コリント第一14章

14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 愛は、全ての働きを価値あるものとする大切なものです。愛を追い求めるのです。また、御霊の賜物を求めるのです。特に預言の働きは、重要です。

 なお、賜物は、一人ひとりが求めるのです。賜物は、御霊の働きによります。一人ひとりが御霊に従い、御言葉の中に生きることでキリストの証しが確かになり、その結果、賜物が与えられてキリストの働きがなされるのです。

14:2 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。

 異言は、神に向かって話します。人に向かって話されるのではないのです。それは、誰にも理解できないからです。語る内容は、奥義です。働きは、御霊によります。

・「異言」→舌、流れるような話し言葉に使われる。異言。外国語。

14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。

 しかし、預言は、人を育てるすなわち建て上げるために語られます。人が聞いて理解できるし、それが人を成長させます。人に向かって話されるのです。それで、特に重要なのです。

 なお、預言の内容は、人を育てる言葉、勧め、慰めることです。ただし、慰めるという語は、ここに一度だけ使われているだけです。預言の働きの詳細は、ここに記されいる通りです。ここでは、神の御心を新たに示されることを意味する「啓示」や「黙示」については、預言の働きとしては示されていません。

・「預言する」→神の御心を明らかにする告知のことである。預言はまた、予言、すなわち、主が啓示される未来を予言することを指すこともある。

・「育てる」→家として機能する建物(建造物)。建設的な批評と指導によって、人が神の住まいとしてふさわしい場所となるように造り上げる。

・「勧め」→神の法廷に立つ証拠 を伝える個人的な励まし。

コリント第二

1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

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 ここでの慰めは、励まし、激励のこと。

・「慰め」→誰にでも親しく話すこと『慰め、慰め』を表す。

 聖書では、ここに一回だけ使われています。

 他の箇所の「慰め」は、本節の「勧め」に該当します。ここでは、「慰め」を意味する語が同じ文に使われていますので、他の箇所で「慰め」と訳している語を本来の意味である「勧め」としています。「慰め」は、ここだけに使われています。

14:4 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。

 異言で語る人は、自分を建て上げます。彼は、自分で語る言葉を理解することはできませんが、語ろうとしている奥義は、知ることができるからです。自分の知っている言葉で理解してはいませんが、奥義の内容は理解できるのです。それで、自分の益になります。

 それと対比して、預言は、教会を建て上げます。聞く人一人ひとりを建て上げることができるのです。

14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。

 異言を語ることを否定しませんでした。皆が異言を語ることを願いました。異言は、御霊の賜物によるのであり、聖霊の働きであるからです。しかし、預言することをそれ以上に願っていました。その方が優っているからです。異言は、解き明かしがなければ聞く人に理解されません。成長にはつながらないのです。預言で語るならば成長に役立つからです。

14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。

 パウロが彼らの所へ行って語る場合にも、異言で語ったならば役に立たないのです。むしろ、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、益にならないのです。

 啓示は、新しく示される御心のことです。知識は、聖書の知識で、すでに明らかにされていることです。預言は、既に見たように、人を建て上げる言葉や勧めや慰めを語ることです。教えは、聖書を教えることです。聖書は、多くは、比喩によって記されています。比喩を解いて理解出るようにすることも教えです。

14:7 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。

 楽器が変化のある音を出さなければ、その音楽を理解できません。

・「変化」→差別。区別。

14:8 また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。

 ラッパがはっきりしない音を出したら、誰も戦いの準備をしないのです。

14:9 同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。

 それと同じで、舌で明瞭な言葉を語らなければ、話していることを分かってもらうことはできません。

 これは、どのようなことにおいてもその通りで、少なくとも、人に何かを伝えようとするならば、明瞭な言葉を語る必要があります。御言葉を取り継ぐ働きにおいては、特に重要なことです。

14:10 世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。

14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。

 そして、多くの言葉があり、意味のない言葉はありません。しかし、その意味を知らなければ、外国人の言葉を聞いているのと同じです。

 語るのであれば、意味が伝わるように語る必要があるのです。語る当人が、語る内容について明確に理解し、何を伝えるのかを明確にしていなければ、聞く人にその意味が伝わることはありません。

14:12 同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。

 彼らは、御霊の賜物を熱心求めていました。それは、良いことですが、教会を成長させるためにそれが豊かに与えられるように祈るように勧めました。異言の賜物だけではだめなのです。

14:13 そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

 それで、異言を語る人は、それを解き明かすことができるように祈ることを勧めました。解き明かすことができれば、それが益になるからです。

 ここでも、賜物を求めるのは、一人ひとりであることが分かります。既に異言を話すその「人」が、異言を解き明かすことができることを求めるからです。

14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。

 また、異言で祈ることについても取り上げました。今までは、語ることです。ここでは祈りです。異言での祈りは、祈る当人にとって、霊は祈りますが、知性は実を結びません。霊は、御霊の導きのままに、祈る内容を知ります。口から出てくる言葉は、外国語です。それで、言葉としては自分は理解できないのです。ですから、彼は、口から出た言葉を自分のうちに受け入れることができないのです。

・「知性」→信仰者にとって、信仰を通して、神の考えを受け取る器官です。

14:15 それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。

 霊で祈り、知性でも祈ることが幸いです。霊で賛美し、知性でも賛美することが幸いです。霊で言葉を発するだけでなく、知性が共に働くことが幸いなのです。知性は、信仰によって神の御心を受け入れています。それによって祈り、賛美するのです。人間的な考えに基づいて祈り、賛美するのではないのです。

14:16 そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。

 無学な状態にある人(異言を知らない人)は、異言により霊において賛美していても、異言の奇跡を知らないし、その外国語を知らないので、その人の感謝についてアーメンということができません。

 初心者は、未信者ではありません。また、信仰に入ったばかりの人のこととも言えません。賛美について、アーメンという人のことですから、信者であることは間違いありません。また、教会の集まりの場所に、信仰に入ったばかりの人のための席があるわけではありません。むしろ、そのような席を設けるとすれば、そのような人を差別しているのです。信者になった人であるならば、兄弟として愛すべきで、何一つ差別をもうけるべきではありません。これは、語られる異言について、無学な人ということです。また、その外国語を知らない人という意味で使われています。

 

・「初心者」→無学。教育や地位が目立って欠けている人に使われる。

・「席」→場所。比喩的に集会や会社の中で、ある方の状態や、とどまっている水準のこと。

・「着いている」→満たす、完全に満たす。そのような状態にある。

14:17 あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。

 それで、感謝することは本当に良いことです。しかし、他の人が建て上げられることにはなりません。

14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。

14:19 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。

 パウロは、他の人と比べてより多くの異言を語っていました。そのことを神に感謝していました。彼は、伝導旅行で出会う外国人に異言で証しをし、神の言葉を確かなものとしました。

 しかし、教会では、異言をいくら語っても理解されないのですから、僅かな言葉でも、自分の知性によって人に分かる言葉で、人を教えるために語りたいと言いました。その方がはるかに価値があります。

 知性は、信仰により神の言葉を受け入れる器官です。自分が神の言葉を理解し、信仰によって受け入れているのです。そこに蓄えられている言葉を用いて教えるのです。それは、神の教えに整合している教えであり、人が理解して受け入れている言葉です。知性で言葉を語るとは、そのような言葉を語ることです。人間的な知恵で語ることとは異なります。話がいかに巧みで、面白くても、神の教えに整合していない話は害です。

14:20 兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。

 それで、考え方においては、子供になってはなりません。大人になるように勧めました。その意味は、自分が成していることの結果について、考慮できないのが子供です。異言を聖霊の賜物として喜んで用いますが、用いるべき場面を考慮していないのです。子供が場をわきまえずに振る舞うことがあるのと同じです。大人は、自分がなすことの影響をよく考えて行動します。

 なお、悪事において幼子でありなさいといい、子供よりも小さい幼子を取り上げています。悪事については、全く知らない者のように振る舞うのです。

・「考え方」→みぞおち(横隔膜)、心臓の周りの部分。(比喩的に)内臓(個人的な)意見。人が「本当に心に思っていること」、すなわち、外側の行動を制御する内面的な見通し(心構え、洞察力)。

14:21 律法にこう書かれています。「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない』と主は言われる。」

 異言にはどのような役割があるかを明確にしました。コリントの人たちは、そのことをよく知らずにその賜物を教会の中で用いていたのです。

 律法の引用句では、異国の舌、異なる唇でイスラエルに語るが、その印を見ても聞こうとしない。神の言葉に背いているイスラエルに対する言葉です。神の言葉を信じようとしない者たちに、神の言葉であることを印として示すために、異言を用いられたのです。

14:22 それで異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちのためのしるしであり、預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちのためのしるしです。

 異言は、信じていない者たちのための印です。信じている者たちのためのものではありません。ですから、信じている者たちに印として用いることはしません。信者は、語られる言葉が神の言葉であると信じているからです。印を伴う必要はないのです。しかし、異言によって示される言葉は、解き明かしがあれば有益であり、教会の中でも用いることができます。

 預言は、信じている者たちのためのものです。信じていない者たちのためではありません。預言の内容は、人を育てる言葉、勧め、慰めることです。しかし、異言のようには、明確な軌跡として受け止めることができません。しかし、信者には、その言葉が、神からのものであることは、分かるのです。それで、すでに信者になった人のための印です。

14:23 ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。

 教会全体が一緒に集まっている時、初心の人すなわち、異言について学んでいない人や、信じていない人が入って来た時、気が変になっていると言われることになるかもしれません。信じていない人は、神様がそのような奇跡を行う力があると信じていないので、異言を語る者を見て、気が変になっていると考えるのです。

14:24 しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、

14:25 心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。

 しかし、皆が預言するならば、信じてない人や教えられていない人が入って来た時、その人は、皆によって、自分の誤りが証明され、皆によって、綿密に調べられます。そして、心の秘密が明らかにされます。

 なお、これは、預言を聞いている人の内で起こることです。教会の信者が誤りを指摘したり、問いただしたりすることはありません。心の秘密を明らかにするような行為があるのではありません。

 このようにして、その人たちは、彼らの言葉が神からのものであることを認め、その言葉は、神の働きによることであることを信じ、神をひれ伏して拝むようになります。

 預言は、信じていない人たちのためではなく、信じている者たちのための印ですとすでに記されていましたが、信じない人たちに対しても、預言の言葉は、力ある働きをします。その言葉自体は、信じない人たちに対して神を信じさせることができる言葉であるのです。

・「誤りを指摘され」→確かな、説得力のある証拠で納得させること、特に(間違っていることを証明する、結びつける)暴露すること。

・「問いただされ」→「上へ、プロセスを完了する」から、「分ける/判断することによって選ぶ」を強める) 。「下から上へ」、すなわち「注意深い研究、評価、判断のプロセス」を通して綿密に調べる(調査する)ことによって区別する。調べる、調査する、質問する。

14:26 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

 それで、一緒に集まる時には、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示されたことを告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべては、建て上げるために行うのです。

・「啓示」→明らかにする。啓示。

14:27 だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。

 異言を語る場合は、二人か三人で順番に行うのです。一人が解き明かしをします。異言は、語りっぱなしではいけないのです。

14:28 解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。

 解き明かすものがいなければ、教会では黙っているのです。これが大人の考え方です。語るのであれば、自分に対してあるいは神に対して語るのです。

14:29 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。

 預言も、二人か三人が語ります。他の者たちは、吟味します。語られている内容について、正しいか否かを吟味するのです。人から出た教えや考えの場合もあるからです。

・「吟味する」→徹底的に調査する(判断する)

14:30 席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。

 別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさいと命じました。啓示は、今まで示されていないことが示されるからです。それで、その啓示を優先します。

14:31 だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。

 なぜならば、すべての人が一人ひとり預言することができるからです。そうして、すべての人が学び、すべての人が励ましを受けます。

 「すべて」は、教会の全員のことではありません。特定の部分の中の全員という意味です。預言の賜物を与えられていない人が預言することはできません。それは、生まれ持った語る能力によるわけではありません。聖霊によって歩む人に御霊が賜物を与え用いるのです。肉によって歩んでいる人を用いることはできません。肉によるならば、御霊を消すからです。今日は、教えや励ましの言葉は啓示によりません。しかし、御霊による働きなのです。すでに示されている聖書を用いて、教え励ますのです。取り次ぐ言葉の研究過程は、御霊によります。御霊によって与えられた言葉によって御霊のことを解くからです。

コリント第一

2:13 それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです。

 神が恵みとして与えてくださったものを語るのに、人間の知恵によって教えられた言葉ではなく、御霊に教えられた言葉を用います。それは、御霊により啓示されたものです。今日は、その啓示されたものは、聖書として完成しています。ですから、霊的なものを霊的なものによって緊密に比較し理解し把握するのです。霊的なものは、この場合、御霊の啓示による言葉であり、それをもって、霊的なものすなわち神の言葉である聖書を理解し把握します。用いるのは、聖書の言葉ですが、それを解くのは、啓示された言葉です。御霊の啓示した言葉は、奥義であり今まで隠されてきたものです、啓示された言葉で、聖書を解くのです。

 それで、人間的な知恵は、一切入る余地がありません。

 これが聖書を解く方法です。緊密に比較するという作業になります。

・「説明する」→緊密に比較する。聖書のある真理を他の書かれている箇所と比較し、びったり合うことで理解し把握すること。

2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。(なせならば)それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。なぜならば、それは、彼らには愚かであるからです。そして、理解できないのです。理解できない理由は、御霊に属することは、霊的に注意深い研究、評価、判断の過程を通して綿密に調べることで区別することであるからです。

・「判断する」→注意深い研究、評価、判断の過程を通して綿密に調べる(調査する)ことによって区別すること。調べる、調査する、質問する。

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・「励まし」→神の法廷に立つ証拠を提供する信者を指す。

14:32 預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。

14:33 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。

 預言する者たちの霊は、預言する者たちに従います。ですから、その預言は、預言する人によって制御できるのです。これは、預言を適切に行うための勧めです。なぜならば、神は、混乱の神ではなく、完全さの神です。

 なお、ここで求められていることは争いのない平和ではなく、肉の働きが一切入らない、御霊の導きのままに、神の御心が完全に行われることです。預言するとき、秩序が保たれていればいいという話ではなく、すべては、御霊による働きであり、完全に神の御心を行うことで求められているのです。

・「平和」→完全さ。主のみこころを知り(見分け)、それに従うことから生じる、完全さという神の賜物。

聖徒たちのすべての教会で行われているように、

14:34 女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。

 女が教会で語ることは許されていません。それは、すべての教会で行われていたことであり、例外はありません。語ることは、教えたり、指導することが含まれますが、そうではなく、女は従うのです。

14:35 もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。

 もし、学びたければ、家で自分の夫に尋ねるのです。教会で語ることは恥ずべきことなのです。

・「恥ずかしい」→恥ずべきこと。意味が強い。

14:36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

 そして、このことは、どこの教会でも行われていることでした。

14:37 だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

 これが主の命令であることを明言しました。自分を預言者あるいは、御霊の人と思っているならば、これが主の命令であることがわかるのです。これを主の命令として、徹底的で正確な知識として受け入れなさいと言いました。強く求めたのです。

・「認める」→何かをより深く、より完全に理解したり認識したりすることを表す。単なる表面的な知識ではなく、徹底的で正確な知識を意味する。この用語は新約聖書でしばしば、神、神の意志、神の真理についてのより完全で親密な知識を表すのに使われる。

14:38 それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。

 無視する人は、無視されます。正しいことを示されても、無視して受け入れないならば、その人は、もはや教えられません。これは、厳粛なことで、そのような人に知識の成長を求めることはできません。御言葉を理解できないのです。

14:39 ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。

14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。

 預言することを熱心に求めるように命じました。それは、教会を建てあげるために必要です。異言で語ることも、解き明かしがあれば、他の人に分かり価値があります。また、それは、神の言葉の証しのために役立ちます。それで、禁じてはいけないのです。すべてのことは、適切に、秩序をもって行われなければなりません。