エステル記9章~10章

9:1 第十二の月、すなわちアダルの月の十三日、この日に王の命令と法令が実施された。ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたまさにその日に、逆に、ユダヤ人のほうが自分たちを憎む者たちを征服することとなった。

「十二」月は、神の支配を表します。「十三」日は、七と六で人完全と人を表します。主題に沿って考えるならば、人としての信者の聖めが完全になることの比喩です。その時には、敵対者である肉を完全に滅ぼすのです。

9:2 ユダヤ人たちは、自分たちに害を加えようとする者たちを手にかけようと、クセルクセス王のすべての州にある自分たちの町々で集まったが、だれもユダヤ人に抵抗する者はいなかった。彼らへの恐れが、すべての民族に下ったからである。

 クセルクセス王の全ての州は、神の支配する民を表しています。

 害を加えようとする者は、抵抗しませんでした。私たちが堅く立つならば、肉は、無力なのです。

9:3 諸州の首長、太守、総督、王の役人もみなユダヤ人たちを支援した。モルデカイへの恐れが彼らに下ったからである。

 首長たちは、王の役人であり、集会の監督者、執事の比喩になっています。彼らは、ユダヤ人を支援したように、信者が肉を捨て、神の御心に従って生きるように働くのがその役割です。

 彼らがそのようにしたのは、モルデカイへの恐れからです。これは、監督者たちがキリストを恐れ、熱心にその働きをすることの比喩です。

9:4 実際、モルデカイは王宮で勢力があり、その名声はすべての州に広がっていた。実に、この人物モルデカイは、ますます勢力を伸ばしたのであった。

 モルデカイは、キリストの比喩です。王宮は、神の御座の近くを表していて、神の前に高く上げられたことの比喩です。

 その名声は、キリストの御名が神の民の間に広がったことを表しています。

 そして、キリストは、ますますその勢力を伸ばしました。キリストに服従する者が増えたことを表しています。キリストを信じる者は、キリストのもとに服従するのが相応しい姿なのです。

9:5 ユダヤ人たちは彼らの敵をみな剣で打ち殺し、虐殺して滅ぼし、自分たちを憎む者を思いのままに処分した。

 敵を「剣」で打ち殺しました。剣は、御言葉の比喩です。剣は、鋭さを比喩として示していて、物事を判別する力を表しています。それが肉の働きであることをよく判断し、滅ぼしたのです。

9:6 ユダヤ人はスサの城でも五百人を殺して滅ぼし、

 スサの城は、神の近くを表していて、神の言葉に従う敬虔な人たちのことを表しています。「五百」は、五と百の組み合わせです。五は、神の御心を行うことを表し、百は、聖別を表し、ています。

 肉を滅ぼすことは、神の御心を行い、自らを聖別することであるのです。

9:7 また、パルシャンダタ、ダルフォン、アスパタ、

9:8 ポラタ、アダルヤ、アリダタ、

9:9 パルマシュタ、アリサイ、アリダイ、ワイザタを、

9:10 すなわち、ハメダタの子でユダヤ人を迫害する者ハマンの子、十人を虐殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。

 ハマンの子は、十人で、十は、到達点を表し完全であることを表しています。完全に肉を滅ぼしたことを表しています。

 彼らの目的は、肉を滅ぼすことでした。それ以外の目的はありませんでした。この比喩が示していることは、信者の歩みにとって重要なことは、肉を滅ぼすというその一点です。

9:11 その日、スサの城で殺された者の数が王に報告されると、

9:12 王は王妃エステルに言った。「ユダヤ人はスサの城で、五百人とハマンの息子十人を殺して滅ぼした。王のほかの諸州では、彼らはどうしたであろう。ところで、あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。あなたのさらなる望みは何か。それをかなえてやろう。」

 王によって表される神は、肉を滅ぼすことが徹底的に行われるのを見ました。その時、神は、求める者に対して、さらなるものを求めるように言われます。

9:13 エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、明日も、スサにいるユダヤ人に、今日の法令どおりにすることをお許しください。そして、ハマンの息子十人を柱にかけてください。」

 スサにいるユダヤ人は、より神に近い者のことで、敬虔な人たちの比喩です。そこでは、さらに肉の比喩である敵対者を滅ぼすことをもう一日許可することを求めました。そのようにして、徹底的に肉を滅ぼすことの比喩となっています。敬虔な者ほど肉を滅ぼすのです。

 ハマンの十人の息子は、虐殺されましたが、その息子たちを柱に掛けるように求めました。柱は、十字架の比喩です。キリストと共に十字架につけることの比喩です。

ガラテヤ

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

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9:14 そこで王は、そのように実施するように命じた。法令がスサで布告され、ハマンの息子十人は柱にかけられた。

 それは、神の比喩である王の心に適ったことであり、王の命令が下りました。

9:15 スサにいるユダヤ人はアダルの月の十四日にも集まって、スサで三百人を殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。

 スサでは、三百人を殺しました。三百は、神の完全さを表す三と百によって表される聖別の比喩です。完全な聖別を表します。

9:16 王の諸州にいる残りのユダヤ人たちも団結して、自分たちのいのちを守り、敵からの安息を得た。すなわち、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、略奪品には手を出さなかった。

 五は、神の御心を行うこと、そして、七十は、完全に到達したことを表しています。肉を殺すことにおいて、完全に達すべきところに到達したのです。

・「七万五千」→「五と七十千」

+++七十について+++

 七十は、七で表される満たされる意味での完全さが、十で表される到達点に達していることを表します。

創世記

50:3 そのために四十日を要した。ミイラにするのには、これだけの日数が必要であった。エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ。

→泣き悲しむ期間として十分であったことを表しています。

出エジプト記

1:5 ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。

15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。

→十二は、神の支配、水は、御言葉、泉は、聖霊。なつめ椰子の木は、キリストの身姿に成長することを表しています。その程度について、七十と示されていて、完全に到達したことを表しています。

24:1 主はモーセに言われた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のもとへ上って来て、遠く離れて伏し拝め。

→長老は、霊的に成熟した者を表しています。その数七十人は、彼らが完全に成熟していたことを表します。その人たちは、神を見たのです。

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9:17 これはアダルの月の十三日のことであり、その十四日に彼らは休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。

 十三は、七と六の組み合わせで、人として肉を殺し、完全になったことことの比喩です。十四は、御国での安息の時で、体が贖われ、完全にされたことの比喩です。

・「祝宴」→安息が与えられた時、彼らが経験する祝福。

・「喜び」→喜び。H8057 八章では、「光と喜び」と記され、将来を望んでの喜びでしたが、ここに記されている喜びは、御国での経験の比喩です。

9:18 しかし、スサにいるユダヤ人たちは、その月の十三日にも十四日にも集まり、十五日には休んで、その日を祝宴と喜びの日とした。

 スサは、王の近くの人たちすなわち敬虔な人たちのことです。十三は、人として完全になったこと。そして、彼らは、地上において肉を徹底的に殺し、完全になったことの比喩です。十五は、七と八の組み合わせで、完全とされたことが永遠に続くことの比喩です。

9:19 それで、城壁のない村に住む田舎のユダヤ人は、アダルの月の十四日を喜びと祝宴の祝日とし、互いにごちそうを贈り交わす日としている。

 城壁のないことは、守りの不完全さを表しています。そこに住む人たちは、確かに肉を殺し、完全な者とされたのですが、スサにいる人たちほどには、完全には、されませんでした。それでも、肉を殺して聖められたことで、彼らは、ご馳走を贈り交わし、食べたのです。それは、完全に肉を殺して歩まれたキリストを食べ味わうことの比喩です。

9:20 モルデカイはこれらのことを書いて、クセルクセス王のすべての州の、近い所や遠い所にいる、すべてのユダヤ人に書簡を送った。

9:21 それは、ユダヤ人が毎年アダルの月の十四日と十五日を、

9:22 自分たちの敵からの安息を得た日、悲しみが喜びに、喪が祝いの日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り交わし、貧しい人々に贈り物をする日と定めるためであった。

 この日は、ご馳走を食べ、祝い、喜ぶ日とされました。それは、永遠の祝福として味わうことができるのです。肉を殺すことで得た祝福を永遠の喜びとして味わうことができます。

 貧しい人たちは、肉を聖めることで不十分な人たちであり、報いの少ない貧しい人たちのことです。そのような人たちにも、贈り物が贈られました。その贈り物は、ご馳走であり、キリストを表しています。その時、貧しい人も、自分のことはさておき、キリストが肉を殺して歩まれたことの偉大さを味わうことができるのです。

9:23 ユダヤ人は、すでに守り始めていたことであるが、モルデカイが彼らに書き送ったことを受け入れた。

 ユダヤ人自ら、それを喜びと祝いの日として始めました。それは、その時には、人々の自らの喜びとして味わうことができることを表しています。そして、モルデカイの書簡によって定められたことは、それが、キリストの定めるところであり、そのために今日も信者のうちに働いて、肉を殺した歩みに導き、永遠の祝福を受け継ぐようにさせるのです。

9:24 実に、アガグ人ハメダタの子で、ユダヤ人すべてを迫害する者ハマンは、ユダヤ人を滅ぼそうと企んで、プル、すなわちくじによって決め、彼らをかき乱して滅ぼそうとしたが、

 くじは、全てが神の手の内にあって計画され、実行されたことであることを表しています。悪魔の働きも、人を滅ぼそうとする肉の働きも、全て神の手の内にあったことです。そのような中で、滅ぼす者を滅ぼすことで、神の栄光が現されるのです。

9:25 そのことが王の耳に入ったときに、王は書簡で命じ、ハマンがユダヤ人に対して企んだ悪い計略をハマンの頭上に返し、彼とその子らを柱にかけたのであった。

 王によって表される神は、書簡で表される神の言葉として命令を下し、ハマンによって表される悪魔の計略を彼に返しました。そして、悪魔と、彼の子供たちとして表される悪霊どもを十字架の御業により、無力な者としました。すなわち、十字架により、罪の処罰が終わり、義とされ、悪魔の告発を無力なものとし、さらに、キリストと共に死ぬ者すなわち、肉を殺す者が勝利者として歩むことができるようにされたのです。

9:26 こういうわけで、ユダヤ人はプルの名にちなんで、これらの日をプリムと呼んだ。こうして、この書簡のすべてのことばにより、また、このことについて彼らが見たこと、また彼らに起こったことにより、

9:27 ユダヤ人は、自分たちとその子孫、および自分たちにつく者たちが、その文書のとおりに毎年定まった時期にこの両日を守り行い、これを廃止してはならないと定めた。

 プルの日が定められて、祝いとされることは、永遠の祝福の比喩ですが、ユダヤ人にとって、それを毎年繰り返すことは、敵対者からの解放を喜ぶためであり、また、今後も神の守りがあることの信頼につながるのです。

 今日、この祝いを覚えることは、肉を殺すことで祝福を獲得できることが思い起こされ、信仰の歩みの動機付けとすることができることを表しています。それを日々に覚えることで、御国の報いを望み、肉にはよらず御心のうちを歩む強い動機付となります。

9:28 また、この両日は代々にわたり、すべての家族、諸州、町々において記念され、祝われなければならないとし、これらのプリムの日がユダヤ人の間で廃止されることがなく、この記憶が自分たちの子孫の中で途絶えてしまわないようにした。

 そして、それは、世々に守るべきものと記されました。決して忘れることなく、肉に勝利して歩むべきことの比喩です。

9:29 アビハイルの娘である王妃エステルと、ユダヤ人モルデカイは、プリムについてのこの第二の書簡を全権をもって書き記し、確かなものとした。

 書簡をもって確かなこととしたのは、御言葉による定めです。これが確かなことであることを明確にしています。

9:30 この書簡は、平和と誠実のことばをもって、クセルクセスの王国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に送られ、

 この平和と誠実の二者は、書簡の内容につい言われていることです。その言葉は、平和の言葉ということではありません。滅ぼされる者が滅ぼしたという戦いの言葉なのです。これは、原意のように「完全さ」という意味です。その命令は、曖昧さがありません。迷いの言葉でもありません。確かな完全な言葉なのです。肉に従うならば死があり、これを殺すことで、真の祝福があることを示す確かな言葉なのです。

 「誠実」は、真理とも訳される言葉で、神の御心を行うことであり、それに対して報いが与えられることです。肉を放置しておいて、報いを受けることはありません。神の御心を行うことで真の祝福を獲得できるのです。

・「平和」→完全さ。

・「誠実」→真理。御心を誠実に行うこと。

9:31 ユダヤ人モルデカイと王妃エステルがユダヤ人に命じたとおり、また、ユダヤ人が自分たちとその子孫のために、断食と哀悼に関して定めたとおり、このプリムの両日を定まった時期に守るようにした。

 モルデカイとエステルが定めた通りとは、キリストと使徒や預言者たちが定めた言葉のことです。

 そして、ユダヤ人たちが定めたことが取り上げらています。それは、断食と嘆きです。それは、命じられたことではありません。信者が進んですることの比喩です。断食は、欲を断つことを表しています。それは、滅びからの救いのために断食したことに由来します。

 「哀悼」は、悲しみ、嘆きのことです。それは、この嘆きも、滅びに定められたことを嘆いたことに由来します。

 いずれも、滅ぼされることを知った時にとった行動です。このように、肉に従うならば滅びであることをいつも自覚していることは大切です。そのために肉の欲を断つのです。そして、それが滅びであることを強く自覚するのです。そうしないと、肉を徹底的に滅ぼすことはしないのです。敵に手心を加えて滅ぼさないならば、自分たちが滅びるのです。

 

9:32 エステルの命令はこのプリムに関する事柄を義務づけ、書物に記された。

 これは、使徒たちの手紙に記されたことの比喩です。

10:1 クセルクセス王は本土と海の島々に苦役を課した。

 肉に対する勝利の後に来るのは、神に服従して生きることです。もはや、自分のために生きるのではなく、神に自分の体を捧げて生きるようになるのです。

ローマ

12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。

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 クリスチャンでも、神に体を捧げて服従して生きるということに抵抗を覚える人がいます。しかし、私たちに求められていることは、肉を殺し、体を捧げて生きることなのです。

10:2 彼の権威と勇気によるすべての功績、王に重んじられたモルデカイの偉大さについての詳細、それは『メディアとペルシアの王の歴代誌』に確かに記されている。

 王の権威と力と勇気による功績は、神の権力と力による全ての業の比喩です。すべては、神の権威のもとになされたことです。

 モルデカイは、キリストの比喩で、その偉大さが詳細に記録されました。これは、キリストについて知るために、御言葉に記されたことです。

・「権威」→権力、勢力。

・「勇気」→力。

・「詳細」→正確な詳細。

10:3 実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。

 キリストは、王の次の位にある者とされました。その方は、信者にとっては、大いなる者です。そして、多くの信者から敬愛されました。多くのという表現は、必ずしも全てのものがキリストを敬愛しているとは限らないということを含んでいます。

 この方が敬愛されているのは、自分の民の幸福を求めたからです。そして、自分の民に「平和→完全さ」を語ったからです。完全さは、エステル記の主題です。肉を殺して生きることこそ、完全になる道であり、それこそ、信じる者の幸福であるからです。神と共に歩み、一つになって歩むことができるのです。そして、大いなる報いを受けるのです。その永遠の祝福を語られるからです。