コロサイ1章

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、

1:2 コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。

 コロサイの信者に対して、使徒であることを初めに告げました。それは、教に関わる誤りを正す必要があったからです。使徒であるパウロが啓示されている言葉と異なる教えがあったからです。それで、「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒」と名乗っています。神とキリストに立てられていることを明確にしました。

 そして、共に証しする者としてテモテを紹介しています。テモテも、主に忠実に仕える者であるからです。

 コロサイの信者は、聖徒です。聖なる者すなわち神のものとされています。そして、忠実な兄弟です。幸いな歩みがありました。

 そのコロサイの信者のために、恵みを祈りました。神が備えた祝福を彼らが信仰によって獲得できるように祈ったのです。

 続けて、「完全さ」を祈りました。その恵みを満額で受け取るためには、完全であることが必要です。

 これは、単なる挨拶の言葉ではなく、パウロがコロサイの信者のために真に求めていることなのです。

・「恵み」→主が備えて下った良いもの。信仰によって獲得できる。

・「平安」→神の御心を行ってもたらされる完全さ。

1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

1:4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

 パウロたちは、コロサイの信者のために祈る時にいつも、父なる神に感謝していました。イエス・キリストの父なる神と表現していますが、神がコロサイの信者を御心に適うことを図り、イエス・キリストが信者のうちにあってそれを実行しているからです。

 彼らが感謝していることは、キリスト・イエスに対するコロサイの信者の信仰について聞いたからです。人となられたキリストに対する信仰です。その方が贖いのために命を捨てた愛を信じているし、その方が信者のうちにあって、神の御心を行われることを信じているのです。人としての歩みの中で完全に神の御心を行われ、完全な模範を示された方が働いて御心を行わせると信じているのです。

 そして、聖徒に対する愛を聞きました。兄弟を神のものとして愛するのです。それは、御心を行うことの実践です。聖徒に対する愛は、主イエス様が最後の晩に弟子たちに命じられたことです。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」と。それは、戒めの根本であり、全ての戒めを集約したものです。

1:5 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。

 そして、そのような歩みは、天に宝として蓄えられている報いをもたらす望みに基づいています。彼らがキリストの働きとして御心を行い、聖徒を愛するのは、報いがいただけるという強い動機付けによるのです。その望みがありますから、熱心に行うことができるのです。

 このことは、福音の言葉として伝えられたのです。福音は、天の望みを伝えるのです。天で報いを受けることを伝えるのです。それが救いなのです。なお、神を知らない人に対しては、神の存在を伝え、罪人が裁きを受けて滅びに至ることも伝え、イエス・キリストの十字架と、神がよみがえらせたことを伝えます。異邦人の場合には特にそうです。それを信じることは、信仰の始めです。そして、ここに記されている事柄を伝えるのです。永遠の滅びから救われることだけが福音の全てではありません。神の言葉の全体を指します。

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。

 この福音によってもたらされる変化は、実を結び成長するという変化です。それは、恵みとして聞きました。その恵みは、天で大きな報いが備えられていることです。彼らは、それを本当に理解しました。自分のものにしたいと本気で思ったのです。それで、信者のうちにあって働かれるキリスト・イエスを信じ、聖徒を本気で愛したのです。そのようにして、実を結びさらに信仰と愛が成長したのです。それは、世界中で起こっていることでした。

・「本当に理解」→福音を聞いたことと区別して「知る」と記されているので、「本当に理解」と訳している。

 聞いた神の恵みは、福音の中で語られた「天に蓄えられている望み」のことで、御国で報いを受けることです。本当に理解したとは、その約束を信じて従ったことを表しています。それで、実を結び、成長し続けているのです。

 恵みを聞いて理解したことは、自分の経験として知ったのです。それは、信仰によって受け入れたことを表しています。

1:7 そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、

1:8 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。

 その愛は、エパフラスが伝えてくれました。彼らは、エパフラスから福音を学びました。福音は、神の言葉の全体を指していて、学んだとあるように、どのように歩むべきかを学んだのです。そして、彼らには、その御言葉の実践としての愛がありました。

1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

 パウロは、そのことを聞いた日から絶えず彼らのために祈り求めていました。彼らのさらなる成長のためです。

 それは、神の御心についての知識に満たされることです。まず、御心を知ることが必要です。少なくとも情報としての知識を持たなくてはなりません。そのための霊的知恵と理解力を求めました。知恵は、御心に従う分別です。神の御心に従おうという分別がなければ、御心についての知識を身に着けることはできません。理解力は、御心を理解する能力です。

 このように祈ることで、彼らの成長を求めました。ますます知識を習得することをまず祈りました。

1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

 次も知ることですが、こちらは、体得することです。主にふさわしく歩み、あらゆる点で主の御心にかなって喜ばれ、あらゆる良い業の内に実を結ぶことで、神を知るのです。これは、実践して体得することです。

 このように、天で報いを受けるためには、知識と神を知ることにおいて成長することが必要です。言い換えるならば、御心を知り、御心を行うことで報いをいただけるのです。

1:11 神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

 そして、忍耐と寛容を身につけるように祈りました。それは、御心を行い、聖徒を愛する力になります。実践のためにはどうしても必要です。その方法は、神の栄光の支配を認めるところにあります。全ては、神の支配にあることを認めることです。そして、それは、神の栄光のためであることを知ることです。そうするならば、御心を行う上での困難は、神が御自分の栄光のために与えていると知るのです。そうするならば、忍耐できるのです。また、聖徒に対して寛容でいられるのです。神の支配を認めるからです。神様の主権を認める時、忍耐と寛容が与えられます。

 ダビデは、シムイが呪ったとき、そのままにさせました。主が呪えと言ったのだと。主の支配を認めました。

1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

 相続に与る資格を与えてくださった御父に喜びをもって感謝を捧げることかできるのは、天での相続を望むからで、それを喜びとしていることを表しています。それを望むならば、御心を行うことに熱心になるのです。

1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

 これ以降、 御子の偉大さが示され、その御子を与えた目的が示されています。それは、私たちを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

 御父が御子をとおして何をなされたかが示されています。私たちを暗闇の力から救い出し、御父の愛する御子のご支配の中に移してくださいました。悪魔の力から救い出されました。御子の支配に移され、罪の奴隷でない真の自由を与えられ、神の御心を行う者とされ、御国での報いの相続を約束されました。御子は、愛によって支配されるのです。

1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 この御子にあってを贖いを得ています。贖いは、以前、賠償として失われたものを買い戻すことです。神のものとされることです。それは、罪の赦しと言い換えられています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。

 御子は、見えない神のかたちすなわち見えるように現された方です。

 全ての造られたものを超えて第一の方です。。

・「先に生まれた方」→第一の方。最も優れた方。生まれたことを意味していない。

1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。

 その理由は、御子によって全てが造られたからです。そして、それらは、御子のために造られました。

1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 そして、万物の存在について、御子が万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

 御子は、教会との関係においては、かしらです。教会はその体です。御子は、始発点であり、死者の中から出てきた最初です。なお、死者のよみがえりに関しては、最初ではありません。これは、体が贖われることにおいて最初です。信者もよみがえることで、体が贖われます。それとともに、肉体にあって歩む信者にとって、肉にはよらず御霊によって生きることの目標になっています。

 一連の御子に関する記述は、御子が第一の者であることの例証です。

1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、

1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

 その理由が示されていて、御子によって和解させることを図られたからです。その業が御子の栄光となり、また御自分の栄光となるために、和解のためのいけにえは、最も偉大なものでなければならないのです。それで、ご自分の満ち満ちたものを御子のうちに宿らせたのです。御子の栄光が最も偉大なものとなるように、御子を偉大なものとし、その方の犠牲を通して偉大な栄光が現されたのです。

 そして、なされた御業は、十字架の血によって完全さをもたらすことです。罪の贖いのための犠牲の偉大さを示すとともに、その贖いは、完全さをもたらします。そのようにして、御子によって、御子のために和解させたのです。全てにおいて第一である御子によって和解を成り立たせることで、御子のこの上ない栄光となり、父のこの上ない栄光となるのです。神が栄光を現すのであれば、その特性の最大限のものを表されるのです。

 なお、「平和」としたのでは、平和をもたらし、そして、和解させたという順であり、順が逆です。

・「平和」→完全さ。

1:21 あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、

1:22 今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

 信者との関係において、信者が、御子が肉の体において、その死によって和解させられたことを取り上げているのは、信者が聖められる模範となっているからです。信者は、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者となって御前に立ちます。それが和解の目的ですが、そのためには、肉に死ぬ必要があります。キリストは、肉において死なれたのです。キリストの死と同じようになって、新しく生まれた者として生きるようになるのです。そのようにして、私たちが聖められるのです。

1:23 ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられており、私パウロはそれに仕える者となりました。

 そのような神の計画に沿って、信者は、御国で報いをいただくことができるのです。そのために必要なことがここに記されています。それは、信仰に土台を置くことです。神の言葉を信じて、堅く立ち、その中に生きることが必要です。

 そして、聞いている福音の望みから外れることがないようにしなければなりません。福音の望みは、神の御心を行うことで報いをいただけることですが、その御心を行うことから外れたならば、報いは受けられません。

 パウロは、その福音を委ねられました。彼は、福音の奉仕者になりました。

1:24 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。

 その御言葉を宣べ伝えて受ける苦しみは、ピリピの人たちのためのものですが、その苦しみを喜びとしています。キリストの体である教会のための奉仕であるからです。教会は、キリストにとって、大切なものです。パウロの働きは、キリストの働きによるのですが、キリストが直接働くことはしません。この地に置かれた働き人をとおしてなされる業なのです。それは、いわばキリストの苦しみの欠けたところであるのです。キリストは、十字架の苦しみによってその業を始められたのであり、今も大きな愛によって業をなしておられます。しかし、十字架の後の働きにおいて、肉体の苦しみを経験することはできません。その意味で、苦しみの欠けたところなのです。代わりにパウロが苦しみを負っています。

1:25 私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、

1:26 すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。

1:27 この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

 奥義は、神の言葉ですが、この奥義は、キリストであると記されていて、奥義が指し示していることは、人の内におられるキリストのことと、キリストが栄光の望みであることです。

 人の内におられるキリストは、人の内に住まれて業をなす方のことです。それが福音の目的であり、人がキリストと同じ者に変えられることであるのです。そのことは、後半にも関係していて、大いなる報いをもたらします。

 栄光の望みについては、三章にキリストの栄光の現れが信者にとっての栄光であることが記されています。キリストの栄光に与り、地上での行いに対する報いを受けることです。

1:28 私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。

 パウロは、キリストを宣べ伝えています。それは、あらゆる人をキリストにあって成熟した者として立たせるためです。すべての人が成熟することが求められています。

 そのために、全力を尽くしています。あらゆる知恵をもってそれをなしています。また、すべての人を諭しています。また、すべての人を教えています。教会で教えがなされるのはこのためです。ですから、教会で語られることは、この目的に沿ったものでなければなりません。また、聞く者も、栄光の望みを受け継ぐ者となることができるように、成熟のために聞かなければならないのです。

1:29 このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 パウロのうちには、キリストの力が働いていました。パウロのうちにあって業をなしているのはキリストであるからです。彼は、労苦しながら奮闘しています。キリストがそうさせるのです。