テサロニケ第一5章
5:1 (さて)兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。
時と時期との全体像について、すなわち、これからの時代に起こることについて、彼らには、書き送る必要がないと記しました。それを知っておくことは、有益ですが、彼らにとっては必要ないという意味で記しています。
なお、接続詞が訳出されていませんので分かりにくいですが、ここで、「さて」を意味する接続詞があり、話は変わっています。前の章を受けているわけではありません。空中で主と会うことと、次節以降の話は、関連が切れています。
分脈を理解するためには、接続詞は重要な役割を果たしますが、訳出されていないことがあるので、注意が必要です。
・「その時と時期」→複数形定冠詞付きです。特定の時を指しているのでなく、時と、時期との全体を指します。「その」は、不適切。
5:2 (なぜならば)主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
その理由が記されていて、主の日が予期せぬ時に来ることを彼ら自身がよく知っているからです。
問題としているのは、主の日に対する備えです。彼らは、その日が突然来ることをわきまえていて、その備えができているからです。
なお、この日に関しては、時と時期の全体について知っていたとしても、その日が突然来るのですから、その知識は役に立ちません。主の日に対する備えができていることが大切なのです。
5:3 人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
人々が「損なわれていない完全さ、安全」と言っている時に突然の破滅が襲います。それを逃れることはできません。
・「平和」→完全さ。平和は、戦いのない状態を言っています。ここでは、戦争が起こることを言っているわけではなく、破滅です。
5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
それを逃れることができない人は、暗闇の中にいる人のことです。テサロニケの信者は、暗闇の中にはいません。御言葉としての光に照らされてそれを信じたのです。それで、破滅に襲われることはないのです。但し、彼らが携え上げられることは、主の日の前に起こり、それも突然起こることです。
5:5 (なぜならば)あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。
彼らは、光の子として、また、昼の子として、光すなわち、御言葉を信じて歩む者であるのです。
5:6 ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
5:7 (なぜならば)眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。
他の人たちは、光のない夜に眠っている者たちであるのです。また、夜に酔っている者です。すなわち、慎みがないのです。すなわち欲望のままに生きることです。御霊にはよらず、この世のものに酔っているのです。それで、信者は、暗闇の者と同じように、眠っていてはいけないのです。光のうちに歩む者でなければならないのです。
・「眠る」→前節の「目を覚ます」すなわち光によって歩むことと対比されている。
・「酔う」→前節の「慎んで」すなわちしらふと対比されている。慎みがないことの比喩的表現。欲望のままに歩むこと。
5:8 しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。
昼の者としての歩みは、目を覚ますことと慎みです。目をさますことは、信仰と愛によって歩むことです。胸当ては、その人が業をなす根拠を示しています。エペソ書で胸当ては、「義」として示されています。信仰と愛によって神の御心を行うことが義であるのです。別のことを例えているわけではありせん。
かぶとは、救いの望みを表しています。救いは、御国で報いを相続することで、将来獲得するものなので望みと表現されています。永遠の裁きからの救いのことではありません。
救いの望みは、私たちが身を慎むことができる強い動機づけになります。報いを確実に獲得するためには、信仰と愛によって神の御心を行うことが必要です。
・「慎む」→しらふ。酔っていない。七節の「酔う」と対比されている。
5:9 神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
キリストの来臨は、闇の者にとっては、御怒りを受ける時となります。しかし、光の子にとっては、携え上げられ、キリストの裁きの座で評価を受け、永遠の報いを受ける救いとなります。これらのことは、別々に起こるのではなく、その始まりは、同時なのです。
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。
私たちが、(たとい、)目を覚ましていようが、(たとい、)眠っていようが、主とともに生きるようになるためです。すなわち、(これから)生きるようになるためです。生きるとは、いのちを経験することです。いつまでも眠っていてもいいという話ではありません。これからは、御霊に満たされ、御心を行いつつ生きるのです。
主と共に生きることは、眠っていてはできないことです。自分自身の罪深さや、弱さが容認されているという意味ではありません。
・「眠っている」→御心を行っていない状態。六節の表現を受けています。ここでも、目を覚ましていることと対比されていますので、これは、信者の肉体の死のことではありません。
・「生きる」→神の命の賜物を経験すること。「主が私たちのために死んでくださった」というキリストの死と対比されています。
5:11 ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。
それで、キリストとともに生きるために、互いに励まし合い、互いを高め合うのです。現在不完全な状態があるにしても、そこに留まるのではなく、高め合うのです。彼らは、既にそれをしていましたが、そのとおりに行うように勧めました。
5:12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たちを重んじ、
5:13 その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい。また、お互いに平和を保ちなさい。
教会の指導者にこの上ない尊敬を払うように勧めました。彼らは、教会の中で労苦し、教会を指導し、訓戒していました。そのような人たちを重んじるのです。その務めは尊いのです。信者を神の御心に適った完全な者にしようと働くからです。
それで、その働きのゆえに、愛をもって、この上ない尊敬を払うように命じました。
指導する者は、他の書簡から監督とも呼ばれる長老のことですが、この時そのように呼ばなかったことは、まだ長老が立てられていなかったからです。教会が起こされてから日が浅かったのです。テトスの例に見るように、長老たちが立てられていない教会は多くあったのです。
テトス
1:5 私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。
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また、指導者と対比されて、指導を受ける「あなた方自身」の中で、指導と訓戒を受けた者として、完全になるのです。
・「お互いに平和を保つ」→互いの中で、完全になる。「互いに対して」ではない。
5:14 (さて)兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
教えから外れる人を教えによって諭すのです。教えから外れないように教えるのです。
そして、御言葉に従う訓練が不十分な人には、励ましを与えます。御言葉に従うことができるようにするのです。
そして、弱い者には世話をします。十分な力がないので、世話をする必要があります。
・「怠惰な者」→信仰に生きるという神の指針に従わず外れている人。怠け者のことではなく、不従順が現れる人のこと。
・「小心な者」→未発達なたましいのこと。いわば、神の言葉に従う訓練のできていない人。
・「弱い者」→弱い人。病気の人。
5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、(そうではなく)互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
悪に対して悪を返さないように霊的に見るのです。そうすれば、どのような人に対しても善を行うことができます。敵を愛しなさいという戒めを実践することができます。肉によるならば、悪に対して悪で返してしまうのです。肉は、仕返しをしなければ満足しないのです。互いに対して、また、全ての人に対して善を行うように追求するのです。
・「気をつけ」→見る。霊的に見る。
・「努め」る→追求する。
5:16 いつも喜んでいなさい。
神の恵みを経験し、喜ぶのです。単に喜べばよいということではありません。信仰によって、神の備えた祝福を獲得することでの喜びです。
・「喜ぶ」→神の恵みによって喜ぶ。
5:17 絶えず祈りなさい。
いつでも絶えず祈るのです。すべてを神に委ね、信頼します。御心の実現を求めるのです。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
すべてのことにおいて感謝します。すべてが神の主権によってなされたことであり、神の栄光のための業です。ですから、どのようなことでも感謝できます。自分にとって不都合に見えることでも、感謝できます。
これが神の望むことです。
5:19 御霊を消してはいけません。
御霊の働きを抑制することをしてならないのです。肉が勢力を張るならば、御霊の働きは抑制されるのです。
5:20 預言を軽んじてはいけません。
5:21 ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。
預言は、神からのものです。それで軽んじてはいけません。しかし、預言者として振る舞いながら、正しい言葉を語らない者がいるのです。彼は、神からの言葉を取り次いでいるのではありません。それで吟味する必要があるのです。しかし、良いものすなわち、正しい教えは、しっかりと保つのです。
5:22 あらゆる形の悪から離れなさい。
悪は、どのような形であろうとも、離れるのです。
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。
神ご自身が私たちを完全に聖なる者としてくださいます。それで、霊、たましい、体のすべてが責められるところのない者とされます。もはや肉にはよらず、完全に神の御心を行う者とされるのです。そして、来臨の時に高く評価されます。
それは、完全さの神であるからです。なお、「平和」と訳されていますが、平和と完全に聖なる者とすることは整合しません。ほとんど関係ないのです。どの程度聖なる者にするかが、「神」を修飾している「エイレネス」によって表現されているのであり、完全さの神であるので、完全に聖なる者とするのです。
・「平和」→完全さ。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。
召した方は、信仰に対して忠誠をもって応えられます。ですから、それをしてくださいます。
・「真実」→信仰に対する忠誠。
5:25 兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。
そして、パウロたちのために祈ってくださるように願いました。
5:26 すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをしなさい。
全ての兄弟たちに、聖なる口付けをして挨拶をするように命じました。言葉だけでなく、聖なる口付けをすることで、真実のものであることを現すのです。ただし、日本では口付けすることは、全く受け入れられません。することで証しを損ないますので、しないことです。
5:27 この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるよう、私は主によって堅く命じます。
この手紙は、すべての兄弟に必要なことです。読んで聞かせるように堅く命じました。御言葉は、私たちにとって大切なものです。その価値を知るならば、喜びをもって読み、また、聞くでしょう。
5:28 私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。
主イエス・キリストは、私たちを完全な者にしようと働かれます。そして、御国に報いを備え、永遠の栄光を与えようとしておられます。それが恵として備えられているのです。信仰によって獲得できるのです。それを祈りました。