詩篇96編

96:1 新しい歌を主に歌え。全地よ主に歌え。

 新しい歌は、日々の経験の中から歌われます。そのことは、次節に記されています。その新しい歌について、全地の者が歌うように促されています。それは、日々の私たちの経験であるべきなのです。

96:2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。

 主に歌い、主の御名を褒め称えるのです。その内容は、救いの知らせを告げて賛美するのです。その救いは、将来のものとして備えられているのです。それをもたらす主に対する賛美なのです。これは、いわゆる未信者に対する福音を語れということではありません。

 「救い」は、御国で報いを受けることです。ここでは、信者の賛美として救いが取り扱われています。

96:3 主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。

 そのうえで、その救いをもたらす主の栄光をイスラエルだけでなく、国々の間で語り告げるように求められています。まず、自分自身が経験し、そのうえで、主の栄光を語り告げるのです。

 その栄光は、奇しい御業と言い換えられています。主が御心に適うことを信じる者が行うようにされて、報いを受けるようにされることは、最大の奇しい御業です。

96:4 (なぜならば)まことに主は大いなる方大いに賛美される方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

 その理由は、まことに主は大いなる方であるからです。賛美される方です。その偉大さを示すために、神々と比較されています。この方は、すべての神々に勝って恐れられる方です。そのことは、この方の権威の偉大さを表しています。

96:5 (なぜならば)まことにどの民の神々もみな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。

 全ての神々に勝る理由が示されていて、どの民の神々も偽りであるからです。それに対して、主は、天を造られたのです。その御力は、圧倒的です。

96:6 威厳と威光は御前にあり力と輝きは主の聖所にある。

 威厳と威光、それは、力と輝きです。

96:7 もろもろの民の諸族よ主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。

 それで、すべての民に求められていることは、栄光と力を主に帰せよということです。主は、それらをお持ちなのですから、その御名にふさわしく栄光を帰することです。褒め称えるのです。

96:8 御名の栄光を主に帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。

 御名の栄光を主に帰します。御名は、主の特性で、主の性質に基づく様々な栄光の現れがあるのです。その栄光を主に帰すのです。

 そして、捧げ物をすることで、主に近づくのです。捧げ物は、根本的には、主が与えてくださったものですが、自らが結んだあらゆる捧げ物をもって主に捧げるのです。

96:9 聖なる装いをして主にひれ伏せ。全地よ主の御前におののけ。

 さらに、聖なる装いをつけてひれ伏します。聖なる装いは、私たちが主イエス様を着ることの比喩です。私たち自身が変えられて、前節のように、実を結びそれを捧げるのです。

 おののくことは、ふさわしい恐れの態度を示すことです。そのようにすることで、主の偉大さが現されるためです。主を敬うがゆえに、恐れがあります。

96:10 国々の間で言え。「主は王である。まことに世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる。」

 主は、公正をもって国々を裁かれます。イスラエルも、諸国の民も裁かれるのです。これは、警告です。先に、主に栄光を帰するように求められました。それをするならば、祝福があります。しかし、それをしないならば、公正に裁かれます。私たちが主を恐れる者にふさわしく振る舞うのは、公正な裁きがあるからです。 この方は、王であり世界を支配されるのです。この方によって世界は造られ、保たれています。権威ある方なのです。軽く考えてはなりません。

・「公正」→公平、均一。名詞。偏ることがない。

96:11 天は喜び地は小躍りし海とそこに満ちているものは鳴りとどろけ。

 天は、御使いたちのことで、彼らは、主の栄光の現れを喜びます。地が喜ぶ喜びは、主の栄光を見るからです。彼らは、必ずしも敬虔な者たちではないかもしれません。彼らに求められていることは、主ご自身を喜ぶ喜びです。

・「小躍り」→喜ぶ。

96:12 野とそこにあるものはみな喜び躍れ。そのとき森の木々もみな喜び歌う。主の御前で。

 すべてのものに喜ぶ時が来るのです。

96:13 主は必ず来られる。地をさばくために来られる。主は義をもって世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる。

 それは、主が義をもって、真実をもって世界を裁かれるからです。すべての造られた者の目に、正しさが現されるからです。