テサロニケ第二2章

2:1 さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。

 彼は、お願いとして記しました。それは、主イエス・キリストの来臨と私たちが主の身許に集められることに関してです。

 この来臨は、地上再臨のことではありません。空中再臨と言われるもので、信者の携挙が行われます。それに続いて、患難時代が始まります。主を信じない者たちへの報復の期間です。主の日と言われている日は、その患難時代に不法の人の到来に続く日のことです。主の日と言われる時は、特定の出来事が起こるときを指しているのではなく、主が権威をもって直接事をなさる時を指して言っています。ここでは、患難時代に主が地上をさばくときを指しています。

 それに続いて、患難時代が終わり、主の地上再臨があります。

 信者にとって、主の人地上再臨は、直接関わりのない時であるので、その事柄について、問題とすることはないのです。しかし、主の日がすでに来たかのように言われることは、信者が主のもとに集められていないことを表していて、自分たちが取り残されたのではないかと不安になるのです。ですから、最初の再臨と主の日との関係が誤って語られていたのです。地上再臨ではありません。地上再臨は、主の日の後に来るのですから、主の日がすでに来たと言われたとしても、主の日のあとに来る地上再臨については、何も心配する必要がないのです。

2:2 霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

 それは、主の日が既に来たかのように言われている教えがあったからです。この教えによれば、主の日が既に来たのにキリストの来臨と信者が主のもとに集められることが起こっていないという誤りがあります。

 主の来臨の時と主の日と記されている時は、一章に記されています。

テサロニケ第二

1:6 神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

1:8 主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

1:9 そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。

1:10 その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

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 ここで、信者に安息を与えることと信者を苦しめる者に対する罰が加えられることは、キリストが天から現れるときに起こります。そして、苦しめる者に対する罰は、患難時代に与えられますが、その中で、この章で「主の日」と言われる時は、患難時代の最初からではなく、不法の人が現れてからの時です。そのことは、三節に記されています。

 ですから、主の日が既に来たかのようなテサロニケの信者が聞いた教えは、誤りです。

 そのような教えに対してテサロニケの信者は、落ち着きを失ったり、心を騒がせないように願ったのです。

 落ち着きを失うことは、不安の現れです。その不安の原因は、自分が信じていることが揺るがされるからです。「心を騒がせない」ことです。「心」は、神の御心を受け入れる器官です。その心には、教えられた教えが入っているのです。そこを騒がすというのは、受け入れている教えが間違いがあるのではないかと不安になることです。

 その教えは、霊によってであれ聞いてはいけないのです。霊というのは、その教えを語る、人間のことを指しています。啓示されたとその教えを語るかもしれません。

 また、言葉で語られるかもしれません。それは、人の言い伝えかもしれません。

 また、手紙かもしれません。それは、パウロたちからでたかのような手紙です。それでも信じてはいけないのです。

2:3 どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

2:4 不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。

 パウロが主の日の到来の証拠として示したのは、主の日の前に、背教が起こって「不法の人」が現れることでした。このことは、福音書の中で主イエス様が語っておられます。

マタイ

24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

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 終わりの日のしるしは、「荒らす憎むべき者」が宮の中に立つときです。それ以前の戦争や地震や飢饉は、終わりの日の証拠ではないと言われました。「これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 」と。

 イエス様が前兆として示されたことは、戦争や地震のことではありません。それらがあっても「終わりが来たのではありません。」と言われました。福音が全世界に宣べ伝えられて、終わりが来ます。その終わりは、預言者ダニエルによって預言された「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たならば」それが主の日のしるしです。ですから、荒らす憎むべき者が聖なる所に立つまでは、しるしはないのです。

ダニエル

9:25 それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。

9:26 その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。次に来る君主の民が、都と聖所を破壊する。その終わりには洪水が伴い、戦いの終わりまで荒廃が定められている。

9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物をやめさせる。忌まわしいものの翼の上に、荒らす者が現れる。そしてついには、定められた破滅が、荒らす者の上に降りかかる。」

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2:5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話していたのを覚えていませんか。

 パウロは、テサロニケにいたわずかの期間にこれらのこともはっきりと教えておきました。エペソの集会に対しても、「神の御計画の全体を、余す所なく知らせました。」また、「益になることは、少しもためらわずに知らせました。使徒20章」これは、御言葉を取り次ぐ者の大切な務めであると教えられます。

2:6 不法の者がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているものがあることを、あなたがたは知っています。

2:7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者が取り除かれる時までのことです。

 不法の人は、定められた時に現れます。しかし、彼は、今引き止められています。

 六節では、「今は」と記し、七節の「現在」よりは、広い時の範囲を現す語が使われています。また、引き止める「もの:中性」と記され、対象を特定しない言い方になっています。

 七節では、それとは対象的に、訳出されていませんが、「現在」引き止めている者が移されるときまでと記されていて、それが今のこの時を表していて、しかも、引き止めているのは、具体的な「者:男性」と記されています。特定の誰かを指しているのです。

 ですから、ここでの記述の違いは、六節で、概略について記し、七節で、それが具体的な事実であることを記しているのです。そのようにして、不法の人は、今現在引き止められていることを説明しています。

 その「者」が取り除かれることによって不法の人が現れるとあります。彼については、それを抑える権威を持ったものです。不法の人の到来は、サタンの働きによります。ですから、サタンを抑える権威を持つ者です。そのような役割は、御使いに与えられています。神の許しなしには、サタンも行動することはできません。ですから、それを抑えている権威は神にありますが、具体的にそのような役割を担うのは、御使いです。

 「取り除かれる」と記されていますが、誰かが取り除くという意味ではありません。直訳では「その最中から移るあるいは転換するまで」ということで、引き止めるということが終わるまでということです。

 これは、黙示録に示されているように艱難時代に事を進めていく御使いのことと考えられます。

黙示録

7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 ヨハネは、四人の御使いを見ました。彼らは、地の四隅に立って、四方の風を押さえていました。その風は、地にも、海にも、どんな木にも吹き付けないようにしていました。それは、イスラエルの十四万四千人の額に印を押してしまうためです。

 ここで、「風」は、比喩になっています。なぜなら、十四万四千人の額に印を押すことと、風とは、直接的な関係は、ないからです。額に印を押すのは、御使いであって、人ではないので、台風が来ても、影響ないのです。これは、霊の世界のことを扱っているのです。「風」は。霊を表しています。そして、地と海は、イスラエルと諸国の民を表しています。木は、地に植えられた人を表しています。風が吹き付けるのは、害を与えるためです。ですから、悪魔や悪霊の働きをとおして、害がもたらされることを抑えているのは、この四人の御使いによるのです。

2:8 その時になると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。

 来臨の輝きと表現されているのは、主の最初の再臨の輝きです。地上再臨の輝きではありません。来臨の時、主は、御自分の栄光を覆い隠すことなく現れます。その権威の偉大さを表しています。

2:9 不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、

2:10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

2:11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

2:12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。

 主は、彼を滅ぼされます。御口の息は、人を殺すのには、十分です。主は、御口の息を吹きかけられ、聖霊が与えられる約束をしました。同じ息で、今度は、不法の人の命を取られます。主の息は、霊を与え霊を取られる働きのために用いられます。

ヨハネ

20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

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 真理を愛さない者は、あらゆる欺きによって惑わされます。また、神御自身が惑わす力を送り込まれます。その直接の実行者は、悪魔ですが、神様がそうすることを許されます。

 これは、恐ろしいことですが、裁きではそのことが起こります。もはや、真理を知ることは、非常に難しくなります。このようにして、真理を愛さない者が裁かれることになります。

2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。

 悪人が滅ぼされるのに対して、テサロニケの人たちは、いつも感謝しなければならないのです。すなわち、感謝するのが当然なのです。ここでは、滅びる人と、信者とが対比されていて、信者は、救いの立場を持っているだけでなく、「救い」と言われている永遠の祝福を受け継ぐ者とされているのです。

 彼らが、ここでの訳によれば、「初穂として」救いに選ばれていることは明らかなのです。ただし、初穂は、誤訳で、この原語「G746アーケイ」は、時間的に最初という意味です。その前置詞も、「~から:G575アポ」を意味し、「初めから」という意味です。それは、彼らが御霊によって聖められていたからです。その信仰は、本物です。信仰が本物かどうか分かるのは、その実によって知られるのです。ですから、聖霊による聖別が初めに記されています。

2:14 そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。

 彼らは、滅びではなく、私たちの主イエス・キリストの栄光に与らせられたのです。そのために神はパウロたちが伝えた福音によって彼らを召したのです。

2:15 ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。

 その伝えられた福音によってイエス・キリストの栄光に与ったのですから、その伝えられたことをしっかりと守るのです。語られた言葉であれ手紙であれ、パウロたちから学んだことを守るのです。彼らは、堅く立つことが必要です。惑わされてはならないのです。

 ここで、私たちの言葉または手紙によって教えられた言い伝えは、使徒に啓示された真理です。今日私たちが聖書として手にしている教えです。これを守るのです。

2:16 どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、

2:17 あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。

 主イエス・キリストと父なる神は、一体の方として記されています。その方は、既に、恵みによって「慰め→励まし」と望みを愛によって与えてくださったのです。恵みによって与えたというのは、この方は、好意によって福音でそれを示したのです。テサロニケ人は、それを信仰によって受け入れて恵みが実現したのです。祈りは、その方がさらに、彼らの心を「慰め→励まし」、強めることです。心は、行動の元となる部分で、そこが神の言葉に整合することが大切です。彼らが示されている言葉を受け入れる部分でもあります。そこが神の評価を受けられるように励まされることは、神の言葉によって励まされるのです。そして、神の言葉に従うように強められます。その上で、良い業に進み、良い言葉に進むのです。

 イエス・キリストであり、私たちの父である方という表現は、あまり他に見られませんが、三位一体の神様に対する呼びかけです。その方は、一つの方です。別の人格をお持ちですが、一つの方です。信者に対する働きかけは、父の業であり、主イエスの業です。父なる神様のご計画があり、主イエス様が実現されます。その働きは、聖霊によります。

・「慰め」→神の評決に達するために個人的に与える親密な要請。神の裁きを前提にしての励まし。激励。

■主の日という表現について

コリント第一

5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

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 この主の日は、キリストが裁きの座に立つ日です。信者の肉が滅ぼされて、彼が肉を捨てて生き、裁きを受けたときに報いを受けられるようになることを救いといっています。

テサロニケ第一

5:1 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。

5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

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 この主の日は、人々に突如として滅びがもたらされる日です。これは、艱難時代の裁きです。これは、四章の空中再臨と一つのことで、艱難時代の裁きは、空中再臨とともに始まります。

ペテロ第一

4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。

4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。

4:17 さばきが神の家から始まる時が来ているからです。それが、まず私たちから始まるとすれば、神の福音に従わない者たちの結末はどうなるのでしょうか。

4:18 「正しい者がかろうじて救われるのなら、不敬虔な者や罪人はどうなるのか。」

4:19 ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。

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 神の家の裁きは、キリストの来臨の時に信者が受ける裁きで、肉体にあってなしたすべてのことが評価されます。信者であったとしても、その評価は、厳しいものです。見せかけのものは、価値ないものとして焼けてしまいます。

 ですから、神に従わない人たちへの裁きも厳格に行われますので、どのような結末になるのか想像を絶するのです。

 ここでは、神に家への裁きが先であり、続いて、神に従わない人たちへの裁きが続くのです。それは、患難時代の裁きです。

ペテロ第二

3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

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 この主の日は、新天新地が到来する前の世界が消滅するときのことです。

黙示録

1:10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

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 この主の日は、日曜日のことです。