、教会で指導することはできないのです。

・「世話をする」→これは、模範による指導のことです。家庭にあって子供を指導する方法について始めに示し、それを集会に当てはめています。

3:6 また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。

 監督者が兄弟姉妹を正しい判断基準で裁くことができなければ、悪くないことでも悪いとして裁くことになります。いわば、中傷することと同じです。

 これは、霊的判断力の不足という問題ですから、必ずしも年の老若に限りません。信者になったばかりで霊的理解力が不足している人が監督になれば、同様のことが起こるのです。ですから、監督は、聖書の言葉についてよく知っていなければならないのです。そして、正しく判断する能力を持っていなければなりません。

 彼は、悪魔の裁きを受けることになります。これは、永遠の地獄に落ちることを意味していません。彼は、信者であり、地獄に入ることはありません。しかし、悪魔と訳されている語は、悪魔の働きのうち神の業を破壊することで神を中傷するという働きの面を強調しています。中傷する働きをするのであれば、神の業を破壊するのです。彼は、中傷者として裁きを受けます。

・「高慢」→「理解力の不足による混乱した考え方」

・「悪魔」→「中傷する者」形容詞、定冠詞付き。悪魔の働きのうち神の業を破壊することで神を中傷するという働きの面を強調しています。

・「高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。」→「霊的理解力の不足による混乱した考え方になって、悪魔の裁きを受けないためです。」悪魔の中傷者として働く神の御業を破壊する者が受けるのと同じ裁きを受けること。

・「裁き」→悪い面と良い面の両方の評価を意味します。永遠の評価です。

3:7 また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

 評判の悪いようなことが行われて、神の前に悔い改めたとしても、証しは損なわれるのです。人から嘲られるのです。

・「悪魔の罠」→悪魔は、神の業を破壊し、証しを損なわせる。そのための罠を張っている。神を中傷するため。

3:8 同じように執事たちも、品位があり、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利を求めず、

 彼らについては、品位すなわち威厳があり堂々としていることが求められています。それは、自分の行動について、あるいは語ることについて確信を持っているからです。語ることも行動もおどおどしていることは、確信がないのです。特に、語ることについては、正しく理解し、確信をもって語ることが必要です。間違ったことを確信をもって語ることは害ですが、確信をもって語ることができるように、いつでも正しく理解していることが必要です。ただし、これは、威張った態度を取ることではありません。

 二枚舌を使わないことは、一貫した教えを保っていることを表しています。自分の語ることが御言葉に適った根拠に基づいているならば、そのような誤りに陥ることはありません。

 大酒飲みでないことです。そのような人は、欲に溺れる人であり、彼の行動自体が証しを損なうことをわきまえていないのです。証しを損なう失敗をしやすいのです。

 不正な利を求めることは、自分の欲のために罪を犯しているような人のことです。欲に支配されて真理を否定する人が執事には相応しくありません。

・「執事」→「仕える者」のことで、埃を巻き上げるほどに熱心に仕える者のことです。

・「品位がある」→「威厳がある」深い尊敬を受けるにふさわしいこと。

・「二枚舌」→一方に言うことと他方に言うことが異なること。

3:9 きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人でなければなりません。

 ここには、執事の基本的な条件が示されています。それは、その人の霊的状態です。

 清い良心は、混じり気のない純粋な良心のことで、他の誤った教えや自ら出た考えが入っていないことを表しています。良心は、その人の教えや判断の基準です。この良心が信仰の奥義に整合している必要があります。単に正しい知識を持っているというだけでなく、その人の良心がその正しい教えに整合していて、その人の行動の基準になっていることが必要なのです。

 また、御言葉を受け入れていると言っても、誤った解釈で理解していれば、清い良心とは言えません。清い良心が必要です。

 十一節以降は、執事の条件の証しの面について記されています。

・「奥義」→明らかにされた隠されていたこと。これは、新約の真理のこと。なぜ「奥義」と言うかというと、律法を文字通りに守るように主張する人たちがいたからです。キリストに関する教えの多くは、奥義であるからです。

3:10 この人たちも、まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事として仕えさせなさい。

 「この人たちも」と記し、監督も、執事も審査を受けさせるのです。その審査では、非難されることがないかを審査します。ですから、その人持っている教えが正しいものであるかどうかが少なくとも審査されます。そして、次節以降は、その人の証しについて記されていて、その点に関しても審査されることになります。

3:11 この奉仕に就く女の人も同じように、品位があり、人を中傷する者でなく、自分を制し、すべてに忠実な人でなければなりません。

 執事の妻たちは、このようでなければならないと記されています。それは、執事の証しの力は、妻の状態に強く依存するからです。妻が非難される点を持つならば、執事の証しが損なわれます。例えば、夫が執事として御言葉を取り次いでいる時、妻が居眠りをしているならば、その働きは、台無しになるのです。

 品位があることは、御言葉に適った歩みによって確信をもって堂々と威厳がある歩みをしているからです。尊敬を受けるにふさわしい歩みであるのです。

 人を中傷しないのです。執事は、教会が御心に適った行動を取るように仕えるのです。それなのに、その妻が人を躓かせるような中傷する者であってはならないのです。執事の働きと矛盾します。

 自分を制しとは、原語では、酔っていないことを意味します。比喩的には、悪い影響を受けていないことを表します。正常な判断ができる心の状態です。

 全てのことにおいて忠実であることです。もちろん、御言葉に関することについては、特に忠実でなければなりまん。

・「この奉仕に就く女の人」→「女、妻」複数。「この奉仕に就く」は、補足。同じ語は、十二節などでは、「妻」を指していることは明らかです。女は、父の元にある娘か、妻です。彼女らは、父あるいは夫の許しなくして事をなすことはできません。そして、執事とは、仕える者のことで、教えをなすことも含まれます。そのような働きに女がつくことはできません。ここでは、文脈から、「妻」とすべきです。ここでは、執事に求められている資質についての流れで記されているからです。

 また、複数であることは、一人の執事の一人の妻ということに反しません。ここでは、執事たちについて論じています。一人の執事の妻という立場で論じていないので、単数になっていません。妻たちも、複数で捉えられています。執事たちは、複数であるのです。そして、妻たちも複数です。それ以外の取り扱いをしていないことで、執事は、一人の妻を持ち、家庭を持つ人たちなのです。

3:12 執事は一人の妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。

 そして、その証しは、家庭においてどのような者であるかに強く依存します。

 一人の妻を持つ夫です。妻が一人であることが条件です。

 子供と家庭をよく治める人です。

 執事については、審査を受けさせることになりますが、審査する者は、ここに示されていることをもって審査することになります。

 ちなみに、執事については、一人の妻の夫と明確に定義されていますので、男です。女の執事については定義されていません。そして、複数で扱われています。

3:13 執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。

 執事として立派に仕えた人は、良い仕え方をしてきた人です。その人は、神の御心に適って行動するということを訓練されてきた人です。そのような人は、神の御心に適ってこれからも良い状態を保ち続けるのです。

 さらに、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い信頼を持つことができるのです。確信と訳されていますが、信頼する点における確信です。

・「立派に」→「良く」副詞。

・「良い地歩を占め」→「良い(もの)を保ち」良いは、形容詞。地歩という地位として解釈しているが、原語にそのような意味はない。また、集会にそのような地位のようなものはない。この「良い」は、神の目に適っていることの意味で良いのです。「良い(霊的状態)を保ち」立派に仕えることは、良い状態で仕えることですが、そのような人が「良い」霊的状態を保つことができるのです。

3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。

3:15 たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。

 この手紙は、神の家である教会において、どのように行動すべきかを知っておいてもらうために書かれました。パウロが遅れても、テモテが正しく行動できるためです。

 その神の家で、手紙の教えのように行動する必要があるのは、神の家は、真理の柱と土台であるからです。真理の柱とは、真理を証しすることを表しています。集会は、真理を実践によって証しするのです。ですから、真理に適った行動が必要なのです。また、真理の土台なのです。土台は、教えを表しています。真理を教えによって教えるのです。その教えは、実践を伴った証しが必要なのです。

3:16 だれもが認めるように、この敬虔の奥義は偉大です。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

 ここでは、動詞は、全て受動態で記されています。それは、キリストが何かをしたということではなく、第三者からどのように評価されたかを示すためです。証しなのです。

 肉を持たれたことさえ、受動態で示され、神がそうされて、そのままに行動されたことを表しています。また、私たちと同じ肉を持つ立場に置かれたことを表しています。キリストの敬虔の偉大さは、その肉を持つ中で現されるようにされたのです。

 霊において義と宣言されたことは、この方が神の御心の全てを正しくそのまま受け入れられたことを表しています。これは、きよい良心で信仰の奥義を保つことに相当します。

 御使いに見られたことは、この方の証しの面を表していますが、御使いは、霊的存在です。人の目に見えない霊の世界から見て、御使いから賛美を受けるに相応しいとされた方です。

 諸国の民の間で宣べ伝えられて、証しされたのです。その証しは、全世界の人に対する証しなのです。

 世界中で信じられました。それは、信じるに値しない相応しくないものを持っていないことを表しています。

 栄光のうちに挙げられたことは、神が評価して、栄光を与えるに相応しいとされたことを表しています。

 このような証しが求められています。

・「だれもが認めるように」→明白に。

・「肉において現れ」→「肉において現され」