詩篇90編

90:1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。

 この方は、主との関係を「私たちの住まい」と言い表しています。その説明は、特に記されていませんが、住まいは、生活の中心であると言えます。主との関係は、一時的なものではなく、いつまでも続くのです。そして、主を中心に全てのことが回るのです。自分の思いや願望あるいは欲望を中心に歩みがあるのではないのです。

90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

 次に言い表されていることは、神が永遠の存在であることです。このことは、私たちの世々にわたる住まいとしての神が、永遠の存在であることを言い表しています。神様への賛美であると共に、私たちがこの方との関係を持っていることの偉大さと幸いを覚えさせます。

90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」

 人をちりに帰されるとき、神様は、人の子らよ帰れと言われます。これは、ちりに帰る肉体に対してではなく、霊に言われるのであって、神の元に帰るように命じられているのです。いのちを支配される方であるのです。

 それと共に、後半の内容と関連して考えるなら、神様は、裁き主であって、人の命を支配しておられる方であり、裁きとして人の命を取られる方であることが示されていると考えることができます。

90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

 時間の流れは、神の前には、千年もわずかなときであるのです。

90:5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

90:6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。

 神様は、人を一日のうちにいのちから死へと移してしまいます。

90:7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。

90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。

90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

 これは、一般論としての人の齢について語っているのではなく、神の前に正しくない状態の人について語っています。それは、後で、その状態が神の裁きとしてもたらされていることが語られているからです。

 人の齢については、神の怒りによって人生が終わると言い表しています。この怒りは、それぞれの人が犯す罪に対する神の裁きとして示されています。

 そして、人がおじ惑うのは、その死が神の激しい憤りの現れであるからです。「激しい怒りの中に沈み行き」とも表現されていますが、人生の終わりは、神の激しい怒りによってもたらされると言い表しています。それは、私たちの罪に対する裁きです。私たちの不義を御前に置かれて裁かれるのです。秘め事を裁かれるのです。人の齢は、罪によって裁かれ、一息のうちに終わらされます。

90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

 その一息について、七十年といいました。健やかであっても八十年と。しかも幸いに満ちたものではなく、労苦と災いしかないのです。飛び去るように早く過ぎ去ります。

90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。

90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

 死が、神の怒りによってもたらされ、人がその憤りにおじ惑うことが先に語られていましたが、ここでは、それを知っている者がいないと記されています。彼らは、神に対する罪に対して、神の怒りとして死がもたらされることを十分には認識していないのです。彼らは、神の前における罪の恐ろしさについて認識してはいないのです。その罪に対して激しい怒りが下されるのです。

 人は、その神の怒りを認識していません。その恐れを知らないのです。それで、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」と願いました。これは、知恵の心を得ることであることも続けて語られています。ですから、日を正しく数えることは、神の怒りを恐れて、その怒りを受けないように日を過ごすことを学ぶことと言えます。日を数えるというのは、日数を計数することではないことは、明らかです。それは、算数を学べば良いことです。そうではなく、それが価値ある日であるかどうかが問題なのです。価値ある日が何日あるかということです。その日数を数えるのです。すなわち、いかに価値ある日を送るかを学ぶことなのです。誰も、空しい日を求めないのです。しかし、それが真に価値あるものであるかどうかは、神の御心にかなっているかどうかにかかっています。自分の基準で価値あるとしても、神の目にかなわないものは、価値ありません。ですから、真に価値ある日を過ごすことの知恵を求めたのです。

 知恵は、聖書では、神の言葉に従う分別のことです。神の御言葉に従って生きることで、神を恐れる者にふさわしい歩みができることを願ったのです。

90:13 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。

90:14 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。

90:15 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。

 今の状態は、神の前に恵みをいただけない状態にあります。その状態がしばらく続いていることが分かります。神様の憐れみを待ち望んでいるのです。このことから、先に示されている神の怒りは、民が具体的に罪を犯し、それに対する裁きとして死がもたらされたことを示しています。彼らが死に対しておじ惑ったのも、神の裁きとしての死を恐れたからです。「あなたが私たちを悩まされた日々」は、神の裁きを表しています。

 彼の願ったことは、恵みで満ち足りることです。この「恵み」は、「契約に対する忠誠」として定義されます。単に神様の人に対する好意ではなく、神様が契約を忠誠を持って果たされることを表しています。そして、喜びと楽しみで満たされることです。

90:16 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。

 御業は、彼らの回復の御業と考えられます。それは、次の節に具体的に示されています。神が慈愛を示し、民の手の業を確かなものとすることです。そのことによって、神の威光が表されるのです。

90:17 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。

 「慈愛」は、ゼカリヤ書で示されているように、契約と関係しています。慈愛の杖がおられたことは、契約の破棄を意味しています。ですから、この慈愛は、契約を守ることで与えられる喜びや祝福なのです。

 手の業が確かなものになることは、神の御心を行うことで、手の業が確かなものとなるのです。そうして初めて、契約を守る者して、契約に基づく祝福を得る者となるのです。ここには、民の責任が伴います。根底あるのは、契約です。神を恐れて、神の言葉に従うところに祝福があるのです。