エペソ1章

1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。

 彼が使徒であることを名乗っているのは、啓示された教えをこの手紙で伝えるからです。その選びは、神によることを示し、キリスト・イエスの使徒であることを示しました。すなわち、キリストの働きにおける使徒の役割を担うのです。その使徒としての役割については、四章に記されいます。

 エペソの集会は、教えに対して忠実でした。この「忠実」という語は、信仰における忠実を意味していて、教えに対して聞き入れ従う忠実を表しています。

1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

「恵み」→キリストによってもたらされる賜物や祝福。信仰によって受け取ることができる。

「平安」→神の御心を行うことでもたらされる完全さ。心の平安を意味しない。

キリストの働きの目的は、教会を建て上げるためですが、個々の信者に関しては、キリストの身丈に達することです。それによって、教会が建てられるのです。

エペソ

4:11 こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。

4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

4:13 私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

4:14 こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

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 キリストの御姿を目標としているのですから、完全さが求められます。

1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 与えられる祝福について、主イエス・キリストの父なる神を賛美しています。御業は、キリストによって実現しましたが、すべてを図られたのは、父なる神であるからです。

「キリストにあって」→御子の存在とその御業なしにはありえない。この章では、神子にあって全てが与えられたことが記されています。

「天上にある」→天の領域の。地と対比されていて、永遠に価値ある祝福。

「すべての」→すべての祝福は、与えるために備えられて、与えてくださった。個々の信者に実現するかどうかは、信仰による。

1:4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

 前節の「天上にあるすべての霊的祝福」について、具体的に列挙しました。

・「すなわち」→それに従って。そのようにして。副詞。前節を受けて、そのように行動したという意味。

□選び

 世界の基の置かれる前からの選びです。この方すなわち御子にあって選ばれました。御子の栄光を図られたのです。御子を通してイエス様は御業をされますが、その御子のために選ばれたのです。それによって御子の栄光が現されるためです。それは、十字架の御業だけではありません。信者が御許に引き上げられるまで続きます。

□聖化

 御前に聖なるものとする。神の目から見て、聖なるものとするため。世とは分離した、主の性質を持つ者になること。

・「傷のない者とするため。」→罪の影響を受けない潔白さを持つ者とするため。

□子にしようと定めた

1:5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 子であることの意味は、相続人であることです。単に子と呼ばれるかそうでないかは、名誉以外に意味はありませんが、子としての特権に与ることを言っています。子としての最大の特権は、相続者とされることです。

 それは、愛によって、定めておられました。愛の対象として子とされたのです。

1:6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 それは、神の恵みの栄光が褒め称えられるためです。神の備えた恵みがいかに偉大であるかが明らかにされるためです。全ては神の栄光のためです。全ては、父の栄光のために行われるのですから、父は、最高の栄光を現そうとされます。それで、これ以上ない祝福を備えられたのです。

 愛する方にあって与えたことは、父である神様にとって、御子は、愛する方です。信者は、その愛する御子に与えられました。御子のものとされる者を父が愛されるのです。

□血の贖い 恵みの豊かさ

1:7 このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

 私たちが受けたキリストの血による贖い、それは、背きの罪の赦しのことですが、それは、神の豊かな恵みによります。その豊かさについて、愛する方の血によって与えたことで明らかにされています。犠牲の偉大さが示されています。

□奥義を知らせた

1:8 この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、

1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、

1:10 時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。

 奥義を知らせました。奥義とは、時が満ちた時、天と地にある一切のものがキリストにあって一つに集められることです。それは、神のあらゆる知恵と思慮深さをもってなされたことです。その中心は、キリストであり、神の計画の中心は、キリストです。

□御国の相続の保証

1:11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。

 神の計画により、キリストにあって、御国を受け継ぐ者として定められていました。御国を受け継ぐことは、報いの相続のことです。単に永遠の滅びから救われるという救いの立場を受けることではありません。

1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

 「私たち」は、ユダヤ人です。彼らは、前から望みを置いてそのことを知っていましたから、それが実現することを知って神を褒め称えるのです。

1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。

 「あなた方」とは、異邦人のことです。彼らは、神を知りませんでした。しかし、真理の言葉、すなわち救いの福音を聞いて信じたのです。

 救いは、御国を受け継ぐ救いです。文脈からは、御国を受け継ぐことについて示しています。ですから、この救いは、御国において報いを受けることを指しています。

 そして、御国を受け継ぐことができる保証として、御霊によって証印を押されました。証印は、間違いなく御国を受け継ぐことを保証するものです。御国を受け継ぐというのは、御国で資産を受け継ぐことで、行いに対する報いを受けることです。私たちが報いを受けるような行いをすることができるという保証なのです。

 ガラテヤ人は、律法を行わなければ、報いが受けられないという間違った教えを受けました。しかし、肉の力では正しい行いをすることはできないのです。御霊によるのでなければ、神に受け入れられる正しい行いをすることはできません。ですから、御霊が与えられていることは、正しい行いをすることができる保証なのです。

1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

 御霊を受けていることは、御国を受け継ぐ保証です。それは、報いを受ける正しい行いをすることができることを保証しているのです。そのことについて、「贖われて神のものとされ」ることとして示されています。これは、キリストと共に死に新しく生まれたものとして御霊によって生きることが「贖われる」と表現されている意味です。キリストのよみがえりと同じ状態になることです。

 なお、空中携挙の時、体は贖われますが、御霊が保証しているのはそのことではありません。信者に関して、「贖い」は、地上での歩みにも適用されています。バプテスマが表しているように、死んでよみがえったことは、新しい誕生であり、御霊による歩みの中に実現するのです。そのことに、贖いという言葉が適用されています。御霊の内住は、肉にはよらず神の御心を行う歩みを実現するのであり、御国で報いを受けることを保証するものです。

 そのように、神の力によって、御国を受け継ぐようにしてくださったことに対して、神の偉大さを褒め称えるのです。間違いなく、御国を受け継ぐようにしてくださって、祝福を実現させてくださるからです。

1:15 こういうわけで私も、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、

1:16 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。

 パウロは、エペソ信者のために感謝しました。それは、彼らの信仰と聖徒に対する愛について聞いたからです。それは、相続を望みとして出てくるのです。

コロサイ

1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

1:4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

1:5 それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。

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 福音の真理の言葉によって、天の資産を受け継ぐことができる望みについて聞きました。その資産は、キリストに対する信仰と聖徒に対する愛によって獲得することができます。キリストが私のために命を捨てた愛を信じ、また、キリストが私のうちにあって業をなし、神の御心を行われることを信じるのです。そして、聖徒に対する愛は、イエス様の戒めの実践であり、神の命令の全てを包括しています。それこそ神の御心にかなったことであり、感謝すべきことです。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

 そのようなエペソの聖徒のために求めたことは、神を知るための知恵と啓示です。それは、御霊によって与えられます。既に御霊を受けているのですから、御霊がそれを与えるために働いてくださるように願ったのです。

 神を知るとは、神と同じものに変えられることを表しています。そのことは、次の聖句に記されています。

エペソ

3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

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 また、次のようにも記されています。

コロサイ

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞いて本当に理解したとき以来、世界中で起こっているように、あなたがたの間でも実を結び成長しています。

1:7 そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、

1:8 御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。

1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

1:10 また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。

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 知ることは、神の御心についての知識を知ることと、主にふさわしく歩み実を結ぶことで神を知ることの二面があります。後者は、単に情報を獲得することとしての知識ではなく、その中に歩み、教えを具現することです。このことが「知恵」と「啓示」として記されています。知恵は、神の言葉に従う分別を表しています。啓示は、情報としての知識を知らさせることです。それらが、御霊によって与えられることを祈りました。

1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、

 神の召しによって与えられる望みについては、既に触れたところですが、それは、相続の栄光に与ることです。それをはっきりと知ることができるようになることを願いました。

 それを知ることは、信じた者を熱心にならせる強い動機付けになります。イエス様も、天に宝を積みなさいと言われました。心がそこにあるからですと言われ、それを強く求める心は、私たちを神の御心に適う歩みに駆り立てます。

マタイ

6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

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1:19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

 そして、信じる者に働く大能の力について知ることを願いました。そのことは、既に引用した三章の聖句に記されています。その大能の力が信者のうちに働いて信者を変え、神のさまにまでなるのです。そして、大いなる報いを受ける者となるのです。

 

1:20 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

 その力は、キリストを死者の中からよみがえらせた力です。それと同じ力を働かせて、肉に対して死に、新しく生まれた者に変えることができるのです。御霊に満たされた完全な者に変えるのです。

1:22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

 また、大能の力で、すべてのものをキリストの足の下に従わせ、すべてのものの上に立つ方とされました。これ以上ない栄光を与えられたのです。その方が教会にかしらとして与えられます。

 このことは、五章二十一節~三十二節に、かしらと体の関係として説明されています。教会は、キリストをかしらとして恐れて従います。キリストは、自分の体である教会を自分のように愛されます。そして、愛のゆえに、聖く傷のないものとなった栄光の教会をご自分の前に立たせるために働き続けておられます。

1:23 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 文脈から、キリストの受けた栄光を信者に与えて満たすことを指しています。信者を変えて、御霊によって歩ましめ、キリストと同じものに変えます。神の御心に適い、父の右の座に挙げられたこれ以上ない方で満たします。

 そして、「満ちている」ことは、教会のすべての信者に働いていることを表しています。教会は、御霊に浸されています。そこに属するすべての信者に御霊は働くのです。私たちにキリストが働きかけ、神と同じ者に変えようとする働きは、すべての信者にあるのです。