テモテ第一2章
2:1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
2:2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。
テモテへの命令は、きよい心、健全な良心、偽りのない信仰から出てくる愛を目標としていました。そのような目標に対して、彼らの置かれる環境が守られることは幸いです。そのために、すべての人と、王たちと全ての高い地位にある人のために祈るのです。それは、いつも敬虔で品位を保ちつつ、平穏で落ち着いて生活を送るためです。
・「平安で落ち着いた」→「平穏で落ち着いた」平安という心の問題ではなく、生活が平穏であることです。
2:3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。
そのような祈りが神の前に良いことであり、喜ばれることであることを示しました。「良い」とは、神様の目にかなっているという意味です。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
この「救い」は、御心を行う者となることを表していて、それは、御国での報いを約束しています。真理を知るようになることが救いの後に記されています。真理は、神の御心を行うことですが、この真理を知ることは、体験を通して知ることです。それが神がしようとしている御心です。
コロサイ
1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
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私たちが新しくされ続けることで、真の知識に至ります。その知識は、御心を知る知識と、神を知ることです。それこそ真理を知ることであり、それは、信仰の歩みを通して獲得することができるものです。「至る」という語がそのことを表しています。
・「すべての人」→適用される部分の全体。神にとって救われるのは選ばれた人だけです。
・「望んでおられる。」→御心である。神がそのようにしようとしている。
2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
新しい契約に関しては、約束された神は、唯一であり、仲介者も唯一なのです。唯一であることは、他にない、類の無いことを表しています。他を締め出すことを強調しています。
仲介者は、人としてのキリスト・イエスです。人として、契約のすべての条項を達成された方です。その方が人に働かれて、契約を達成するように働かれるのです。すなわち、信者が神の御心を行う者となるように働いて、信者が契約を果たし、契約の祝福を受けるために働かれるのです。
・「仲介者」→正しくは、律法あるいは契約に規定されたすべての条項の達成を保証する者。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証し(証言)です。
この節は、五節に続いていて、最後の句「イエス・キリストです。」を受けて、この方が御自分をお与えになったことが記されています。これは、仲介者としての働きに関して、贖いのためには御自分を与えられたことが示されていて、仲介者としての働きが深い愛によること、また、御自分を与えるほどの徹底さで行われることを表しています。これが仲介者としての証しなのです。どれほど契約を行わせることに熱心であるかを示したのです。
2:7 その証し(証言)のために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。
その証言のためにパウロは、宣教者とされました。罪赦され、御言葉に従うことによって報いを相続することを伝える者とされるのです。もちろん、まだ神を信じていない者に対しては、信仰による罪の赦しをまず伝え、信仰に導きます。その上で、信者に教え、御言葉に歩むように変えるのです。これは、一つのことですが、罪の赦しに関しては、信仰によること、その後の歩みと混同することがないように注意して伝えなければなりません。ただし、未信者に関して、信仰を持つことが完成ではなく、神の御心を行う者なることがその目的です。
また使徒とされました。復活の証人であり、教会を起こす務めを担い、教えの啓示を受けた者です。
また、異邦人の教師です。信仰と真理を教える者です。
これが真実であると言いました。彼の働きは、神の御心に沿ったことであり、そのために任命されていることを明確にしたのです。これが正しい信ずるに値する命令であり、テモテが信頼をもって実行できるようにしたのです。
2:8 そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。
そのように神の御心を行う者となることが人のあるべき姿です。それを踏まえて勧めています。
まず、男については、その性質から怒り、争いやすいのです。しかし、そのようにするのではなく、神に祈るように勧めました。怒りや、争いは、自分の思い通りにならないことから生じます。それは、自分の考えを中心に判断しているからです。言い換えるならば、神の主権を認めていないからです。ですから、神に祈るように勧めました。祈ることは、全てを神に委ねることです。そこに、怒りや争いはありません。全ては神のなさることとして受け入れることができるからです。
どこででもそのようにするのです。きよい手を上げて祈ることは、自分自身が神の前に責められることのない者として立つことを表しています。清い歩みがあり、また、清い心で祈るのです。肉的な行いや思いを入れないのです。
なお、きよい手は比喩です。清い行い、清い生活をしていて、その上で祈ることが求められています。なお、手をあげることが物理的な行為であるとするならば、手がきよいとは、清潔か汚染されていないことを意味することになります。旧約聖書に手を上げる記事が記されていますが、それは、清い歩みの霊的比喩を意味しています。また、手を上げる人は、その比喩的意味を踏まえて手を上げるのです。
2:9 同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、
2:10 神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。
女については、その美しさを外に現すことを求める傾向があります。そのために、派手な髪型、金や真珠で飾ること、高価な衣服を着ることをしてそれを実現しようとします。しかし、それをすることは、自分を現そうとすることであり、肉の現れなのです。むしろ、自分を飾るならば、良い行いを飾りとするように勧めました。それは、神を敬うところから出てきます。良い行いによって、神の栄光が現されるのです。自分を現しても、神の前には、価値がありません。神を敬い、神の栄光が現れることを求める人は、良い行いを飾りとします。そして、神の前には価値のない、むしろ喜ばれない自分を現すものを捨てるのです。それで、慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾ります。
・「慎ましい身なり」→「きちんとした身なり」すなわち、よく整えられた身なり。整然としている身なり。
・「控え目に」→「恥じらい(人に対して)、崇敬(神に対して)」原意は、「恥じる」ことです。それは、自分を現すような態度ではなく、自分を覆う態度です。
・「慎み深く」→「自己制御された」「特定の目的に適しているという意味で「節度」。特定の目的は、神の栄光の現れということです。そのためにふさわしい節度があるということです。単に慎ましいでは、人の考え方、感じ方で異なります。しかし、神の栄光という基準に照らしてふさわしいかどうかを基準とすることで、節度を判断することができます。
2:11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。
教えを受けた時、その教えを行うように黙って教えを受ける静かさです。自己主張によってその教えを拒むこと、あるいは、行わないことと反対のことです。
教えられたことの全てについて従う心をもって学ぶのです。
・「静かに」→「静か、穏やかさを伴う静かさ」「黙って」「それは、神から与えられる静かさであり、該当する行動を行うように支える内面の静穏を含みます。これは、話をしないということを意味しません。」
・「よく従う」→「完全な服従」従わないことがない。「よく」は、原語では「全て、全体」を意味します。どのような教えにも従う心で聞くのです。
・「学ぶ」→その人の知識を増すこと。理解すること。
2:12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。
女が教えたり、男を支配したりすことは許されません。女は、その教えを行う心もって黙って教えを受けるのです。その教えの一つとして、この教えがあります。時代が変わり、社会が変わっても、神の教えは変わりません。ですから、このことは、堅く守られなければならないのです。
そして、静かにします。これは、この節の前半の女が教えたり、男を支配することと対比されています。少なくともそれらをしないことが静かにすることの意味することです。それは、教えるという言葉を発することだけでなく、男を支配することは、必ずしも言葉を口に出すこととは関係しません。
ただし、教会で、女は、語ることは許されていません。
コリント第一
14:34 女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。
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2:13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。
その理由は、神様が初めに男を造り次に女を造られたからです。神が、そのような秩序を立てられたからです。教会は、神の栄光を現すためにあります。神の定めのとおりにそれを認めて従うことで、神の栄光が現されます。
有能な女性もおられますが、神様が人をそのように創造されたのです。それにふさわしく行動することで、神の教えに適う真理を現すことができます。
2:14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。
さらに理由があります。アダムは騙されませんでしたが、女は、教えに関して騙されたというエバの経験があります。彼女は、教えを正しく理解して受け入れていませんでした。蛇に騙されたのです。その上、その食べ物がもたらすものの魅力に負けたのです。
これは、アダムとエバの固有の問題ではなく、男と女の違いとして適用されています。女は、教えの惑わしと誘惑に弱いということです。
ちなみに、男は、女の差し出した物を共に食べました。男は、騙されたのではなく、蛇の教えの誤りを承知して食べたのです。妻が食べたので、妻とともに死ぬ道を選んだのです。
2:15 女は、慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われます。
この節には、接続詞があり、「しかし、そして」などの意味があります。前節の内容は、過ちを犯したことについて記していて、本節では、肯定的な内容で記されていますので、ここは、「しかし」とするのが順当です。過ちを犯し、教えや指導の役割を担うにふさわしい者でないことが明らかにされましたが、救われる道があるのです。
「救い」は、永遠の裁きの滅びからの救いではなく、御国において報いを受けることです。この「救い」については、四節に記されている「救い」と同じものを指しいます。四節の「救い」は、すべての人が「救われる」ことを望んでおられますが、全てとは、すでに触れたように、信者のことです。信者が報いを受けるようになることが神の御心です。
ここでは、女もその働きによって報いを受ける道があることを示しているのです。それが「子を生む」ことです。具体的な行いに対する報いです。ただし、条件があって、信仰と愛と聖さにとどまることが必要です。そして、子を生み育てることは、神の御心に適ったことであり、神に喜ばれることです。神が女に与えた役割なのです。それを果たすならば、報いがいただけるのです。子を生むことは、女に与えられた神様の働きなのです。それ故、御心にかなった方法で生み育てる必要があります。そのことを示しているのが、信仰と愛と聖さを保つことなのです。具体的には、彼女自身が御言葉を信じ、実践することです。そして、神の御心を行うことで聖さを保つことです、肉的なものを現さないし、この世の物を求めないのです。実は、この事は、子を育てる上で極めて大事なことで、子に対して教えと模範を示さなければ、子を霊的な子に育てることは難しいからです。教えに矛盾したことを現してはならないのです。
信仰は、神の言葉をそのまま受け入れる信仰であり、その言葉の中に生きることです。
愛は、受け入れた御言葉の実践です。教えの実践は、突き詰めれば愛なのです。
聖さは、主によって、神のようになるように変えられていくことです。
そして、子を生むことは、単に出産することではなく、子を育てることです。彼女は、子を育てる中で、子に対する愛と責任として、その子の祝福のために導きます。それは、彼女が歩んでいる道と同じで、信仰と愛と聖さに歩むことです。それが、子の永遠の祝福をもたらします。彼女は、子の導き手として、模範者として歩むのです。
彼女がこの世のものを求めるような自堕落な生活をしていたら、模範にはならないのです。しかし、彼女が子を愛して、その幸いを考える時、彼女は、誘惑に陥ることから守られるます。そのことは彼女を聖さに歩ましめる動機になります。このことも、彼女が誘惑から守られ、報いを受ける助けになり、彼女が救われるということに関しての一つの面でもあります。
・「慎みをもって」→「自己制御された」「特定の目的に適しているという意味で節度」特定の目的は、神の栄光の現れということです。そのためにふさわしい節度があるということです。単に慎ましいでは、人の考え方、感じ方で異なります。しかし、神の栄光という基準に照らしてふさわしいかどうかを基準とすることで、節度を判断することができます。