コリント第一10章

10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。

 ここからは、偶像礼拝を避けるよう勧めがされます。そのために、荒野を旅したイスラㇽのことを思い起こさせました。

 イスラエルは、みな、雲の下にいて、海を通って行きました。みなという言葉が繰り返されていて、全員がそれに与ったことを強調しています

10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、

 その雲と海が意味するところは、モーセにつくバプデスマです。雲は、聖霊の比喩で、聖霊のバプテスマを表しています。過越しが表す主イエス・キリストに対する信仰による救いの初めから共にあり、導き手です。バプテスマは、浸けることを表しますが、聖霊の支配のもとに置かれたことを表しています。

 海は、水によるバプテスマを表し、世を表すエジプトとの決別を表しています。世に対して死んだのです。

10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、

 これは、マナのことを表しています。まことの食物であるキリストを表しています。食べることは、キリストと一つになって生きることを表しています。これは、今日信者がそれぞれの経験しているところです。

ヨハネ

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

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 パンは、肉と血に話が変わっていますが同じことを表しています。

10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。

 飲み物は、岩から出た水です。これは、イエス様を信じた者のうちに聖霊が豊かに働き、満たされることを表しています。

ヨハネ

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

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 これは、イエス様を信じる者が聖霊によって、真の満たしを経験することを表しています。聖霊によって歩み、主と一つになって歩むことで命を経験することを表しています。そして、報いを受け永遠の資産として受け継ぐことを表していて、永遠の命を得ることを表しています。

10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 そのような経験をしたにもかかわらず、大部分は、荒野で滅ぼされました。彼らは、裁きを受け死んだのです。

 今日、この滅びることは、神の前に実を結ばず、死んだ状態になることの比喩です。肉に従って、御霊によらない歩みについては、「滅び」と表現されています。

ガラテヤ

6:8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

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10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。

 これは、戒めのための実例です。それは、悪を貪ることがないためです。

10:7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。

 ある者は、偶像礼拝者となりました。それは、肉の欲望の満足のためにしたのです。座っては食べたり飲んだりし、欲を満たしました。立っては戯れたとあるように、健全な状態ではありませんでした。

10:8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。

 ある者たちは、淫らことをしました。そのために、多くの人が一日のうち死んだのです。

・「淫らなこと」→婚外性交。

10:9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。

 民は、パンもなく水もないと言いました。マナをみじめな食べ物と言いました。パンは、毎日与えられ、水は、岩から出たのです。彼らは事欠くことはありませんでした。それなのに、主が与えるマナをみじめな食物と言いました。主が無力であるかのように言い、主を試みたのです。

民数記

21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、

21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

21:6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

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10:10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。

 民が不平を言った記事は、多くあります。代表的な記事を掲載します。

民数記

11:1 さて、民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

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10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

 これらの出来事は、戒めのためです。そして、書かれたのは、教訓のためです。世の終わりに望んでいて、身を慎むべき時であるのです。評価を受け、報いを受ける時が近いのです。

10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

 立っていると思う者は、倒れる危険性があることを覚えて気をつけるのです。

10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 コリントの人たちが経験した試練はみな特別なものではなく、人の知るところです。信仰者は、そのような試練に耐えて来たのです。それで耐えるように励ましています。

 また、神は、耐えられないような試練に会わせることをしません。神が真実であるからです。神は、脱出の道を備えてくださいます。耐えられるためです。

10:14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

 コリントの社会では、偶像が満ちています。その中でも堅く立つことを勧めています。偶像礼拝を避けるのです。

10:15 私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。

 パウロは、賢い人たちに話すように、直接的な言葉で話さないで、偶像礼拝の意味について示しました。

10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

 杯は、キリストの血に与ることです。それは、賛美する賛美の杯として示されています。杯に与る時、キリストを覚えてこれを行うのですが、キリストを覚えて賛美するものであることが分かります。

 パンを裂くことは、キリストの体に与ることを示しました。

10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

 そして、パンが一つであるように、私たちが大勢いても、一つの体であることを示しました。一つのパンを食べるように、一つのキリストの体に与るからです。

 ここでは、パンを食べることが、キリストの体に与るということを意味していることを示しています。

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。

 イスラエルの場合も、捧げ物を食べる者は、祭壇の交わりに与ります。祭壇で捧げられる物を通して神と交わることになるのです。「祭壇の交わり」と記されていて、祭壇と交わるわけではありません。

10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

 これは、偶像礼拝を避ける文脈で記されていますので、偶像に捧げた肉を食べることは、偶像と交わることになることを言っていると理解されます。

 しかし、偶像は、実際には存在しないものであると既に記されていましたので、偶像に捧げた肉にそのような意味があるのでしょうか。また、偶像そのものに何か意味があるのでしょうかという疑問がわきます。

10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

 偶像に捧げられる物は、悪霊に捧げられているのです。そして、悪霊と交わることになるのです。ですから、悪霊と交わるようなことになるので、偶像礼拝を避けるように命じているのです。

10:21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

 主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。食卓についても同様です。主の杯も、食卓も主に与ることであり、主との交わりに与ることであるからです。主とそのような関係にありながら、悪霊に与り、悪霊と交わることはできません。

10:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

 偶像に捧げた肉を食べることは、許されています。どのような食物も許されています。しかし、全てのことが人を育てるとは限りません。場合によっては、兄弟を滅ぼすのです。

 すべてと記されていますが、許されていることの全てのという意味です。罪を犯すことは許されていません。

10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。

 誰でも、自分利益を求めず他の人の利益を求めるべきなのです。

10:25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。

 偶像礼拝を避けるように言いましたが、市場に売っている肉については、良心の問題を問うことなく食べるように言いました。そのような状態で売られている物は、偶像に捧げられた物かどうかは、もはや区別がつかないからです。

10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。

 そして、全てのものは、主のものであることを踏まえて、気にせず食べてもよいのです。

10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。

 信仰のない人に招待されて、出された食事を食べる時は、良心の問題を問うことをせず食べなさいと言いました。

10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。

 しかし、誰かがあなたにこれは、偶像に捧げた肉ですと言うならば、そう知らせた人のために食べてはいけません。その人の言うことを無視してはいけません。また、そう知らせた人の良心のためです。

10:29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。

 知らせた人の良心は、信者が偶像に捧げた物を食べてはいけないと思っているのです。その人の良心を踏みにじってはいけないのです。

10:30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。

 その人の自由は、他の人の良心によって裁かれることはありません。もし、感謝してたべるとき、だれも悪く言えません。

10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

 食べるにも、何をするにも神の栄光を現すためにするのです。自分には、知識があるというような誇りのために食べて兄弟を躓かせるようなことがあってはならないのです。それが神の栄光を現すことであるどうかを判断して行うのです。

 これは、日常のあらゆる場面に適用できることです。家庭での些細なことでさえも、神の栄光を現すことを考えて行動すべきなのです。それを考えるならば、妻に対して、あるいは夫に対して、そして、父や母に対して、子に対して、神の前に教えられている通りにふさわしく行うのです。そうすれば、まず言葉が変わります。また、振る舞いが変わります。神の言葉は、実践して価値があります。

10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。

 ユダヤ人にもギリシア人にもとは、信仰のない人たちのすべてことです。教会は、信者の集まりです。神の教会と言いましたが、教会は、神のものですから、余計にそうなのです。躓きを与えてはならないのです。

10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。

 パウロは、すべてのことを人々の救いのためにしていました。人々とは、すでに挙げられている信仰のない人と、信者の全てのことです。信仰のない人の救いのためと、信仰者の救いのためです。信仰者については、信仰の歩みに躓きを与えず、健全な信仰を全うすることです。それは、御国において大いなる報いを受けることになります。それが救いです。信仰のない人たちについても、単に、キリストを信じて、滅びを免れることだけを言っているわけではありません。それは、初めにどうしても必要なことですが、その後、信者として歩む道の全ても含めて躓きを与えず、歩むことを念頭に言っています。

 そのために、自分の利益を求めず、他の人の利益を求めました。全てのことで人に認められるためです。必ずしも喜ばれるわけではないが、人に躓きを与えていない点では、認められるのです。

 パウロは、自分は、全ての人にそのようにしているので、あなた方も、全ての人に躓きを与えないようにと命じているのです。

・「私も」→三十三節は、「私も~しているように、」となっていて、パウロの模範を示していて、それを受けて、三十二節の命令があります。

・「喜ばせる」→満足させる(何かを満足させる)。したがって、喜ばせる、(特に道徳的に一致することによって)彼らの期待に応えるので、誰かの好意(愛情、承認)を獲得する。