テトス3章

3:1 あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。

 支配者と権威者に服従することを求めました。そして、良い業を行うのです。進んでするように注意を与えるのです。

 社会にあっても、良い業によって証しを立てなければならないのです。

 この章の前半の主題は、良い業を行うということです。「良い」は、本質的な善で、神の目に適ったことです。

3:2 また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。

 そして、中傷せず、争いをせず、柔和に接するのです。全ての人にあくまでも柔和に接するのです。

・「柔和」→公平な柔和。御言葉を(厳格に適用するのでなく)適切に満たす真の公平な柔和。

・「礼儀正しい」→控えめで柔和な力強さ。

3:3 (なぜならば)私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

 その理由が示されていて、以前は、愚かで、不従順すなわち反抗的で、惑わされ、迷っていた者です。これは、教えが彼らに入っていなかったことを表しています。

 欲望と快楽の奴隷でした。これは、肉に従った歩みであったことを表しています。

 また、悪意と妬みの中に生きてきたのです。憎しみに満ち、互いに憎み合う者でした。

 これらのことを捨てて、あくまでも柔和な者となるのです。御言葉に立つ正しさと共に優しさを伴うのです。

 以前の状態を示すとともに、神の言葉に従って良いことを行うことができない原因について示しています。

3:4 しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、

 神は、救い主としてまず御自分のいつくしみを現されました。慈愛です。そして、「人に対する愛」を現されました。この語は、一語です。

 初めにこのことを示したのは、次節で神が契約を果たされることで、救いを与えることが語られるからです。契約を果たすにあたって、慈愛と人への愛によってなされたのです。機械的に行ったのではないということです。

3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

 神の救いは、永遠の命の望みとしての御国での報いの相続です。神の救いは、次のようにして実現しました。それは、私たちの義の行いによるのではありません。意外なことですが、人の義の行いではないのです。御霊による行いなのです。結果的には人の行いなのですが、御霊による行いです。それは、神の業です。

 まず、御自分の「あわれみ」によりました。このあわれみは、同情という意味ではなく、契約に対する忠誠のことです。慈愛と愛については、前節ですでに示されています。それを踏まえ、ここでは、神の行動は、契約によったことが明確にされています。聖霊による救いは、契約によるものであり、人の側にも契約を守ることが求められます。具体的には、信仰によります。その時、御霊が働かれます。

 神の業は、具体的には、救ったということです。この救いは、いわゆる救いの立場を与えたということではありません。ここでは、聖霊による働きであることが示されています。一つは、聖霊による「再生」です。これは、「新生」とも訳される語で、死んだ者が生きること、あるいは、生まれ変わることを表します。聖霊によって新しく生まれさせたということです。罪(人の内にある罪)のために死んでいた状態から、聖霊によって歩む状態へと新しく生まれさせられたということです。

 なお、この状態は、心に信じて義とされたことから進んで、バプテスマと関連付けられていて、罪に対して死に、新しく生まれた歩みの初めを表しています。信じてすぐに新しく生まれた者としての歩みがあることは、最も幸いなことです。信じたときに御霊が与えられるのですから、その時から御霊に明け渡すことは当然なのです。

 次に、「刷新」は、良くない状態を全く新しくすることです。「一新」とも訳され、新しくすることが強調されています。すなわち、以前のものを引きずらず、全く新しくされることです。これは、肉にはよらず御霊による完全な歩みを指しています。

 そのような歩みに対して御国において報いが与えられるのです。それを救いと言っています。そのことは、七節の「永遠のいのち」と「相続人」が関連付けられているように、この救いは、永遠の命をもたらしますが、それは、相続人となることです。相続とは、御国を相続するのであり、報いとしての資産を相続することです。

 これらは、洗いと記されています。汚れを落とすために水で洗うのです。聖霊の聖めの働きです。

 

3:6 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

 聖霊は、神から来ますが、主イエス・キリストによって注がれたのです。聖めの働きは、キリストの働きとして行われることを表しています。直接働かれるのは聖霊ですが、聖霊を注がれたのは、主イエス・キリストです。

 豊かに注いだことは、聖霊の強力な働きによってそれを実現されることを表しています。

3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。

 相続人になることは、確定したことではなく、永遠の命としての報いを相続するのは、それを望んで、聖霊によって歩む人だけです。聖霊の新生と刷新の洗いは、相続人になるという目的のためであることがわかります。逆に言うならば、聖霊によって歩まなければ、相続人にはなれないのです。全く相続しないのではなく、聖霊によって歩んだ分、相続します。

 「義と認められる」ことは、ここでは、イエス・キリストに対する信仰によって義とされることです。それは、恵みです。神様が救いを備え、信じる者には誰にでも与えられるものです。しかし、それで満足してはならないことが示されています。私たちは、相続人になるのです。そして、永遠のいのちを受け継ぐのです。それは、地獄に落ちることがないというだけの永遠のいのちではなく、御国において報いを相続するという永遠のいのちです。それを望みとするのです。

3:8 このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。

 テトスに対して、この言葉が真実であることを改めて言いました。それは、彼自身がこの言葉を確信をもって受け入れる必要があるからです。そうでなければ、彼は、確信をもって他の人々に語ることはできません。自分が確信していないことは、確信をもって語ることはできないのです。確信のない言葉を誰が信用するでしょうか。誰がその中に生きようとするでしょうか。

 この言葉を伝えるのは、前節の内容を受けています。良い業を行うことは、「良いこと」であり、神の目に適っています。それだけではなく、人にとっても有益です。それは、御国で報いを相続するからです。私たちが、良い業に対する報いを望みとするならば、良い業に励む者となります。これは、強い動機付けになります。

 「神を信じるようになった人々」は、「キリストの恵みによって義と認められている人」に対応します。「良い業に励むことを心がける」ことは、「永遠のいのちの望みを抱く」ことに対応します。そして、相続人になるような良い業に励むのです。

3:9 一方、愚かな議論、系図、争い、律法についての論争は避けなさい。それらは無益で、むなしいものです。

3:10 分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。

「分派を作る者」は、九節の愚かな議論などをする人を受けてのことで、自分の意見の主張によって分派を作る人のことです。その意見を主張する人と、その意見に賛同する人を含みます。

 その意見は、無益で空しいものです。価値がないのです。

 自分の意見の主張によって分派を起こすような人に対しては、一二度訓戒するように命じられています。それでも聞かないで、自説を主張する人に対しては、丁重に語るのを断るのです。

・「除名」しなさいと訳されている語は、丁重に断ることです。この「除名する」と訳される動詞は、原語の意味からは、かけ離れています。むしろ、「丁重に語るのを断る」ことです。自説を語るのをやめてくださいとお願いすることです。他の箇所では、いずれも、「~しないように断る」意味で使われています。

ルカ

14:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』

→「断り」が該当。

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3:11 あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。

→「そのような人は、堕落していることを知っていて(知りながら)、罪を犯し、自分を死に定めています。」

 信仰によって義とされていますが、その間違ったことを語る働きは死です。神の前に死んだ行いで、実を結ぶ事がないのです。報いもありません。彼らは、悪いと知りながら、それを行なっており、改めることをしないのです。

・「ゆがんでいて」→「堕落している」

3:12 私がアルテマスかティキコをあなたのもとに送ったら、あなたは何とかして、ニコポリスにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことにしています。

 テトスのクレタの仕事は、終わりに近いことがわかります。

3:13 律法学者ゼナスとアポロが何も不足することがないように、その旅立ちをしっかりと支えてあげてください。

 また、ゼナスとアポロを支援するようにさせました。

3:14 私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。

 テトスに、ゼナスとアポロの支援を要請しましたが、それは、テトスだけの働きだけではなく、パウロと共にいる人たちもそのような人の必要を満たす良い業をするように励むことを教えられなければならないと語り、皆がそれを実践することを求めています。

3:15 私と一緒にいる者たちがみな、あなたによろしくと言っています。信仰を同じくし、私たちを愛してくださっている人たちに、よろしく伝えてください。恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

 この「恵み」は、イエス様が信者のために備えてくださったものです。それは、永遠の滅びからの救いということから始まりました。そして、信者は、今も恵みを受け取ることができます。御国で受ける報いとしての永遠のいのちです。それは、御言葉に示されているように、罪に対して死に、御霊によって歩むことで与えられます。さらに、この地上にあっても、主と一つになって歩むこと自体が、永遠のいのちです。それを信仰によって獲得するのです。