コロサイ3章

3:1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

 「こういうわけで」と二章十二節の内容を受けています。キリストとともによみがえらされたことは、肉に死に、御霊によって新しく生まれたことを表しています。そのような人の歩みが目標としているものは、上にあるものです。上とは、キリストの御座で、最も高く上げられた神の右の座です。キリストは、肉にはよらず御霊によって神の御心を成し遂げ、その業のゆえに神の右の座に引き上げられたのです。それと同じように、肉にはよらず御霊によって歩む者は、キリストと同じ栄光に与る者として歩むことが勧められています。

3:2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。

 上にあるものを思うことは、単に心の中で想像することではありません。上にあるものを目指す行動をしようと心を定めることです。地にあるものを求めて行動するような考えを持たないことです。

3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。

 私たちはすでに死んでいます。ですから地のものとはなんの関わりもないのです。私たちのいのちは、キリストとともに神の内に隠されています。このいのちは、私たちがこの地上でなした振る舞いに対する報いのことです。今は、神の内に隠されています。神がよしとする時があります。その時は、神だけが知っています。

3:4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

 そのいのちは、キリストが栄光のうちに現れる時、私たちが栄光を受けることで実現します。キリストが現れるときは、キリストがこの世にその栄光の姿を現されるときです。それは、空中再臨に始まります。そして、それは、信者がキリストの裁きの座に立つときであり、報いを受けるときです。キリストが栄光のうちに現れる時、御霊によって歩んだ者は、報いとしての栄光を受けてキリストとともに現れます。

3:5 ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。

 地にある体の部分とは、肉の欲による体の振る舞いです。欲自体は聖いものですが、不適切に用いることで罪を犯します。

 みだらな行い、汚れは、行いによる罪です。情欲、貪欲は、欲を原因としていることが表されています。

 貪欲が偶像礼拝であると示されています。欲を貪ることは、あらゆる悪をもたらします。偶像礼拝は、神以外のものを求めることですが、人の手の業を拝む行為が伴います。本質は、欲の追求と満足のためです。その神としているものは、彼らの欲望です。

 それらを殺すのです。もはやそれが働かないように殺します。欲を殺すのです。

3:6 これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。

 信者にとって、これらは決して軽くないものです。なぜならば、これらのことのために神の怒りは不従順の子らに下ります。本来ならば神のさばきを受けるべきことであのです。そのようなものを求めるべきではないのです。

3:7 あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。

 いま信者であり、主に従っている者も、かつてはそのようなものの中に生きて、そのような歩みをしていたのです。動詞は、アオリストで単純過去を表していて、信者になってからも継続していたということではありません。

3:8 しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。

 しかし、今も見られるものとして列挙されたものがあります。それを捨てるのです。肉の欲によるものではありませんが、現してはならない悪です。

 怒り、憤りは、思い通りにならない時に現れます。神に委ねないからです。

 悪意は、悪い考えです。

「罵り」→良いことへの召しに対して、鈍いこと。また、悪いことを見分けることに鈍いこと。

 口から出る恥ずべき言葉などです。

3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、

3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

 互いに偽りを言ってはなりません。それは、古い人の行いです。すなわち、肉の欲による振る舞いです。そのようなものは脱ぎ捨てるのです。新しい人であるキリストを着ています。すなわち、その行いは、キリストの行いになります。

 新しい人は、キリストによって造られました。そのキリストのかたちすなわち同じ者になるように新しくされ続けられます。私たちは、信じてそれを求め続けます。

 その至るところは、真の知識です。

コロサイ

1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

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 御心についての知識を得、その内を歩むことで、神を真に知るようになるのです。すなわち、体得するのです。神と同じ者になります。

3:11 そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

 そこには、人種、国籍、身分の差はありません。人が現わすのは、キリストです。キリストが全てなのです。キリストがすべての人の内におられて業をなすのであり、皆キリストと同じかたちになるのです。

 これがキリストを信じる者の姿です。しかし、多くの人が、肉が現れるのは人として仕方のないことであり、御霊による歩みが難しいように説くことは、誤りです。聖書は、信仰によってそれができると記しているのです。自分の霊的状態を是認し、他の人に対しても自分と同じようであることが人の姿であるかのように説いてはなりません。肉は、捨て、殺すべきものであるのです。自分の霊的状態を基準として、神の言葉を引きずり下ろすようなことをしてはなりません。

3:12 ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

 互いの関係について、神に選ばれた聖なる者として振る舞うのです。神にふさわしい歩みが求められています。神に愛されているのですから、聖なる者として、神にふさわしい愛によって愛し、深い同情の心を持ち、親切、謙遜、柔和、寛容を着ます。これは、新しい人を着たことの表現を受けていますが、外に現すことです。

・「深い」→内臓からの。表面的でない。

・「慈愛」→同情。

3:13 互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 互いに忍耐します。他の人に対して不満をいだいても、赦すのです。主の赦しに倣います。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。

 互いの関係でもっとも重要なのは、愛です。その愛は、身に着けるべき徳目の上に結ぶ帯として完全です。全てのことは、愛を動機とし、信仰によって行うのです。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 キリストの完全さが心を支配するようにします。「そのために一つの体に召されたのです。」「そのために」が指し示しているのは、「召された」ことです。「一つ体になる」ことではありません。すでに存在している一つ体の中に召されたのです。「召された」ことは、私たちの心をキリストの完全さが支配する機会となるのです。

エペソ

4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

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 体なる教会の成長は、私たち皆がキリストの身丈に達することによって達成されます。信者の成長は、キリストの体に召されて、その中で成長し達成されるのです。

 それは、神の恵みの業としてなされるのですから、そのことを喜び感謝に溢れるのです。

・「平和」→完全さ。

・「感謝の心を持つ」→神の恵みの働きに対する感謝にあふれること。

3:16 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

 その体の中では、キリストの言葉が豊かに住むようにするのです。住むことは、一時的でないことを表しています。私たちを完全にするのは、キリストの言葉です。

 その言葉を用いて、互いに教えまた忠告し合います。そこには、知恵を尽くすことが求められています。互いが成長するためになされる働きです。しかし、相手は時として肉が現れる人であり、知恵を尽くす必要があります。

 そして、神に対しては、歌を歌います。詩は、もともと歌われるものでした。特に詩篇を指します。賛美は、神を褒め称えるものです。神に栄光を帰すものとなります。霊的な歌は、その歌の性質を示していて、霊的なものであることです。霊的であることは、人の肉を満たすことを目的としていません。

 それらを心からの感謝をもって歌うのです。その中心となるのは、言葉です。

3:17 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。

 人が何かをするとき、全て主イエス様の業として行います。言葉であれ行いであれ、主の業です。これは、人の考え、肉の思い、肉の業ではありません。人は、そのようなことをしばしば行いますが、それらは神の前には全く評価されません。そもそも、私たちのなす全ては、神がその栄光のためになす業です。それを実行するのは、主イエス様です。ですから、主イエス様によって父なる神様に感謝するのてす。

3:18 妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。

 妻が夫に従うことは、主にある者にふさわしいことです。従わないことは、証しを損ないます。従うことで、主イエス様がかしらであることを現すからです。それは、教会がキリストに従うように従い、その証しを担うのです。

3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

 夫が妻を愛することも、証しを担うことになります。それは、キリストが教会を愛している証しを担うことであるからです。辛く当たってはならないのです。キリストは、教会に対してそのようにはされません。

3:20 子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。

 子どもたちが両親に従うことは、主に喜ばれます。それは、神の目にかなったことであり、神の御心を行うことであるからです。律法にも命じられていることです。

3:21 父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。

 父にとって、子どもたちは、主の栄光を現す器として育て上げなければならないのです。子どもたちの意欲を父が失わせるようなことをしてはならないのです。子どもたちを苛立たせるならば、子どもたちは意欲を失うのです。正しいことを語り、教えることに対して、子は、苛立つことはないのです。子供の誤りを正すことも必要です。しかし、父が、教えと矛盾した振る舞いをしたり、肉的なことをするならば、苛立つのです。そのようなことをしてはならないのです。

3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。

 奴隷が地上の主人に従うことは、奴隷としてふさわしいことです。主人に逆らったとしたら、奴隷としての証しが損なわれるのです。それは、主の教えの証しです。それで、主を恐れつつ真心から従うのです。そうすれば、うわべだけの仕え方にはならないのです。

3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

 すべてのことを主に対してするように心から行います。なんでもそうするのです。

3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 そのような行いの全てに対して、主からの報いとして御国を受け継ぐのです。御国の相続は、行いに対する報いなのです。ですから、これを大いなる望みとして喜んで行うことができるのです。

3:25 不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。

 しかし、不正を行えば、不正を報いとして受けます。不正は、神の言葉に背く悪い行いをするとこです。それと同じことを返されます。不公平はないのです。恐れなければなりません。