テサロニケ第二1章

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、私たちの父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。

 テサロニケ人の教会については、父なる神と主イエス・キリストにあると表現しました。父と主イエス様にあり一つになって歩んでいる教会であることを初めに呼びかけ、この世のものでない彼らの立場を明らかにしました。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

 そのような彼らですから、父なる神とキリストから恵みを受けているのです。「恵み」は、好意です。それは、御心のままに与えようと神が備えたものですが、喜んでこれを与えようとしておられるのです。その恵みは、自動的に与えられるものではなく、テサロニケの信者がそれを信仰によって受け取る時、彼らに恵みが実現します。そのことは、十一、十二節に記されています。テサロニケの信者が主に適った者に変えられることが恵みの実現であり、それによって主の御名が崇められ、そして、彼らが栄光を受けるようになることです。ここには、利益共有についても示されています。それが恵みです。

1:3 兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。

 第一の手紙に記したことは、第二の手紙に豊かな実を見ることができます。しかも、それは非常に高い程度のものであることが分かります。彼らの信仰は、第一の手紙では、マケドニヤとアカヤの信者の模範となっていましたし、その信仰はあらゆるところに伝わっていました。彼らは、偶像から神に立ち返り、主イエスを信じ、主イエスのおいでを待ち望むようになりました。

テサロニケ第一

1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。

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 その信仰が目に見えて成長したとあります。明らかに分かる成長を見せたということです。

 しかも、一人一人に相互の愛が増し加わりました。これは、大変尊いことで、一人一人の愛が増し加わりました。

テサロニケ第一

4:9 兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。

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 彼らの愛は、何も言わなくてもよいほどでした。その愛がさらに増し加わっていたのです。これは、驚くべきことです。第一の手紙で彼らに伝えられた彼らの信仰と愛についての評価に、彼らは、満足していませんでした。むしろ、さらにそれらが増し加わっていたのです。

1:4 ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。

 彼らは、迫害の中で、忍耐と信仰を保っていました。

 「忍耐」は、神が許された試みのもとで忍耐することです。迫害と苦難についても神が許されたもので、意味のないものではありませんし、あってはならないと考えるべきものでもありません。

 信仰は、御言葉を受け入れ従うことです。このように艱難の中で、不平不満でなく、神と、その御言葉に従う幸いな歩みがなされていました。パウロは、これを諸教会の間で誇りとしていました。

1:5 それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。

 そのように、迫害と艱難という苦しみが与えられているのは、目的があります。

 それは、「神の国にふさわしいかどうかを正確に量るすなわち正しい価値を決定する神の正しい裁きのためです。」迫害と苦難の中でどのように振る舞うかによってその方への神の評価が決定されるためです。

 テサロニケの信者が受けている苦しみは、その評価に基づいて神の国でいかに報いを受けるかということのためです。「神の国」という表現が使われる時は、私たちが受ける報いについて示しています。苦しみは、神の評価のためであり、価値あるものとされた者には、大きな報いが与えられるのです。苦しみは、あって欲しくないものではなく、その中で私たちがどのように振る舞うかが私たちへの評価を決定し、大きな報いを受ける機会であるのです。

1:6 神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

 そして、苦しめる者と苦しめられている者に対して神様は正しく取り扱われます。苦しめる者には、報いとして苦しみを与えます。苦しめられている者には、報いとして安息を与えます。ここでは、その報いは、安息とだけ記されています。ここでは、特に苦しめられていることに対する報いが取り上げられているからです。

 それは、主イエスの現れの時に起こります。この時は、主イエスは、炎の中に御使いを従えて来られます。「そのことは」と「苦しめるものに苦しみが与えられ、苦しめられている者に安息が与えられる」ことは、同時に起こります。これは、艱難時代の始まるときです。「そのことは」が指しているのは、裁きと安息の両方が与えられることです。ですから、これは時間的には差があるということはできません。

 また、「主イエスが、炎の中に」天から現れることは、他の箇所に記述がありませんが、ここに炎として示されているのは、主の評価を表すためです。というのは、これは、「報い」と関係しているからです。「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え」、「苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださる」ことの両面が示されいます。正しい評価の結果、報復と、祝福が備えられるのです。

 これは、主イエス様がおいでになる時について明確に示しています。それは、主イエス様がおいでになる時に報復が行われるのです。それは、艱難時代の始まりを表しています。それとともに、苦しみを受けている信仰者に、安息が与えられるのです。そのことがキリストのもとに引き上げられることとよく符合します。

1:8 主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に罰を与えられます。

 報復は、一瞬で終わるものではなく、艱難時代の七年間に行われます。

1:9 そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。

 この人たちは、肉体にあって裁きを受け、永遠の滅びに入ります。彼らは、主のみ前から退けられます。彼らは、御力の栄光に与ることがありません。

1:10 その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

 その日は、六節と七節に記されていることが実現する日です。「そのことは、~起こります。」と記されていて、報復と安息が与えられることが起こる日です。その日は、主イエスが来られる日のことで、報復が始まるときでもあります。主イエスの来臨は、テサロニケ第一の手紙に記されているように、雲の中においでになられます。その時、信じた者は、雲の中に引き上げられるのです。

 その日、主は来られて、聖徒たちの感嘆の的となられます。この聖徒は、主イエスを信じた人々です。ですから、「主は来られて」とある日は、全ての信者が主を見て、感嘆するのです。

テサロニケ第一

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

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 信じない者に対しては、主は報復されます。その一方で、信じた者たちは、主を見ることに大きな期待を抱いて主を迎えます。そして、その方の栄光は、私たちの想像をはるかに超えたものであるのです。それで、皆が感嘆するのです。

1:11 こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

 私たちは、主の栄光に与る者となるのですが、主の来臨は、評価の裁きでもあります。それは、私たちがこの地上でなしたことに対する報いの与えられるときであるのです。それで彼は祈っています。

一、神がお召しにふさわしいものとしてくださること。

 召された者は、神の子です。それにふさわしい者となるのです。神の前に出るのに私たちがぼろをまとっていてはいけないのです。そのような古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着なければならないのです。キリストと同じ者に変えられることが召の目的です。

二、また、御力により善を慕うあらゆる願いを全うしてくださるように。

 善は、御心にかなう良いことです。テサロニケの人たちは、善を慕っていました。心から進んでそのことを求めていたのです。それを神様が完全にかなえてくださることを願いました。善を慕う願いは、その人自身に依存しています。その人自身が求めないと、御心に適った歩みは、出て来ないのです。

三、御力により、信仰の働きを全うしてくださるように。

 神様の御言葉を信じて従うとき、それを全うしてくださるのは、神様の働きです。私たちが神のさまにまで変えられるために、神は全能の力で働いておられます。私たちは、御霊によりキリストが私たちのうちに住まわれると信じるのです。そして、キリストの愛を知ることで私たちは変えられるのです。私たちを変えるのは、キリストの働きです。神が全能の力でそれを実現されます。エペソ書より。

 「働き」とありますが、私たちの奉仕が全てではありません。私たちがキリストと同じ者に変えられる時、奉仕の働きは、その一部です。まして、公の奉仕は、ごく一部のことです。神の御心を行うという「働き」は、もっと広いのです。私たちの全ての信仰による振る舞いが含まれます。

1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。

 これらがかなえられることは、主イエスの恵みです。例えば私たちが召しにふさわしくされることは恵みです。また、善を慕う願いがかなえられ、信仰の働きが全うされることも、主イエス様の恵みです。

 その恵みの結果として、主イエス様の御名が、私たちの間で崇められるのです。さらに、私たちが裁きの座で、主イエス様にあって栄光を受けることになります。

■主の再臨と信者の軽挙の関係について

 七節には、 苦しみを与えることと、安息を与えることが対比されて記されています。

 七節後半から十節までは、その二者について、更に詳しく記されています。七節後半から九節まで、主イエスが燃える炎の中に現れるのは、評価のためです。それは、報復と祝福をもたらします。そして、十節の「その日に」主イエスが感嘆の的となられることは、安息を与えることに対応しています。「その日」という語が使われることで、「天から現れるとき」とは区別されています。というのは、「その時」と同じ時であるならば、「また」あるいは「またその時」とするべきで、「その日」という別の時間的範囲を表す語を用いることはないのです。これは、報復と安息が同じ事柄として扱われていないことを表しています。

 さらに、クリスチャンが患難時代に地上いるとすれば、報復の災いを被ることになり、苦しめる者に対する報いとしての苦しみを受けることになり、矛盾してしまいます。そして、その日は、患難時代の終わり以降ではありません。なぜならば、そのとき、クリスチャンのよみがえりはないからです。主イエスがおいでになられたとしても、クリスチャンのよみがえりがなければ、テサロニケ第一に記されている空中携挙とは異なります。

■携挙の時期と患難時代の裁きの時期について

携挙は、艱難時代の後には起こりません。

理由一

1.艱難の後によみがえるのは、患難時代に殺された人たちだけです。それ以外の死者は、よみがえらないと記されています。

黙示録

20:4 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。

20:5 残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。これが第一の復活である。

20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

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 よみがえった人の特徴は、患難時代の迫害で死んだ特徴を持っています。今日の平穏無事に死んだ信者のことは記されていません。そして、「残りの死者は、千年が終わるまでは生き返らなかった。」と記されています。ですから、この時に旧約の聖徒も生き返ったという解釈は、当たりません。新約の信者のよみがえりもこの時ではありません。

2.白い御座の裁きのときのよみがえりは、携挙が伴いません。

クリスチャンのよみがえりは、それ以外の時でなければなりません。

理由二

裁きの順序について

べテロ第一

4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

 キリスト者が苦しみを忍ぶべき理由が示されています。それは、裁きが神の家から始まる時が来ているからです。それは、まだ起こっていませんが、すぐにでも来ることを示しています。

 裁きが神の家から始まるときは、キリストの裁きの座でのことです。そこでは、信者がキリストによって裁かれます。それは、最初に行われることです。「まず」すなわち「最初に」と記されています。

 その次に、未信者すなわち神を敬わない人や罪人への裁きです。これは、患難時代の裁きです。

 ちなみに、「神の家から始まる裁き」は、この地上での裁きではありません。ある解釈では、教会が裁かれて苦しみを受ける時が来るというものです。しかし、文脈からは、信者が敬虔に歩んで苦しみを耐え忍ぶように進める理由として記されているのであって、もし、その解釈によるならば、懲らしめとして裁きを受けて苦しむのだから耐え忍びなさいという意味になってしまいます。そのような勧めはありえません。

 ここでは、敬虔に歩むならば、必ず報いがあるから耐え忍びなさいと言っているのです。それは、ペテロ第一の一章にも記されていることです。試練に対して、賞賛と光栄と栄誉が与えられ、これが資産として受け継ぐ報いであることが示されています。

4:18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

 この救いは、ペテロの手紙で一貫しているもので、信者が受ける報いについて示しています。かろうじて救われると示されているように、その行いに対する評価の裁きは、厳しいものがあります。

コリント第一

3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

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 神を信じた信者に対しても、厳しい評価の裁きがされるのであれば、悪を行なっている者に対して、どのような裁きがなされるでしょうか。それは、報復としての患難時代の裁きです。

4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 神の御心に従ってなお苦しみにある人のたましいは、その苦しみのゆえに神に従うことができなくなるかもしれません。神に従う思いが揺るぐのです。それを守ってくださる方は、真実な創造者です。その方は創造者として全ての被造物を裁くその時が来るからです。「裁きが神の家から始まる時」は、創造者としてその御心に従って万物を存在させた方の権威に従ってなされる評価の裁きを表していて、神の家への裁きは、神を信じた者たちに対して、どこまで御心にかなっていたかが評価されるされる裁きです。これは、キリストの裁きの座での裁きです。そして、神に従わない人たちに対する裁きが続きます。これは、艱難時代の裁きです。黙示録にも、神が創造者としてはじめに示されています。それは、黙示録での一連の裁きが、創造者としての裁きであることを示しています。その御心にかなったかどうかが問われる裁きなのです。

黙示録

4:11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

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 創造者は、その御心のゆえに万物を創造されました。そして、その創造によって、栄光と誉れと力を受けるはずであったのです。ですから、御心にかなわないものに対して、裁きをもって報いることで、創造者としての栄光を現されるのです。