コリント第二11章
11:1 私の少しばかりの愚かさを我慢してほしいと思います。いや、あなたがたは我慢しています。
パウロは、少しばかりの愚かさを我慢してほしいと望みました。しかし、あなた方は、我慢させられています。それは、四節に「よく我慢しています」と記されているように、大使徒と言われている人たちの間違った教えにも我慢していました。本来ならば、拒むべきところを受け入れている状態のことを言っています。
・「我慢して」ほしい→未完了形。いつも我慢する。
・あなたがたは「我慢しています」→我慢していますし、させられたれています。完了形。中態、あるいは受動態。我慢することが、過去から今に至るまで続いていることを意味します。
11:2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
11:3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。
パウロは、神の熱心をもって、コリンとの人たちのことを熱心に思っていました。彼らをキリストに捧げる清純な処女として考えていました。しかし、彼らは惑わされようとしていたのです。彼らの心の考えが汚されて、キリストの教えから離れ純潔から離れてしまうのではないかと心配していました。
・「思い」→心の考え、目的、計画などを指す。神の意志と「思い」を一致させることが、霊的成長と道徳的誠実さにとって極めて重要です。
11:4 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。
実際、彼らは、異なる教えによって惑わされていたのです。パウロたちが宣べ伝えなかった別のイエスが宣べ伝えられました。受けたことがない異なる霊や、受け入れたことがない異なる福音を受けたのです。それでも、コリンとの人たちは、我慢していたのです。
11:5 私は、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと思います。
パウロは、自分があの大使徒たちに少しも劣っていないと当然考えていました。
・「思っている」→結論づける。当然の帰結として結論を出す。
11:6 話し方は素人でも、知識においてはそうではありません。私たちはすべての点で、あらゆる場合に、そのことをあなたがたに示してきました。
話し方においては、専門的な訓練を受けたもののようではありませんでした。しかし、知識においてはそうではありませんでした。彼は、聖書に関して専門的な教育を受けてきました。そして、キリストから教えを啓示されたのです。直接啓示を受けた人以上に知識を持ち合わせている人はいません。そして、その知識を教えてきたのです。
・「素人」→専門的な訓練を受けたものでない。素人、特定の分野で未熟な人。訓練された専門家と対照的。
11:7 それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、報酬を受けずに神の福音をあなたがたに宣べ伝えたことで、私は罪を犯したのでしょうか。
パウロは、コリントの信者の間では、彼らを高めるために自分を低くしました。報酬を受けずに福音を宣べ伝えました。それは罪かと問いました。
11:8 私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。
パウロは、諸教会の援助によってコリントの人たちに仕えました。他の諸教会から奪い取ったと言いました。本来ならば、コリントの教会から援助を受けるべきでした。彼らは、パウロを受け入れたのですから、当然そうすべきだったのです。主イエス様が弟子たちを遣わした時にそのように言われました。しかし、パウロは、その負担をコリントの人たちに負わせないで、他の諸教会に負わせたのです。本来負わせる必要のない負担を負わせたのです。それで、奪い取ったと表現したのです。当然、奪い取るようなことはしていません。
11:9 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニアから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたからです。私は、何であれ、あなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。
パウロは、コリントにいて困窮している時も、誰にも負担をかけませんでした。マケドニアの兄弟たちが欠乏を補ってくれたからです。今後も、なんであれ負担をかけないようにしますと言いました。
11:10 私のうちにある、キリストの真実にかけて言います。アカイア地方で私のこの誇りが封じられることはありません。
パウロは、それを誇りとしていました。それが封じられることはないと。彼は、キリストの真実にかけて言いました。
11:11 なぜでしょう。私があなたがたを愛していないからでしょうか。神はご存じです。
その理由は、コリントの人たちを愛していないからではありませんでした。
11:12 私は、今していることを今後も続けるつもりです。それは、ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだと認められる機会を求めているのを断ち切るためです。
それは、大使徒と呼ばれて、自らを誇ろうとしていた人たちについて、彼らがコリントの人たちから援助を受けることについて、当然の権利として誇る機会を断ち切るためです。パウロがコリントから援助を受けていたとしてたら、彼らはそれを捉えて、自分たちにも当然そのような権利があることを主張するはずです。
11:13 こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。
彼らは、偽使徒です。人を欺く働き人です。キリストの使徒に変装しているのです。
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。
11:15 ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。
サタンでも光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべ共が義のしもべに変装することもありうるのです。彼らの最後は、その行いに相応しいものになります。
彼らの最後については、明確に示されてはいません。人のうちにあるものを知ることができないからです。それを判断できるのは神です。その人がキリストを信じていないならば、火の池に投げ込まれるでしょう。しかし、このような働き人は、信者として告白し、バプテスマを受け、働いてきた人たちです。火の池に投げ込まれない可能性が高いですが、彼らは、新天新地で都の外に置かれ、門から入れない人たちとなります。
11:16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。
パウロは、自分が誇ることについて、愚かだと思わないように言いました。
11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。
11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。
彼は、これから自分のことについて誇ります。自分の経験を話すのです。それは、多くの人が肉によって誇っているので、それに対抗して誇ることを明らかにしました。肉によって誇っている人たちを受け入れ、その言うことを受け入れているコリントの人たちを立ち返らせるためには、教えによっては無理なのです。彼らは、その教えを従順に聞く心がないのです。パウロから離れようとしていました。肉によって判断している彼らを立ち返らせるためには、肉によってパウロが優れていると判断するために、それを示す以外にないのです。それで、そのようなものを誇ることが愚かであると承知していて、誇ろうとしているのです。
11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。
コリントの人たちは、すでに喜んで愚か者たちを我慢していました。彼らは、賢いのでそのようにしていると言いましたが、皮肉に聞こえます。
11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。
実際、コリントの人たちは、偽使徒たちに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、威張られても、顔を叩かれても我慢していたのです。
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
→「言うことは、恥ずべきことです。そういう訳で、私たちは、弱かったのです。」
弱かったことが、恥ずかしい理由として示されているのではありません。(経験を)語ること自体が恥ずかしいことなのです。
自分の経験を語ることは、恥ずかしいことです。本来すべきではないことです。しかし、語らなければなりませんでした。しかし、その経験が語られるにしても、パウロの経験した弱さが語られます。それは、自分の誇りにはならないために、主はそのようなものを与えられたからです。
・「恥ずかしい」→不名誉。恥。恥辱。価値がないと認められる。
・「弱かった」→弱い、病気である、力がない。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
彼は、彼らが主張する血統について、自分が劣っていないことを示しました。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
そして、キリストのしもべという観点から論じています。この点に関しては、彼らよりもはるかにキリストのために苦難を受けたことを示すことで、優れていることを示しました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
彼が受けた苦難について列挙しました。
11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。
彼は、さらに教会への心遣いによって重荷を負っていました。彼は、一人ひとりの信者が躓くことなく歩むことを願って、心を用いていました。キリストのしもべとして自分のことを考えてはいませんでした。偽使徒たちは、自分を誇ろうとしていました。対極にあったのです。
11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。
もし、誇る必要があるならば、自分の弱さのことを誇りとしますと言い、彼には、自分を誇る思いがないことを示しました。
11:31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。
パウロは、自分の証言は、偽りでないと言いました。
11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、
11:33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。
そして、苦難の経験の一つとして、ダマスコでの迫害を取り上げ、具体的な事実を示しました。実際に苦難を経験したことを証明するためです。