コリント第一15章
15:1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
15:2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
さて、兄弟たち、あなた方に私が宣べ伝えた福音を知らせます。それは、また、あなた方が受け入れ、あなた方がその中に立っていて、もし、私があなた方に伝えた言葉を堅く保っているならばそれによって救われる福音です。そうでなければ、何の目的もなく信じたのです。
福音の目的は、救いです。この救いは、将来もたらされる救いです。すでに信じた者が義とされていることを指しているのではありません。「この福音によって救われます。」と記されている通りです。過去の出来事として記されていません。これは、ペテロ書に記されているように、御国において栄光と誉の報いを永遠の資産として受け継ぐことです。そのためには、伝えられた言葉を堅く保つことが必要です。「福音」は、未信者を信仰に導くための言葉だけではありません。信者の歩むべき教えの全てを含みます。この点すなわち福音の目的を明確にしないと目的もなく信じたことになります。
・「無駄になって」→何の目的もなく。副詞。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
福音の中で、最も大切なこととして伝えたことを列挙しました。それは、パウロも受けたことで、内容は変わりません。
一、私たちの罪のために死なれたこと
これは、旧約聖書には、頻繁に記されていることです。聖書に書いてある通りです。
二、葬られたこと
死んだので葬ったのです。兵士も確認し、わき腹に槍を突き刺しました。血と水が出てきたとあります。短時間で死んだために、早い血の成分の分離が起こりました。
三、三日目によみがえりました
これも、聖書に書かれていました。
四、ケファに現れ、それから十二使徒に現れたことです
彼らは、復活の証人です。
コリントの信者の中には、死者のよみがえりを否定する人たちがいましたので、特によみがえりについて明確にしています。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
五、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました
そして、さらに多くの証人がいて、かれらは、今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
六、キリストはヤコブに現れました。
それからすべての使徒たちに現れました。ヤコブは、使徒の一人として数えられています。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
七、私にも現れてくださいました
パウロには、最後の使徒として現れてくださいました。彼は、ここでは、復活の証人として証ししています。しかし、彼は、使徒であることを言うにあたり、それが全く人間的な誇りになっていないことをより多くの言葉で証ししています。これは、コリントの信者に対しては、特に必要なことでした。彼らは、人間的な誇りを誇る思いがありました。パウロが自分のことを使徒と名乗ったことを捉えて、それを機会として彼らが誇ることがないためです。
パウロは、自分は、月足らずで生まれた者だと言いました。使徒の中では最も小さいと言いました。それは、神の教会を迫害したからです。使徒と呼ばれるに値しないと言いました。彼は、使徒であることを全く誇りとしていないことを示しました。
なお、パウロが自分を小さなものとした表現は、以下の聖句に見ることができます。その内容の違いから、謙りの程度が進んだと説明されることもありますが、それぞれの個所で、使徒、聖徒、罪人と表現する必要性があってそのように記しているだけです。すでに見たように、ここでは、聖徒や、罪人と表現することはできません。なぜならば、ここでは、復活の証人としての使徒として証ししているからです。そして、使徒であるが最も小さいという必要があったからです。
エペソ
3:7 私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。
3:8 すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、
3:9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。
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エペソ書では、使徒であることを名乗る必要がありませんでした。また、罪人と名乗ることはできません。福音を宣べ伝えるのは、罪人の働きではなく、聖徒の働きであるからです。
テモテ第一
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
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使徒や聖徒は、既に罪人であるところから救われた人です。ここでは、救いの業の偉大さを示すために罪人のかしらである言い表しています。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
さらに、彼は、今の自分は神の恵みによることを証ししました。恵みは、神様の好意によって備えられた祝福です。一方的に与えられるのではなく、信仰によって受け取ることができます。
その恵みは、空しくなりませんでした。彼は、他の全ての使徒たちよりも(熱心に)自分を使い果たすまで働きました。しかし、その働きは、自分ではなく、神の恵みです。その働き自体も神の恵みであることを証しし、自分には誇るべき何ものもないことを証ししました。また、神の業ですので、彼が働かないことは、その恵みがむなしくなるのであり、当然働くべきことも示しました。
・「多く働き」→使い果たすまで、消耗するまで(疲れ果てるまで)労働する。
15:11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。
キリストのよみがえりは、多くの証人の証しがあり、使徒たちの証しがあることを示しました。彼らは、それを信じたのです。
15:12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
ところが、コリントの信者の中には、死者の復活はないという人たちがいました。それは、宣べ伝えている福音に反することです。このような基本的な教理において、その主張に誤りがありました。それは、キリストのよみがえりと、将来の体のよみがえに関する教えの否定を含んでおり、重大なことですが、これを唱えた人は、そこまで考えることができませんでした。
聖書の解釈においては、その影響をよく考慮すべきです。これは、自戒です。
15:13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
死者の復活を否定することは、キリストの復活を否定することになります。
15:14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
また、信者の信仰を覆すことになります。宣教が意味のないものとなり、それを信じた人の信仰は、空しくなります。死者の復活はないと唱えることは、このような大きな問題を含んでいました。
15:15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
さらに、神の前に偽証人になります。神がキリストをよみがえらせなかったならば、パウロたちが伝えたキリストの復活は、偽りとなるからです。
15:16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったのです。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
キリストがよみがえらなかったら、その信仰は、空しくなります。彼らが義とされたことは信仰によるのです。神がキリストをよみがえらせたことを信じてその信仰を義とされたからです。神がキリストを死者の中からよみがえらせた信仰によって義とされる根拠を失うのです。今も罪の中にいることになります。
15:18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
そして、キリストにあって眠った者たちは、永遠の滅びに入ったことになるのです。これは、極めて深刻なことです。
15:19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
「私たちが、この命においてのみ、キリストに望みを抱いている」状況というのは、キリストが信仰に応えて業をなすことは信じていても、この世に生きている間だけのことです。死んだら、滅びるのです。それは、永遠の滅びに入るのですから空しいのです。
・「この地上のいのち」→このいのち。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
キリストは、よみがえられたのです。それは、眠った者の初穂なのです。信じた人々もよみがえるのです。
15:21 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
死は、一人の人を通して来ました。アダムによったのです。死者の復活も一人の人キリストを通して来ます。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
アダムにあって全ての人が死んでいるとは、アダムを通して死が来たように、罪のゆえに滅びを刈り取る全ての人のことを指しています。キリストにあってその信仰のゆえに信じる全ての者が生かされます。
15:23 しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
そして、順序を示しました。初穂であるキリストです。初穂は、次に続くものを暗示しています。そして、キリストの来臨の時にキリストに属している人たちです。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
それから終わりが来ます。この終わりは、いわゆる艱難時代のことではありません。
15:25 すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
この終わりは、王として治めることが終わる時です。あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼします。敵を足の下に従わせます。そのとき、王国を父である神に渡されます。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
その時は、最後の敵である死も滅ぼされます。これは、白い御座での裁きの時です。その時、王国は、父である神の支配に入ります。新天新地での支配者は、父である神です。
黙示録
21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。
21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。
21:24 諸国の民は都の光によって歩み、地の王たちは自分たちの栄光を都に携えて来る。
21:25 都の門は一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである。
21:26 こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来ることになる。
21:27 しかし、すべての汚れたもの、また忌まわしいことや偽りを行う者は、決して都に入れない。入ることができるのは、子羊のいのちの書に記されている者たちだけである。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
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神である主と子羊は、区別されています。父である神が神殿として都の中心におられることが分かります。神のしもべたちは、父である神と子羊の顔を仰ぎ見ます。神がしもべたちの目に見える方として御座におられるのです。その方の光が都を照らし、諸国の民の光となります。御子を通して現してこられた父の栄光は、この時、父が直接現されます。地の王たちは、その方に栄光を携えてきます。父である神が諸国を支配されるのです。
15:27 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
15:28 そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
神は、御子に全てを従わせ、御子にこの上ない栄光を与えられました。そして、御子は、父に従われます。父がさらなる栄光を受けることになります。神が、全てにおいてすべてとなるためです。
15:29 そうでなかったら、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのですか。死者が決してよみがえらないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
死を表すバプテスマを受ける人は、何のためにそれをしようとしているのですか。バプテスマは、死んでよみがえらされたことを表すために受けます。よみがえりがないならば、死んだことだけを表しても、何の意味があるのでしょうか。
・「死者のためのバプテスマ」→死に代るバプテスマ。すなわち、水に浸すことで死の代わりとすること。死を表すバプテスマ。すでに死んだ人の代わりのバプテスマではない。信者で死んだ人は、通常眠っている人と表現される。
・「死者」→死。死体。
・「ための」→ハイパー。~に代る。代表や代理を意味する。
15:30 なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
パウロたちがいつも危険に晒されていることについて、なぜなのかを問いました。
15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。
その危険は、日々死んでいるというほどのものです。これは、嘘偽りや、誇張ではないことを示して話しました。コリントの信者に嘘を言うようななことは決していなことを示すために、コリントの信者を誇りとしていることを言い表しました。彼が、キリスト・イエスにあって抱いている誇りです。一章の冒頭に記したように、彼らについて感謝していました。彼らにキリストの現れが豊かになり、その結果どんな賜物にもかけることがないまでに成長していました。彼らを誇っていました。ですから、見せかけの言葉を記すことなどないのです。
15:32 もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
その具体例として、エペソで獣と戦ったことを取り上げました。その戦いは、人間的な考えからではありませんでした。そんなことに価値はありせん。彼は、主の証しを担う者として、たとい殺されるような目に遭うにしてもそれを避けようとはしません。彼は、主の元に引き上げられ、さらには、体をよみがえらされて永遠の栄光に与ることを望んでいたからです。
死者がよみがえらないのなら、死で終わり、望みが無いのですから、欲望を満たすことに走るのです。飲み食いは、その例です。
15:33 惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
交際の相手が悪ければ、良い習慣が損なわれるのです。よみがえりがないと言う人たちと交われは、その悪い教えの影響を受けるのです。彼らは、死で終わると考えているので、欲望のままに生きようとするのです。そのような者に惑わされてはならないのです。
15:34 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。(なぜならば、)神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないように勧めました。それは、神について無知な人たちがいるからです。彼らは、欲望のままに生きることが神の前には何の価値もないことをわきまえていないのです。その誤った生活は、無知から来るのです。
無知であると言うことは、厳しい指摘ですが、パウロは、彼らを恥じ入らせるために言いました。彼らがそのような歩みを止めるために、きつく言ったのです。
15:35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。
二つの疑問を想定して記しました。死者は、どのようにしてよみがえるのかということと、どのような体で来るのかということです。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ生かされません。
そのように言う人については、愚かな人だと言いました。厳しい言葉です。不信仰から来る言葉であるからです。
蒔くものは、死ななければ生かされません。種蒔きの例えで話ししました。
15:37 また、 あなたが蒔くものは、後にできるからだではなく、麦であれ、そのほかの穀物であれ、ただの種粒です。
蒔く種は、後にできる体ではありません。ただの種粒です。よみがえりの体は、現在の肉体とは異なるのです。また、現在の肉体は、死ななければなりません。
15:38 しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。
神は、御心のままに種に体を与えます。この肉体に関しても、よみがえりの体を与えるのです。
15:39 どんな肉も同じではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違います。
肉は、人、獣、鳥、魚で異なります。
15:40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、
天の体もあり、地の体もあります。天の体の栄光と地の体の栄光があります。
これは、単に輝きが異なると言うことではなく、四十三節の栄光の違いの説明のために比較されています。
・「輝き」→四十三節の「栄光」と同じ原語。単に輝きを言っているのではなく、神が与える栄光の違いを言っていて、重要度の違いも意味されています。
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。(なぜならば)星と星の間でも輝きが違います。
太陽の栄光、月の栄光、星々の栄光があります。星は、複数形です。星々の栄光と表現されています。その理由が示されていて、なぜならば、星と星の間の栄光は異なるからです。
・「輝き」→四十三節の「栄光」と同じ原語。
15:42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
死者の復活においても、朽ちるものすなわち地上の体で蒔かれ、朽ちないものすなわち天の体によみがえらされます。
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
そして、地上の体は、卑しく弱いものです。天上の体は、栄光あるもので、力あるものです。地上のものは、疲れたり、弱ったり、死んだりします。しかし、天上の体は、永遠のものです。
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
血肉のすなわち自然の生まれつきの地上の体で蒔かれ、霊的な体によみがえらされます。
・「血肉の」→自然の。生まれつきの。「霊的な」ことに対比されている。
・「御霊に属する体」、「御霊の体」→霊の体。霊的な体。血肉に対比されている。
15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
聖書には、最初の人アダムは、生きているたましいとなった。しかし、最後のアダムすなわちイエス・キリストは、命を与えている霊となりました。命を与えることは継続しています。命は、日々の経験であるのです。
15:46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。
しかし、最初は、霊のものではなく、生まれつきの血肉のもので、霊のものは、その後にきます。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
最初の人は、塵から造られ、地から出ました。第二の人は、天から来ました。アダムとイエス・キリストが地と天の対比として対比されています。
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
地からの人々は、塵から造られた人のようです。天の人々は、天からの人のようです。それは、塵と天のものとの対比として、全く価値が異なることを表しています。地のものを卑しいと言いましたが、それは、塵からのものなのです。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
地のものの像(かたち)で生まれたように、天のものの像で生まれます。
・「かたち」→像。似ているもの。その源(直接対応するもの)を正確に反映する。
15:50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
肉と血は、神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。肉と血は、朽ちるのです。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
彼は、啓示されている奥義を告げました。みな変えられるのです。みな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
「たちまち」、「一瞬のうちに」とその時間が短い語が二語連なり、文の冒頭に置かれ、ごく短時間であることが強調されています。
ラッパが鳴ると、死者は、朽ちないものによみがえらされ、私たちと言われている生きている者は、変えられます。
15:53 (なぜならば)この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
なぜならば、この朽ちるものは、朽ちないものを着る必要があり、この死ぬべきものは、死なないものを着る必要があるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」
そのとき、死は勝利に飲み込まれたという言葉が実現します。
15:55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」
また、死の勝利と棘はどこにあるかと言う御言葉が実現します。死との戦いに対する勝利として取り上げられています。
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
単に肉体が滅びることがなくなったことが勝利として示されているのではなく、内住の罪との戦いとして、勝利が取り上げられています。この死は、信者が肉に従うことで経験する死のことです。パウロは、体が贖われ完全なものになる時が来ることを踏まえて、今を生きている信者に対する勧めに結びつけています。
肉に働く内住の罪によって死がもたらされるのです。それは、死の棘なのです。そして、その内住の罪に力をもたらすのは、律法です。
ローマ
7:8 しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
戒めが来た時、してはならないことが分かるのですが、その時、罪は、欲望を発揮するように働きます。隣人の持つものが欲しくなるように働くのです。良いものを見れば、手を伸ばしたくなるのです。それは、内住の罪の働きです。禁じられることでかえって欲は、強く働くのです。
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・「罪」→内住の罪。単数定冠詞付き。
15:57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
しかし、内住の罪に自分の力で勝利すことはできません。神は、イエス・キリストによって勝利を与えてくださるので、神に感謝しました。内住する御霊により、また、さらに言うならば、信仰によって心に住んでくださるキリストの働きにより、律法の要求を満たすことができるのです。完全な歩みができます。それが勝利です。ここに記されている勝利は、将来のことではなく、今を生きている信者がイエス・キリストにより勝利ができることが記されているのです。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
このように、神の御心を行うことができる者とされ、主の御業に励むことができるのです。その信仰に堅く立って励むように勧めました。その労苦は主にあって無駄ではありません。必ず、高く評価され永遠の栄光として報いられます。
死者のよみがえりがないならば、欲望のままに生きる者が現れるのです。しかし、兄弟たちに堅く立って動かれることなく、いつも主の御業に励むように勧めました。それは、人は、死で終わりでなく、なした働きは、主に評価され、報いを受けるからです。