テサロニケ第一1章

1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。

 この手紙は、テサロニケの信者の励ましのために記されました。パウロは、まずテモテを遣わしましたが、テモテが帰ってきて良い知らせを受けた後に、この手紙を記しています。

テサロニケ第一

3:1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、

3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、

3:3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。

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 彼は、使徒であることを名乗りませんでした。それは、二章で説明しています。

テサロニケ第一

2:6 また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。

2:7 キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、

2:8 あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。

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 テサロニケの信者に関しては、使徒としての権威を主張する必要がありませんでした。彼らは、パウロたちの言葉を神の言葉として受け入れたからです。そのような中で使徒の権威を主張することは、必要ないことですし、それをするならば、それを誇りとしているという考えを持たせ、害になります。与えられた権威は、必要以上に用いないことです。

 恵みと完全さがあるように祈りました。それこそ、テサロニケの信者の最大の祝福であるからです。恵みとして示されている祝福を私たちが信仰によって獲得することこそ、神の御心に適ったことです。肉に従ったり、この世のものを求めるところにそれはありません。そのようにして祝福が与えられるのですから、神の御心を行い、完全な者とされることこそ、最大の祝福を獲得する道なのです。

・「恵み」→神が備えた祝福で信仰によって獲得できる。

・「平安」→神の御心を行うことで与えられる完全さ。恵みは、完全に達することで最大限に獲得できる。

1:2 私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。

 テサロニケの信者は、幸いな状態にありました。彼らについて覚えて祈る時、彼ら全てについていつも神に感謝することができるからです。

1:3 私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。

 それは、信仰の働き、愛の労苦、主に対する望みの忍耐があったからです。

1:4 神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。

 テサロニケの兄弟たちが神に選ばれた者であることを知っていると言い、彼らが動揺することがないようにさせました。

1:5 私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。あなたがたのところで、私たちがあなたがたのためにどのように行動していたかは、あなたがたが知っているとおりです。

 その理由を示しました。福音は、言葉だけで届いたのではありませんでした。それは、神の力によるものでした。人に理解できる言葉で語ることは大切ですが、力がなければ伝わりません。神がその人を用いて語らせるのであり、神の力が働くところに信仰が生まれます。

 それはまた、聖霊によりました。語る者自身が聖霊に満たされている必要があります。

 そして、強い確信によりました。福音を語る人自身が御言葉に対する強い確信を持っていました。確信のない言葉を誰が信じることができるでしょうか。自分が経験もしていない言葉に確信はないのです。さらに言うならば、聖書への理解が不十分なまま語ること、推測で語ることなども、聞く人が自分を委ねる言葉としては受け入れることはできないのです。また、「~と思います。」「~ではないでしょうか。」「~かもしれません。」というような言葉使いでは、確信を持たせることはできないのです。単なるその人の意見程度にしか受け止められません。

 パウロたちは、力と聖霊と強い確信によって神の言葉を伝えました。それによって信仰を持った彼らは、神によって生まれた者であり、神に選ばれた者であるのです。

 そして、どのように行動したかについても言及しました。詳細は、二章に記されています。それは、一切責められることのない振る舞いでした。人間的なものが入らなかったのです。

1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。

 彼らが喜んだのは、神の恵みを知ったからです。その恵みは、永遠の滅びからの救いだけでなく、神の御心を行い御国で報いを相続することです。御言葉を受け入れ、パウロたちに倣い、主に倣ったのです。神の御心を行う歩みをしたのです。

 御言葉を受け入れる時、神の恵みを知って喜びました。御言葉の本当の価値を知ったので、喜んで受け入れました。

・「喜び」→神の恵みを知ることでの喜び。聖霊の実の一つ。

1:7 その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。

 その結果としてマケドニアとアカイアのすべての信者の模範となりました。彼らが御言葉を受け入れたことは、イエス様を信じて与えられる罪の赦しだけを信じたのではないことは明らかです。彼らは、信者の模範となりました。信者としてふさわしい歩みの模範となったのです。このように、福音は、永遠の滅びからの救いをもたらし、信者を主に倣う者に変える神の言葉の全体を指します。

1:8 主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。

 主の言葉は、彼らのところから出て、マケドニアとアカイアに伝わりました。彼らは、信じたところを伝えたのです。それが周りの地域に伝わることは幸いです。

 そして、神に対する彼らの信仰が伝わりました。次節以降にその内容が記されています。それについては、何も言う必要がないほどのもので、模範となるものでした。

1:9 人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、

 それについては、マケドニアとアカイアの信者自身がパウロたちに関して知らせています。すなわち、彼ら自身が受けた信仰は、もともとは、パウロたちから受けたものであり、それがテサロニケの信者に伝えられ、彼らに及んだのです。それで、テサロニケの信者がどのように偶像から神に立ち返ったかを伝えました。生けるまことの神に仕えるようになったことです。

・「人々自身」→「彼ら自身」マケドニアとアカイアにいる全ての信者。「人々」という不特定として訳すことは、不適切。「自身」と表現していることは、文脈としてすでに取り上げられている人でなければなりません。そして、複数三人称ですので、「マケドニアとアカイアにいる全ての信者」が該当します。さらに言うならば、一般の人々がテサロニケの信者の霊的状態を理解するはずもないのです。人々と表現されるような一般の人々は該当しません。

1:10 御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。

 そして、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを知らせています。マケドニアとアカイアの信者は、自分たちが福音を伝える中で、テサロニケの信者のことを証ししたのです。彼らにとって良い模範者たちなのです。神を知らない者たちが神を信じて、幸いな歩みをしていることをその人たちの模範を示して伝えることができたのです。

 その御子について、神が死者の中からよみがえらせた方です。その方と同じ者に変えられ、同じように歩むことができる者に変えらるのです。肉にはよらない歩みをすることができるのです。彼らは、それを信じたのです。そのような者をイエス様は、御怒りから救い出してくださるのです。喜んで救い出してくださいます。この御怒りは、イエス様が天からおいでになる時であり、地上に対する裁きが下される時です。イエス様を信じた者は、その怒りの裁きに会うことがないのです。