コリント第二12章
12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
誇ることがどうしても必要です。「確かに、」誇っても益にはなりません。しかし、主の幻と啓示に話を必ず進めます。
パウロは、誇ることに益がないことを明確にした上で、それがコリントの人たちにとっては、どうしても必要なことであることを示しました。彼らを誤った道から引き返させるためには、パウロを受け入れることが必要であったからです。それで、必ず話を進めると表明しました。
・「いられません」→それは必要である、必然的である。起こるべきこと、すなわち、絶対に必要なこと。
・「」→確かに、本当に、一方では。文を強調したり、後続の節との対比を設定するためによく使われます。
・「話に入りましょう」→行く、来る。未来形。必ず入る。
12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
12:3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
パウロは、一人の人のことを取り上げました。六節の言葉から、それがパウロ自身であることが分かります。彼は、十四年前に第三の天にまで引き上げられました。肉体を離れてであったか、肉体のままであったかに触れていますが、それは知りませんと言い、神がご存じだと言いました。彼には、第三の天の様子を見ることが許されましたが、自分自身がどのような状態であったかは、知らされていませんでした。しかし、神がご存じてあるということで、それが間違いのない事実であることを示しました。
12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
彼は、そこで語られる言葉を聞きました。しかし、彼は、それを言い表すことができません。人間が語ることを許されていない言葉です。
12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
このような人のことを誇ると言いました。彼は、第三者としてその人のことを取り上げています。それがパウロであることはわかるのですが、彼は、自分自身の誇りとして決して誇らないために、このような言い方をしました。彼自身については、弱さ以外には誇らないと言いました。
彼は、前の章で、自分が受けた苦難や、教会への心遣いのために心を痛めたことを証ししました。それらは、御使いのような存在に比べたら、力がないために経験しなければならない苦しみであり、神のような力がないために心を痛めるのです。彼は、そのような弱さを誇りとしていました。
・「弱さ」→力がないこと。非力。無力。身体的な不調や病気を指す身体的な意味でも、道徳的あるいは精神的な弱さを示す比喩的な意味でも使われる。
12:6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
その経験を誇りたいと思っても、愚か者にはならないでしょうと言いました。その経験は、本当のことであったからです。しかし、彼は、誇ることを控えますと言いました。人が、彼について、見たり、聞いたりしたこと、また、啓示の偉大さ以上に、彼のことを過大に評価、称賛することがないためです。
・「すばらしい」→常識を超えたもの、通常の限界を超えたものを表すのに使われる。それは、何かを凌駕する偉大さや、並外れた程度を意味する。
12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
そのために、高慢にならないように、肉体に一つの棘を与えられました。それは、彼を打つためのサタンの使いです。
彼にとっては、その棘は、神様の業をなすにあたり、不都合な妨げでした。それで、サタンの使いと言いました。パウロが持っていた肉体的な弱さは、目が悪いことと考えられます。彼は、それ以外の多くの肉体的な苦難に耐えることができる力がありました。しかし、彼は、手紙を代筆してもらい、自分で書く時には、大きな文字で書いていますので、目が悪かったのです。聖書を読んだり、手紙を書く上では不都合でした。
12:8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
彼は、その使いを去らせてくださるように、三度、主に願いました。
12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
主のお答えは、主の恵みはパウロに十分であると言われました。恵みは、主が備えた良いものです。信仰によって獲得できます。この場合には、パウロが主から委ねられた業をなすことが恵みです。彼は、恵によってそれを与えられ、信仰によってそれを受け取り実行してきました。
主は、パウロの体が不完全であるので用いることができないということはないのです。主の力は、その肉体的な弱さの中に完全に現されるからです。それで、彼は、大いに喜んで自分の弱さを誇りましょうと言いました。それは、キリストの力が彼を覆うためです。
テモテ第一
1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。
1:12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。
1:13 私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
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12:10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
彼は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいました。彼が弱いそのような時こそ、キリストが力を現されて強いからです。キリストの力が現され流からです。
12:11 私は愚か者になってしまいました。あなたがたが無理に私をそうさせたのです。私は当然、あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。
彼は、自分が誇ったことを受けて、自分は、愚か者になってしまいましたと言い表しました。このような誇りは、価値がないことを示したのです。誇ったのは、コリントの人たちが無理やりそうさせたと言いました。コリントの人たちの心がパウロから離れようとしていたからです。そして、間違った教えを受け入れていたからです。
パウロは、彼らから当然推薦を受けてよかったはずなのです。彼らは、あの大使徒たちを受け入れました。それならば、あの大使徒たちに優っているパウロを当然受け入れるべきなのです。彼自身は、取るになりない者であっても、大使徒たちには、劣りませんでした。大使徒たちに優先して受け入れるべきであるのです。
12:12 私は忍耐を尽くして、あなたがたの間で使徒としてのしるしを明らかにしました。しるしと不思議と力あるわざによってです。
彼は、使徒としての証拠を示しました。それは、彼らの間でなされたしるしと不思議な業です。それは、パウロの語る言葉が神からのものであることのしるしなのです。
12:13 あなたがたが他の諸教会より劣っている点は何でしょうか。この私が、あなたがたに負担をかけなかったことだけではありませんか。この不正のことは赦してください。
そして、パウロは、コリントの教会に全く負担をかけなかったことを取り上げました。他の教会では、養ってもらうために負担をかけたのです。しかし、コリントの教会には全く負担をかけませんでした。すでにこのような事態を想定していたことが分かります。コリントは、ギリシア地方のローマの主要な都市です。経済的な発展を遂げていました。この世のものを愛する価値観が強いのです。自分を誇り、優れた人について誇り、この世の欲や、利得を求めやすく、そのために兄弟と争うのです。裕福な者は、自分を満足させて貧しい人を顧みません。そのような人の価値観は、外に現れます。初めから警戒していたのです。
彼は、負担をかけなかったことがコリントの教会の劣った点であると言いました。その不正を赦してくださいと願いましたが、それは、彼の深い配慮によるものです。
12:14 見なさい。私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。
三度目の訪問に準備ができていると言いました。その訪問で、彼らに負担をかけることはないと言いました。それは、パウロが求めているものは、彼らの持ち物ではないことを言うためです。パウロは、騙し取っていると言う者がいたからです。そのような疑念を一切抱かれないために、彼は、このことを言いました。パウロは、彼らの持ち物ではなく、彼ら自身を求めていたのです。
12:15 私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。
そして、彼らを子として愛しているので、彼らのために蓄え、彼らのために使うのです。子であるコリントの人たちが親であるパウロのために蓄える必要はないと言いました。
コリントの信者のたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、自分自身を費やすことを言いました。彼らを子として本当に愛しているからです。
そこまで愛を注いでいるのに、愛されなくなるのでしょうかと問うています。
12:16 それならそれでよいとして、私はあなたがたに重荷を負わせませんでした。それでも私は、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったと言われます。
その通り。それで、私はあなた方に重荷を負わせませんでした。それでも、彼らは、パウロは悪賢く、騙し取ったと言われるのです。
・「それならそれでよいとして」→その通り!。そうである。
12:17 私はあなたがたのところに人を遣わしましたが、そのうちのだれかによって、あなたがたをだますことがあったでしょうか。
12:18 私はテトスにそちらに行くように頼み、あの兄弟もともに遣わしました。テトスはあなたがたをだましたでしょうか。私たちは同じ心で歩んだではありませんか。同じ足跡をたどったではありませんか。
パウロは、コリンとの人たちを騙すようなことがあったでしょうかと問いました。テトスも、あの兄弟と共に遣わしましたが、テトスは、騙し取ったでしょうかと言いました。彼も、パウロと同じ心、同じ歩みでした。
12:19 あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと、前からずっと思っていましたか。私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する者たち、すべてはあなたがたが成長するためなのです。
パウロは、彼の語っていることは、自己弁護のためではないことを示しました。彼らはそのように考えていたかもしれません。しかし、これは、神の御前で、キリストにあって語っていることであり、人間的な動機は、一切なことを示しました。このようなことを語るのは、コリントの人たちの成長のためです。
12:20 私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、混乱がありはしないでしょうか。
彼は、心配していました。それは、互いに期待外れになるのではな以下と考えたからです。パウロの期待から外れて、コリントには、争い、妬み、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、そして混乱があるのではないかと。
12:21 私が再びそちらに行くとき、私の神があなたがたの前で、私を恥じ入らせるのではないでしょうか。そして、以前に罪を犯していながら、犯した汚れと淫らな行いと好色を悔い改めない多くの人たちのことを、私は嘆くことにならないでしょうか。
そのようなものを見たならば、彼は恥じ入るのです。彼らを変えるのは、神の働きです。しかし、神がそうすることをされないならば、その時は、パウロは、恥入らなければならないのです。そして、以前から罪を犯している人たちのために嘆くようなことにならないでしょうかと。彼らは、汚れを犯し、淫らな行いをし、好色を求めていたのです。以前から多くのそのような人たちがいたのです。その彼らが相変わらず悔い改めないのを見るのではないでしょうかと。そのような罪の生活から考えを変えて、神に従うようになることを期待しているのです。