テトス2章
2:1 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。
前章の最後には、不健全な働き人について記しました。彼らは、教えをする人たちですが、神を知っていると言いながら行いでは否定している人たちであり、どんな良い業にも不適格なのです。それと対比して、テトスについては、健全な教えにふさわしいことを語るように命じました。
・「健全」→確かな。適切な。正当性がある。信頼できる。
2:2 年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。
その具体的な教えが列挙されています。まず、年配の男の人に関してです。
自分を制することを教えるのです。年配であるならば、自分を制することを知っているように考えられますが、多くは、自制が効かなくなるのです。年寄りが頑固でわがままになることは、年寄りの特徴として知られているところです。
むしろ、列挙された性質を現す者になるように勧めるのです。
・「自分を制し」→酔っていないことが原意です。節度がある。自制した。温厚な。真面目な、謹厳な、落ち着いた。悪い影響を受けていないことです。
・「品位を保ち」→謹厳であること。威厳があり敬意を抱かせる。
・「慎み深く」→慎重な。分別がある。外に現れる振る舞いを規制する内面の態度。神の視点からよく均整が取れていること、一方に偏らない。正しく制御が保たれていること。
・「信仰と愛と忍耐において健全」→信仰は、神を信じ、その言葉を正しく受け入れ、神に信頼していることです。
愛は、聖霊の実です。人間的な考えや、肉による愛ではありません。その健全さが保たれていることが必要です。
忍耐は、永遠の命の望みを覚えることで健全に保たれます。受け継ぐ宝としての資産に心を留めることで、忍耐することができます。
2:3 同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
次に、年配の女の人についてです。
神に自分を捧げて聖なるものとされている者にふさわしく、振る舞うのです。
具体的には、人を中傷しません。これは、旧約の律法にも命じられていることです。事実に反する非難をすることです。また、陰口を言うことをしないことです。
大酒の虜にならないように勧めます。年寄り女は、酒の奴隷になることがあるのです。
却って、良いことを教える者になることが求められています。これは、一語ですが、目を引く良いことを教える先生であることです。神の目に適った良い教えのことです。
・「神に仕えている者にふさわしい」→形容詞。一語。神に捧げられたすなわち聖なるものにふさわしい。
・「中傷する」→形容詞。事実に反する非難をすること。また、陰口を言うこと。この語は、「悪魔」を表すときに用いられます。
2:4 そうすれば、彼女たちは若い女の人に、夫を愛し、子どもを愛し、
2:5 慎み深く、貞潔で、家事に励み、善良で、自分の夫に従順であるように諭すことができます。神のことばが悪く言われることのないようにするためです。
彼女たちの教えの具体的な内容が記されています。これは、家庭においてどのように女が振る舞うべきかについての教えで、若い女たちに教えることできます。女が男を支配することは許されていませんので、男に教えることはできません。
この働きを年配の女の誰もができるわけではありません。前節に記されているように、神に自分を捧げた者にふさわしい歩みをしている人が、このような教えをすることができます。自分が実践して来なかったならば、教える資格はありません。
まず、夫を愛することです。それは、キリストを愛することの実践です。夫を愛していない者がキリストを愛しているという証しを担うことはできません。
子供を愛します。人として愛するのは当然です。神が造られたからです。それとともに、神に与えられた尊いたましいとして、愛します。神に相応しくなるように導きます。
慎み深いことは、内面が外に現れます。自分を制御することです。主からの信仰により、内面に生まれる根本的な均衡のことです。
貞潔は、聖いことですが、性的な清さも表します。
家事は、彼女に任された仕事です。忠実に行うことが相応しいのです。家事を軽く見てはいけません。最後の言葉が表しているように、それに励まないならば、神の言葉が悪く言われるのです。
善良は、信仰によって神からもたらされる善です。人間的な良い人という意味でなく、神の目に適った善を行う人です。
自分の夫に従順であることです。夫に服従することは明確に命じられています。御言葉に従わない夫であっても、服従するように命じられています。夫の上に自分を高く置くことは、神の言葉が謗りを受けることになります。
そのように、家庭において女がどのようにあるべきかを諭すことができるのです。彼女自身がそのような歩みをしてきた者として、模範を示し、諭すことができます。
・「慎み深く」→G4998形容詞。主からの信仰により、内面に生まれる根本的な均衡。偏らない。
・「貞潔で」→清いことですが、性的な清さも表します。
・「善良で」→信仰を通して、神から出て来る善であり、神によって力を与えられる善。
2:6 同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。
若い人には、あらゆる点において思慮深くあるように勧めます。一時の衝動によって不適切な、偏った行動するようなことがあってはいけないのです。
・「思慮深くある」→G4993「慎み深くある」動詞。主からの信仰により、内面に生まれる根本的な均衡。偏らない。
2:7 また、あなた自身、(すべてのことにおいて)良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、
テトス自身についても勧めました。すべてのことにおいて良い業を模範として示すのです。まず、模範が必要です。そして、教える者として、教えることにおいて、腐敗がない者でなければなりません。すべての教えが健全であることが要求されています。偽り、間違ったこと、肉的な教え、自分の考えの主張など、入れてはならないのです。
そして、品位を保つことが求められます。それは、良い歩みの積み重ねによって築かれます。
・「偽りがなく」→腐敗がない。
・「品位」→尊敬に値する真剣さ、真面目さ、重さ。
2:8 非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。
用いる言葉は、非難する余地がない健全なものでなければならないのです。語られることが正しいものでなかったら、非難を受けるのです。これは、敵対する人の攻撃に耐えるためです。教えが正しくなければ、対抗できないのです。
敵対者は、非難することができなければ恥いることになります。
2:9 奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、
2:10 盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
奴隷に対しては、あらゆる点で主人従い、主人に喜ばれる者となるようにさせるのです。それが奴隷にふさわしい振る舞いなのです。主人に服従しない奴隷は、奴隷としての証しを損なうのです。
また、口答えをしないよう、盗んだりしないようにします。それは、いつも善良であり、信頼が置けるということを証しするためです。
このように振る舞うことで、神の教えを飾る者になります。神については、「救い主である神」と表現されていて、奴隷のそのような行いに対しては、報いとしての資産を受け継ぐ「救い」があることが示されています。そのことは、次節以降に明確にされています。
2:11 (なぜならば)実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。
その理由が示されていて、この救いが将来もたらされることが示されています。それは、神の恵みとも記されていて、神があらかじめ用意していて、信仰によって受け継ぐものであることがわかります。その信仰とは、神の言葉を信じ、その中に生きる信仰です。奴隷が、神の言葉を飾るような良い歩みをするならば、すなわち、主人に服従し、奴隷にふさわしい歩みをするならば、神が永遠の祝福を与えることを救いと言っているのです。
そして、この救いは、すべての人に備えられています。
2:12 その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
今までの全ての世代に対する教えは、一言で言えば、敬虔に生きることです。それを喜んで行うことができる理由を明確にしました。それは、すべての人に救いをもたらす恵みが現れたからです。救いとは、命の望みを受け継ぐことです。ペテロは、天の資産と言っています。それは、「恵み」として与えられました。恵みは、神の備えた祝福ですが、信仰によって受け取ることができます。全ての人が必ず満額を受け取ることができるわけではありませんが、信仰によって歩んだ人が受け取ることができるので、「恵み」と表現されています。
その恵みが教えていることは、敬虔に生きてキリストの現れを待ち望むことです。そのときには、敬虔に歩んだことに対して、キリストが裁きの座で大いなる報いを与えるからです。ですから、キリストの現れは、祝福された望みとも、栄光ある現れとも記されています。私たちも、報いとしてその栄光に与るからです。
このような望みを動機として、この世にあって、不敬虔と肉の欲を捨てて歩むのです。敬虔は、神にふさわしい者になることですが、それを否定するような歩みを捨てるのです。また、肉の欲も捨てます。人は、肉に引かれて罪を犯すのです。また、神の御心を行うことができないのです。聖霊の働きを妨げるからです。そのようなことを捨てて、喜んで、慎み深く、正しく、敬虔に生活するのです。それが大いなる報いである資産をもたらすからです。そこに目を留めるならば、喜んでそれができるのです。
ペテロ第一
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
--
・「慎み深く」→G4996副詞。主からの信仰により、内面に生まれる根本的な均衡。偏らない。
・「正しく」→法に照らして正しいこと。
・「敬虔に」→内面が敬虔であること。
2:14 キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
この節は、前節からの続きで、栄光ある現れとなるキリストを関係代名詞で受けています。そのキリストは、私たちに祝福に満ちた望みを実現するために、ご自分を私たちのために与えました。これは、キリストが信者を聖める働きのために与えたことを指しています。単に罪の赦しを与えるためにご自分を与えたことだけを指しているのではありません。十字架の御業は、私たちを滅びから救っただけではありません。十字架は、キリストの大いなる愛の現れであり、それは、私たちを聖めるために強い動機づけとなり、大きな力となっています。
私たちを聖めるその働きは、御霊によりますが、信仰によって心のうちに住まわれるキリストによることです。キリストの愛によって働く信仰により、また、うちにおられるキリストの働きによって、人はキリストと同じ者に変えられ、神のさまにまでなるのです。
全ての不法すなわち神の御心に反することから贖い出します。また、良い業に熱心な選びの民を清めるためです。信仰によって恵みを獲得しようとする者は、熱心になるのです。そのような者を清めるのです。当然に、信仰によらない歩みをしているならば、清められることはありません。
さらに、キリストは、ご自分のものとしてその働きをなさいます。御自分のものに栄光を与えようとするのですから、最大限に栄光を受けることができるように働くのです。生半可なことではないのです。
・「献げられた」→与える。私たちに与えられていると言う意味です。
・「清める」→純粋にする。あらゆる混ぜ物を取り除くこと。
エペソ
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、
3:21 教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。
--
ここには、御父の全能の力の働きが示されています。また、聖霊の働きが記されています。さらに、心のうちに住むキリストの働きが示されています。信仰によりキリストが私たちのうちに住まわれることにより、また、そのキリストの愛を知ることにより、神の満ち満ちた豊かさに満たされるのです。多くの方は、このことを不可能と考えています。しかし、人の思うところの全てを遥かに超えて行うことのできる父がこれを実現してくださいます。信仰によって実現します。
2:15 あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。
その勧めや戒めは、十分な権威をもって語られる必要があります。権威とは、神の言葉であるという権威です。聞く人が、その言葉が神の言葉であると受け入れ、従う言葉なのです。それに相応しく取り次がれなければなりません。