コロサイ2章

2:1 (それで)私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。

 パウロは、直接顔を会わせたことがない人たちのために苦闘していました。会ったことがない人のことについて知ることは難しいし、何をしているかを知ることは難しいです。パウロは、その人たちが彼の苦闘について知ることを望みました。

2:2 私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。

 苦闘の目的を明らかにしました。まず、愛のうちに結び合わされることで心に励ましを受けることです。この愛は、神の愛と同じ愛です。

 そして、神の奥義であるキリストを知ることに関する理解が、全き確信に達するためです。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。

 知恵は、神の御心を行う分別です。知識の体得のためには実践が必要です。知恵は、神の御心を行う分別です。知識は、キリストを情報として知ることです。その全てが宝として隠されています。それは、宝のように価値あるものであるので、このように表現されています。

2:4 私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです。

 このようにキリストを知ることについて示してきたのは、惑わす者がいたからです。まことしやかな議論は、すぐに嘘とは分からないような議論です。そのような教えが危険なのです。

2:5 私は肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたとともにいて、あなたがたの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。

 彼は、その教えの誤りについて勧めをするにあたって、まず、彼らを褒めました。彼らの秩序と、キリストに対する堅い信仰を見て喜んでいました。

2:6 このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリスト(にあって→のうちに)歩みなさい。

 キリストにあって歩むことを勧めました。キリストにこそ、知識と知恵の宝が隠されているのであり、そのキリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩むのです。彼にあって歩むことは、キリストがその人のうちにあって業をなすことを信じて歩むのであり、その人の歩みは、キリストの業の現れである歩をすることです。

2:7 キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。

 キリストに根ざすことは、全ての元がキリストにあることです。歩みの全てがキリストを元とすることです。キリストの教えから離れたことをもととしないし、肉によるのでもありません。

 そして、建てられることは、成長を意味します。完成を目指して成長するのです。

 教えられたとおりに信仰を堅くします。惑わしに乗ってはいけないのです。正しい教えの内に信仰を堅くするのです。

 信仰の内にあふれるのです。感謝をもって、信仰の内に溢れるのです。すなわち、大いなる信仰を持ちなさいということです。全く信じることです。予期することを超える信仰を持つことです。教えを受け入れるにあたって感謝するのです。人は、しばしば教えを受け入れることに困難を感じたり、時には、従いたくない思いを持ちます。しかし、感謝をもって信じるのです。喜んで、信じるのです。

・「あふれるばかりに感謝しなさい。」→「(信仰の内に:訳出されていない。原意は、「それの内に」で、「それ」は、信仰と同じ女性名詞で信仰を指している。)溢れ、感謝しなさい。」

2:8 あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。

 騙しごとの哲学に惑わされないように警告しました。その教えを受け入れることで、その人の捕らわれの身になるのです。

 その教えは、人の言い伝えであり、この世の諸々の原理すなわち教えによるもので、キリストによるものではありません。「霊」と表現していますが、教えに関わるので、霊と表現しています。これは、人のことです。

・「もろもろの霊」→原理(全体をさす:複数、定冠詞付き)。

2:9 (なぜならば)キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 その理由を示し、キリストの内に神の満ち満ちた性質が形を取って宿っています。形を取っているというのは、キリストは人として来られて、肉体にあって神の性質を現された方であり、神であることを目に見える形で示された方であるからです。そのキリストと同じになることが信者に求められているのであり、キリストから外れた、人から出た教えになんの価値もないのです。

2:10 あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

 コロサイの信者は、全ての支配と権威の頭であるキリストにあって満たされているのです。このことは、十五節に「様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。」と記されていることの実現の根拠を示しているのです。

2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。

 さらに信者は、割礼を受けています。肉の体を脱ぎ捨てたのです。肉を捨てたことです。それは、体に人の手で受けたる割礼のことではありません。

2:12 バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

 このバプテスマは、直接的には、水に浸けられたことを指しているのではなく、バプテスマによって表される霊的経験について示しています。キリストとともに葬られたのであり、肉に対して死んだ者とされ、キリストとともによみがえらされたのです。これは、新しく生まれたことを指していて、御霊による新しい歩をする者とされたことを言っています。

 このような者とされたのは、信仰によります。私たちは、義とされるために神がキリストをよみがえらせたと信じました。その御力により私たちを変えることができると信じたのです。

 しかし、多くの人がキリストを救い主と言い表しますが、キリストをよみがえらせた神の力を信じないのは残念です。私たちを義とする信仰は、その神の力に対してです。その力を信じるので、私たちを変えることができると信じるのです。神にはそれができます。

2:13 背きのうちにあり、また肉の割礼がなく、死んだ者であったあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちのすべての背きを赦し、

 異邦人であるコロサイ人は、背きの中にあり、また割礼がなくて、死んだ者でした。そのような者が、神によってキリストとともに生かされました。これは、前節の続きとして記されていて、生きた者として歩むことを言っています。

 その全ての背きを赦してくださいました。今までは、律法の規定に照らせば、罪人でした。そのことは、「背きのうちにあり」「割礼」がないという言葉で記されていますが、そのような律法の違反に関しても全て赦されているのです。このことを取り上げているのは、律法の規定を守らないことに対して批判する人がいたからです。全ての背きは、赦されているのです。

2:14 私たちに不利な、様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

 様々な規定で私たちを責め立てている債務証書は、律法のことです。それを無効とされました。その方法は、十字架に釘付けにして取り除いたのです。キリストの死による義が実現したので、律法の規定は、全く効力をなくしたのです。

2:15 そして、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました。

 様々な支配と権威の武装とは、次節で「こういうわけですから」と受けていますので、律法の規定に関する支配と権威です。これは、十節のキリストが支配と権威のかしらであることと対比されています。

 その支配と権威は、律法の支配と権威です。律法が第一のものとされてきました。これを守ることが最優先とされたのです。また、律法は、モーセを通して神から与えられたものです。神の権威なのです。しかし、それらの武装は解除されました。キリストの捕虜とされたのです。本体であるキリストが現れた以上、それらは、その役割を終えたのです。

・「支配」→始まり。第一のもの。優先権。

2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。

 このような理由で、律法の規定による食物と飲み物、祭りや新月や安息日のことで、これを守らないとして批判する根拠はないのです。

2:17 これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。

 律法は、キリストを比喩として示しているのです。もはや、支配と権威の力はありません。

2:18 自己卑下や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。彼らは自分が見た幻に拠り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、

2:19 かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

 自己卑下する人たちは、キリストにあって歩んでいる者を断罪します。キリストを信じて義とされ、その歩みも、キリストと同じ者に変えられることを信じて歩む者たちを傲慢な者であるかのように断罪するのです。

 彼らは、キリストによって義とされたということを信じていないのです。自分は、罪深い者であると考えます。新しく生まれた者としての歩みを理解できないのです。キリストが私たちの内に住まれ、御自分の業をすることを信じません。キリストと同じ完全に義である歩をすることを理解できません。キリストに結びついていないのです。

 彼らは、自分は罪深い者だと言います。どうして義の実を結んで歩むことができようかと言います。謙遜に見え、敬虔そうに見えますが、信仰によって歩んではいません。神の言葉を正しく理解していません。

 御使い礼拝する者は、御使いを見たという経験が喜びなのです。御使いを見るほどの経験こそ素晴らしいのであって、それ以外のことを価値ないとして断罪します。しかし、たとい御使いを見たとしても、キリストの業として御心を行うことにまさることはありません。御使いを見ることは、かつて、霊的な預言者などが経験したことです。神様の直接的な啓示として見るのですが、その人自身が神の御心にかなって歩むのでなければ、そのような経験も価値がありません。まして、肉の思いによっていたずらに思い上がることなどは、神の御心からは完全に離れています。

 キリストに結びついて、キリストの業を行うことで、愛によって結び合わされ、神に育てられて成長していくのです。他の兄弟を人間的な基準で断罪する者に愛はなく、成長することはありません。

2:20 もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、

2:21 「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。

 信仰者は、キリスト共に死んだので、この世のものとの関わりは一切断たれました。この世のもろもろの原理すなわち教えから離れたのです。しかし、彼らの生き方は、この世に生きている者の生き方をしていました。「つかむな、味わうな、さわるな」という戒めに縛られていました。そのようなものは、キリストとともに死んだ者にもはや関係のないことであるのです。

・「もろもろの霊」→原理(全体:複数、定冠詞付き)。

2:22 これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。

 これらは、肉体に関する規定であり、使用は破滅をもたらします。すなわち、使ったならば、破滅するのです。それは、人間の戒めと教えであり、神の御心からはかけ離れていて、神の前に死んだ行いであり、実を結ぶことなく、報いをもたらすことはありません。滅びなのです。いわゆる救いの立場を失うことではありません。報いがないのです。

・「消滅」→破滅。ここでは、使用した結果がもたらすもの。それ自体はやがて消滅するが、ここでは、使用した結果について言っています。

2:23 これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

 人のもろもろの教えは、知恵のあることのように見えますが、なんの価値もありません。肉を満足させるだけです。

・「定め」→関係代名詞で受けていて、もろもろの原理すなわち教えのことです。