テサロニケ第一2章

2:1 (それで)兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。

 テサロニケの信者がその地域の模範となるほどに神に従うことになったことを受け、パウロがテサロニケに行ったことは、無駄にはなりませんでしたと証ししました。

2:2 それどころか(→しかし)、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。

 しかし、テサロニケでの働きは、苦闘の中に福音を語ることでした。

 このことを語るのは、人間的な力によらず、神のよって語ったことを示すためです。ピリピで苦しみを受け、辱めを受けたことで、神によって勇気づけられる必要がありました。そして、テサロニケで福音を語るときにも激しい苦闘がありました。彼にそれができたのは、神の勇気付けがあったからです。いわば、神の力によって福音を語ったのです。

 なお、接続詞「それどころか」では、意味が通じません。一節で「無駄になりませんでした。」とあり、それに続いて、「それどころか」と繋いだならば、大いに益になったという意味の文が続かなければなりません。

 ここは、原語を素直に訳して「しかし」とすべきです。前節で良い結果があったことを語り、それに反してそれ以前のピリピでは、苦しみにあったことが語られています。反対の状況をつなげるのですから、「しかし」とするのが適切です。

2:3 私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。

 その勧めは、誤りから出ているものではありません。宣べ伝えたことが誤りであったならば、その信仰は誤ったものになります。この点に関して、御言葉を取り次ぐ者は、語る言葉が正しいのかどうかについて十分に吟味する必要があります。語る者自身が聖書の言葉を正しく理解していなかったら、決して正しい言葉を語ることはできません。聖書に書いてないことをあれこれ推測を交えて語ることも危険です。また、御言葉を扱う人の霊的状態の低さは、そのまま語る言葉に反映されます。例えば、信仰によって御霊による歩みができると信じていな人が御言葉を取り次ぐならば、御霊によって歩むことを語ることをしません。肉の行いを語ることになるのです。

 次に、不純な心から出たものは、肉的な動機によります。神の御心を正しく伝えることから外れて、例えば、自分を現すためであることがあるのです。名誉や利得を目的とする場合もあるのです。それで、人を喜ばせることを語ります。人に受け入れられ、人気を博すためです。自分の目的に適うのです。

 だましごとは、初めから騙すという悪意に基づくものです。

2:4 むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。

 パウロたちによる働きは、神に認められ、福音を委ねられた者としてそれにふさわしく語りました。人を喜ばせることを語りませんでした。神に喜ばれることを語ったのです。神は、人の心をお調べになられます。神の前に、恥じることのない心で語るのです。

2:5 (それで)あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

 へつらいの言葉は、人に取り入る言葉です。これは、人を喜ばせようとすることです。貪りの口実を設けることは、肉欲の満足のために不正な言動をすることです。そのようなことをしていないことは、神が証人であると明言しました。

2:6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。

2:7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、

→「キリストの使徒としての権威を主張して、あなた方からも他の人からも人からの栄誉を求めないことを(あなたがたは、知っています。)」

「(そうではなく)あなたがたの間では幼子になりました。(訳出されていない。)」

 自分を低くしたのです。

私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、

2:8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

 自分の子供を養い育てる母親のように、彼らのことを愛おしく思いました。それで、福音だけでなく、いのちまでも与えたいと考えました。そのように思うのは、彼らが愛する者になったからです。彼らがキリストを信じて神のものとなったからです。深い愛がありました。

2:9 兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

 パウロは、テサロニケの信者の間での労苦と辛苦を思い起こさせました。そのような中でもテサロニケの信者には、何も負担をかけませんでした。夜も、昼も働きながら福音を宣べ伝えました。パウロたちが利得を求めていると言わせないためです。人間的なものを一切入れないで宣べ伝えたのです。

2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。

 パウロたちの振る舞いは、責められるところがないもので、敬虔で正しいものでした。テサロニケの信者は、それを見たのです。また、それは、人前だけでなく、神の前に偽りのないものでした。

 福音を宣べ伝える者は、このようでなければならないのです。語る言葉が信頼されるために必要なことです。

2:11 また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、

2:12 ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。

 そして、彼らへの教えは、子に対する父のように、勧め、励まし、厳かに命じました。子を愛する父のように、それは、勧めと励ましとともに、厳かな命令もあるのです。

 その内容は、御国と栄光に与ることを目指して、そこに召した神にふさわしく歩むことです。御国で報いを相続するように、その栄光に与るように歩むのです。それは、神にふさわしい歩みです。その御心に適った歩みが必要です。

2:13 こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。

 このように真実に振る舞い、御言葉を宣べ伝えたのですが、彼らは、その言葉を事実どおり神の言葉として受け入れました。それで、絶えず感謝しました。彼らは、それを神の言葉と信じたので、その神の言葉が彼らのうちで働いています。言葉は、情報ですが、それを信じたので、神が、彼らが信じたとおりに働いているのです。

2:14 (なぜならば)兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。(なぜならば)彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。

 神の言葉が彼らのうちに働いている理由を示しました。テサロニケの信者が迫害を受け苦しみに会っているからです。ユダヤの諸教会に倣う者となりました。なぜならば、彼らと同じように苦しみを経験したからです。

 このように、彼らが神に選ばれた者であることを証明しました。

2:15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。

2:16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。

 そのユダヤ人たちの悪行が取り上げられています。彼らは、神に喜ばれず、御怒りを積んでいるのです。もはや極みに達しているのです。

2:17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。

2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。

 パウロは、彼らに会うことを願いましたが、サタンが妨げました。引き離されているのは、そのような妨げによるものであり、決して心が離れているのではないことを示し、彼らに会うことを切望していることを示し、励ましました。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。

2:20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。

 彼らのことを大切に考えていることを示しました。主イエスが来られた時、彼らは、栄光のうちに現れます。キリストの裁きの座で、裁きを受け、栄光を受けることになるのです。その時、彼らが、望みとなり、喜びとなり、誇りの冠となります。彼らが、神に適った歩みによって栄光を受けるようになれば、そのために働いた働き人は、また、栄光を受けることになります。それで、「私たちの望み」と言い表しています。また、「私たちの喜び」となります。パウロたちが栄光を受けるのですから、「私たちの誇り」となります。

 そして、さらに、「私たちの栄光」と言い表しています。すでに記したように、パウロたちが彼らのゆえに栄光を受けるのです。それゆえ、その栄光のために喜びなのです。