エペソ4章

4:1 さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。

 「主にある囚人」と言ったのは、パウロが囚人であることは、エペソの信者の光栄であるからです。神がその光栄を力をもって与えようとしているですから、その召しにふさわしく歩むように勧めました。そうでなければ、神の目的が果たされないのです。

4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、

4:3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。

 その召しにふさわしい歩みとは、御霊による一致を熱心に保つことです。そのために必要なことも示しました。

・謙遜の限りを尽くし

 謙遜。自分を主と比較して生み出される徳。これにより、内面との関係で、他に対して自分を高めることから守られるふるまいが生じる。主に完全に依存すること。自分の肉に頼らないこと。

 私の内にあって主が働かれることを全面的に認めること。

・柔和の限りを尽くし

 主の霊感と力付けによる柔和で、優しさと力の神的な均整の取れた柔和。信仰によってのみ働く。

・「寛容」→忍耐。

 怒りを現す前に十分に待つこと。これにより、不正な怒りから生じる力(懲罰)の早すぎる使用を避けることができる。

・愛をもって互いに耐え忍び

 愛は、アガペーです。神の愛なのです。そのような愛は、内におられるキリストでなければ現すことはできません。ここに信仰が求められます。

・平和の絆で結ばれて

「平和」→(御心を行うことでもたらされる)完全さ。平和は、絆とはなり得ません。平和は、争いがなく結びついた状態を表現していて、それは、結果を表しているからです。ここでは、結果をもたらす絆について論じているであり、平和という訳は、不適切です。

 互いにを一致させるのは、完全さがあるときです。それが絆となるからです。人の努力によって実現されることはありません。御霊の一致なのです。完全さは、御霊に満たされる時実現します。

 これらは、いずれも私たちの肉の努力を求めているのではなく、キリストが私たちのうちにあって働かれることを信仰によって認める時、実現することです。

4:4 あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

 一致についてさらに動機付けを示しています。それは、体が一つであり、御霊が一つであるということです。体とは、キリストの体のことです。

エペソ

1:22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

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 キリストの体には、信じた者たちが属します。その体は、一つなのです。同じものに属しているのです。ですから、当然のこととして、一つになるべきものなのです。

 そして、信じた者は、御霊が内住されますが、一人ひとりの分に御霊が分かれているわけではありません。一つの御霊に属するものされているのです。これも、私たちが一つになるべき理由です。

 はじめに召の望みについて触れていますが、召の望みは、御国の相続です。私たちがキリストと同じ者に変えられ、神と同じ者になり、報いとして永遠の栄光を受けることなのです。そのような目標に向かって歩むものとされ、その実現のために御霊に属する者とされているならば、その神の業の実現のために歩むのは当然のことであり、互いが愛によって交わり、完全な者とされて結びつくことは、当然であり、それは、最も大いなる報いをもたらします。

4:5 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

 主はひとりであり、同じ方に仕える者として、主の御心に背いて仲違いすることなどあり得ないのです。

 信仰は一つです。異なったことを信じているのではないのです。

 バプテスマは一つです。バプテスマが表すものは、肉に死んで、御霊によって生きることです。それが一つであるというのは、バプテスマの意味するところが一つであるということで、皆、同じように生きているのです。

4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。

 そして、父である神は、一つです。その神について、全てのものの上にある方と示されています。全てをご自分の下に従わせて、事を行われる方であるのです。

 全てのものを貫いていることは、全てのものをご自分の目的に従って事をなすことを表してます。ご自分が関与しないことはないのです。

 全てのもののうちにおられることは、全てのもののうちにあって事を行われる方であることを示しています。

 ご自分の関与の仕方が順に、より詳細に示されています。 

4:7 しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。

 その一方で、「私たち一人ひとり」に「恵み」が与えられていることも取り上げています。これは、一つになるということに対比して、与えられている賜物としての恵みには、多様性があることを示しています。

 なお、ここで与えられているものは、恵みです。キリストの賜物の測りに応じて与えられます。賜物と訳されていますが、贈り物のことです。それは、与え主の慈善としての願いを強調して表現しています。それは、信仰によって受け取る時与えられます。

 三章で、パウロは、使徒の務めを恵みとして受けたことを証ししていますが、そのように、これは、キリストが恵みとして備え、パウロが信仰によって受け取ったものです。ですから、これは、初めから持っていた能力ではありません。信者になってから、キリストが与えたものです。

 この賜物は、聖霊の与えた、キリストの体を建て上げる働き、すなわち奉仕のための能力です。ある物は、奇跡の能力である場合があります。それは、弟子たちの証しが神からのものであることを示すしるしでした。また、異邦人が聖霊を受けたことの証拠としても、与えられました。しかし、聖書が完成した今日、そのような奇跡は、必要ないし、与えられません。

 今日、新しく生まれた信者の業は、全て聖霊によります。新しく生まれた人は、肉に対して死んでいます。肉が働いている不完全な状態を言っていません。肉によるならば、聖霊による業ではありません。人を愛する愛は、聖霊の賜物です。それは、アガペーと記されていて、いわば神の愛です。それは、生来の人には持ち得ないものです。しかし、聖霊によって愛するとき、神の愛によって愛するのであり、聖霊の賜物によるのです。

 なお、聖霊の業と、生来の能力による肉の業を区別することは難しいですが、聖霊による業だけが神に評価されます。

使徒

10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。

10:45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。

10:46 彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞いたからである。するとペテロは言った。

使徒

19:1 アポロがコリントにいたときのことであった。パウロは内陸の地方を通ってエペソに下り、何人かの弟子たちに出会った。

19:2 彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えた。

19:3 「それでは、どのようなバプテスマを受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネのバプテスマです」と答えた。

19:4 そこでパウロは言った。「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」

19:5 これを聞いた彼らは、主イエスの名によってバプテスマを受けた。

19:6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。

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・「私たちは一人ひとり、」→「私たちの一つの個々に」。恵みは、個別の一人に与えられたこと。集団に与えられたのではない。ここで意味していることは、集団の全員に一つ一つということではなく、個別に与えられたということです。

4:8 そのため、こう言われています。「彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。」

4:9 「上った」ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。

4:10 この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方でもあります。

 そして、旧約聖書の言葉が引用されて、キリストは、一度低いところに降られたが、天よりも高くされた方であり、その方が、ご自分のものとされた者たちに「贈り物」を与えられました。

 ここでは、今日も聖徒を通して働き続けるキリストは、一度は低いところに降られ十字架の死にまで至ったのです。そのように大きな犠牲を払われて、御業を始められたことを取り上げています。それは、その業の尊さを示すためです。

 そして、高く上げられたのは、全てのものを満たすためです。この全てのものは、教会のことです。全ての信者を満たすためにそれを満たす権威を与えられたのです。十三節には、体が、キリストの満ち満ちた身丈に達するまでとあります。偉大な業なのです。このように記し、信者に働くキリストの業の尊さを示しています。

4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

□使徒、預言者

 全てのものを満たすために、教会に働き人が立てられました。はじめに使徒です。パウロは、自分が使徒であることを言い表していますが、それは恵みであることを示しています。キリストが与えようと備えたものを信仰によって受けたのです。彼自身の何かによったのではないのです。

 預言者も同様です。これら二つは、教会の土台として示されていますが、それは、神の言葉の啓示を受けるからです。

□伝道者

 伝道者の例は、次の聖句に示されています。

テモテ第二

4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。

4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

4:3 というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、

4:4 真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

4:5 けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。

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 伝道者の働きは、御言葉を宣べ伝えることです。いわゆる未信者に対する福音だけではありません。福音という言葉自体は、神の言葉の全体を指し示していますが、ここでの記述から分かるように、信者となった者に対する教えのための言葉です。テモテの場合には、賜物は、預言により、長老の按手によって与えられた奇跡による能力です。

□教師

 そして、この働きは、同時に教師としての働きであることがわかります。テモテの教師としての働きは、キリストの任命によります。

□牧師

 そして、牧師は、羊を養い導くものとして、御言葉を餌として与え、面倒を見る働きです。ペテロは、ヨハネ二十一章に記されているように、イエス様から直接牧者として任命されました。これは、キリストの恵みとして受けた働きです。

 いずれの働きも、御言葉伝え、教えることに関係していることがわかります。

4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

 その働きの目的は、聖徒たちを整えるためです。聖徒が整えられて奉仕の働きをするためです。その奉仕の働きは、すべての業を含みます。そして、キリストの体を建て上げるのです。次節以降に、キリストの体を建てあげることが何かを示しています。

4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

 教えに関する賜物が取り上げられていたのは、全員が皆、神の御子に対する信仰と知識において一つとなるためです。キリストを知り、信じることで初めてキリストと同じものに成長できます。完成に到達するためには、キリストを知ることが必要です。成熟と表現されていますが、キリストと同じ完全な状態に達することです。ある程度成長した状態ではなく、到達点に達することが意味されています。

 続く言葉も、キリストの満ち満ちた身丈に達すると表現されています。

・「成熟した」→必要な霊的経験を踏んで完成に到達するように発達すること。

4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

 教えの目的は、かしらであるキリストに向かって成長することですが、それを妨げるものがあるのです。それは、人の悪巧みや人を欺く悪い策略から出た教えです。そのような教えに惑わされないために教えが必要なのです。

4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

 体全体のつながりは、愛です。「愛のうちに建てられる」と記されているからです。結びあわせるものと支えは、奉仕の働きですが、それは、愛によって機能する御霊の働きです。奉仕は、それぞれの部分がその分に応じての働きによります。

4:17 ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

 キリストの身丈に達することが目標です。ですから、異邦人のように歩んではならないのです。彼らは、むなしい心で歩んでいます。むなしい心については、次節以降説明されています。空しさを感じて歩むというような意味ではありません。異邦人は、神の御心を知る器官である心に何もないのです。すなわち、御心を知ることができないのです。

・「心」→それぞれの人に神が与えられた(道理)を考える能力。知性。思慮深い考えを働かせるための知的能力。信者にとっては、神の考えを信仰によって受け取る器官。

4:18 彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

 そして、知性が暗いのです。

 それで、彼らは無知なのです。神の御心を知ることがないのです。また、それができません。彼らの心が頑なであるからです。受け入れようとしないのです。

 彼らは、いのちを経験できません。いのちは、神の御心行い、神とともに歩むことで経験できます。また、その行いに対して御国で報いを相続することもいのちですが、それを獲得することはないのです。

・「知性」→弁償的思考。信者にとって、神の御心を徹底的に考えること。前節の「心:ノウスG3563」に接頭辞「徹底的に」がついたもの。

4:19 無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。

 神の御心に関して無知であるので、罪を犯しても痛みを感じません。それで、好色に身を任せ、不潔な行いを貪るのです。

4:20 しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません。

4:21 ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから。

 エペソの人々は、キリストのことをそのようには学びませんでした。真理は、キリストにあります。真理とは、神の御心の内を歩むことです。キリストは、それを肉にある歩みを通して現されたのです。

 彼らは、キリスについて聞き、キリストにあって教えられているはずです。もしそうでなければ、彼らの歩みは、異邦人と同じものになるのです。キリストと同じ歩みに到底達しないのです。

 クリスチャンとして歩んでいても、キリストに似た者にならないのは、その人の状態は、キリストを知る程度に依存しているからです。現状に満足している人は、それ以上キリストを求めようとはしません。聖書を自ら学び追求することをしないのです。聖書から学ぶのでなくて、どのようにしてキリストを知るのでしょうか。

4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、

 その教えの核心がここに記されています。以前の生活に関しては、情欲による歩みを捨てることです。情欲によって人は腐敗していきます。いのちがないし、死んで腐敗していくのです。その情欲は、人を欺くのです。情欲に従うことが素晴らしいことであるかのように思わせるのです。どうしてもその情欲を満足しないでは済まされないのです。例えば、卑近な例として、食欲は、体を養うのに必要な機能です。しかし、貪欲になり、健康を顧みずに食べるならば、体を損ないます。適度に食欲を押さえれば、健康な体でいられるのに、食べなくてもなんの影響もないのに、それを飲食しないでは我慢出来ないのです。飲食しないでは、人生がつまらないと思うのです。それは、古い人の行いです。

4:23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、

4:24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。

 そして、新しい人を着ることです。その新しい人とは、神にかたどり造られた人です。神と同じ者になることです。

 そのために、霊と心において新しくされ続けます。霊は、信仰の座です。神の御心を信じます。心は、神の御心を受け入れる器官です。神の言葉によって新しくされ続けることが必要です。

 真理に基づく義とは、神の御心を行うことで実現する義で、御霊により御心を行い義の実を結ぶことです。

 真理に基づく聖とは、神の御心を行い、この世から分離して神にふさわしくなることです。

・「心」→信仰により神の御心を受け取る器官。

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。

 神と同じ者になることは、偽りを捨てることです。隣人に対して真実を語らなければなりません。さらに、私たちは、互いに体の一部分です。真実を尽くすのは当たり前なのです。

4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。

 怒ること自体は、罪ではありません。しかし、罪を犯す可能性が大きくなります。怒りを他の人にぶつけるようなことをして、罪を犯すのです。

 日が暮れるまで、ずっと怒り続けるようなことをしてはいけなのです。怒りは、捨てるのです。

 なおこれは、日が暮れる前に怒りを捨てなさいということではありません。早いほど良いのです。

4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

 そうしないと、悪魔に機会を与えることになります。激しい感情を用いて悪魔は罪を犯させるのです。

4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。

 盗みをしてる者がいたならば、もう盗んではなりません。神と同じ者になることから比べれば、ずいぶんレベルの低いことですが、信者でもそのようなことをしてしまうのです。

 そのような悪に手を染めるのではなく、自分の手で労苦して働くのです。そして、困っている人に分け与えるのです。

4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

 悪い言葉は、一切口から出してはいけません。この点に関しては、ヤコブも指摘しているように、人は失敗しやすいのです。むしろ、必要なときに語るべきです。それは、人の成長に役立つ言葉です。そうするならば、その人は、神の御心について知り、成長し、豊かな実を結ぶという恵みを獲得できます。いわば、これが塩味の効いた言葉です。永遠の契約の恵みに裏打ちされた言葉です。

4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 聖霊は、贖いの日のための証印となります。贖いの日は、地上の歩みに対して裁きの座で報いを受けるときです。そして、体が贖われて、肉が全くない状態になる日です。直接的には、体が贖われることを指していますが、それは、地上の歩みで要求される完全な状態です。そのような歩みに対して、報いが与えられるのです。御霊の内住は、肉によらない歩みができることの保証ですから、その日に報いが与えられることの保証となっています。もちろん信仰による歩みが前提です。肉によるならば報いはありません。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。

 古い人として捨てるべきものは、列挙されたような事柄です。それらは、悪意から出てきます。それらを捨てるのです。

4:32 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

 新しく身に着けるべきは、互いの親切、優しい心での赦し合いです。神が赦してくださったことを覚えて、赦すのです。完全な赦しです。これが、神にふさわしい聖なることです。