詩篇27篇

ダビデによる。

27:1 主は私の光私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。

 「いのちの砦」と言い表しています。これは、霊的な命のことで、神様に従っている時初めて経験できるものです。神と一つになって歩む時、そこにいのちがあります。そして、御国において報いを受けるのです。

 彼の命を脅かすものがありました。それは、彼の霊的な歩みを躓かせる者のことです。背後に働くのは悪魔です。しかし、彼は誰をも恐れませんでした。主が砦として守られるからです。

27:2 私の肉を食らおうと悪を行う者が私に襲いかかったとき崩れ落ちたのは私に逆らう者私の敵であった。

 彼には、実際的な戦いが起こったのです。彼の肉を食らう者が襲いかかったのです。しかし、崩れ落ちたのは、敵でした。彼は、ダビデに逆らう者でした。主の守りがあったのです。

27:3 たとえ私に対して陣営が張られても私の心は恐れない。たとえ私に対して戦いが起こってもそれにも私は動じない。

 また、敵との戦いで彼に対して陣営が張られても恐れないと言いました。「心」が恐れないのです。心は、神様の御言葉を受け入れる部分です。恐れは、神の言葉を信じないように働きます。しかし、彼は、神の言葉を信じることにおいて揺るぐことはありせんでした。そのようなことをとおして彼を躓かせようとしても、彼は恐れないのです。

 彼に対して戦いが起こっても、動じないのです。彼は、主の助けを信じていたからです。

 今日、私たちは、様々な試練が与えられ、苦しみを経験するでしょう。そのような試練は、神様の計画によることであり、神の許しておられることです。しかし、主の言葉に信頼している時、主は守られるし、そのようなものに動じる必要はないです。

27:4 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。

 ダビデが見ていたのは、主の栄光の現れです。主の家に住むというのは、宮に住むことでもないし行くことでもありません。主の臨済を覚えるためです。また、その麗しさすなわち「主の契約に基づく祝福」に思いを巡らすことです。

 物理的場所は、たとい敵の前であったとしても、彼は、戦いや自分を陥れようとする人のことを考えていたのではなく、主の臨在と、主が契約果たされもたらされる祝福を考えていたのです。

 ですから、彼は、恐れることがありませんでした。人が恐れるような状況の中で、主は、栄光を現してくださるからです。その栄光を見ることで彼は満たされていました。

 私たちは、自分に起こった困難ばかりを見ています。しかし、そこに主が現される栄光に目を留める時に、それは、困難でなく、また恐れでもないのです。その栄光を期待します。

27:5 それは主が苦しみの日に私を隠れ場に隠しその幕屋のひそかな所に私をかくまい岩の上に私を上げてくださるからだ。

 主は、その苦しみの中で、隠れ場に隠してくださるのです。幕屋の密かなところは、主の臨在の場所で、かつ、誰も入ることのできないところです。完全な守りです。

 また、岩の上は、決して揺り動かされることのない土台の上に置かれるのです。

27:6 今私の頭は私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は主の幕屋で喜びのいけにえをささげ主に歌いほめ歌を歌おう。

 彼の頭は、敵よりも高くされます。彼は、尊い者として神様に扱われるのです。特別な存在とされます。神様は、尊く扱ってくださいます。

 彼は、それを経験して、喜び、いけにえを捧げます。いけにえは、彼自身ではなく、主イエス様を表しています。その業を実行されるのは、主です。そして、その栄光は、父なる神様に帰せられます。彼は、主の栄光を褒め歌うのです。彼の求めていることと、彼の行動に矛盾はありません。主の栄光を仰ぎ見ることを求めた彼は、主を褒め称えます。

27:7 聞いてください主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ私に答えてください。

 「あわれむ」は、求めに対し喜んで答えることを表します。懇願という意味もあります。神様に関して使われるときには、「恵む」などと訳されますが、求めに対して答えることを表しています。

 ここでも、ダビデが求めていることに対して、主が応えてくださることが「あわれむ」という意味です。

27:8 あなたに代わって私の心は言います。「わたしの顔を慕い求めよ」と。主よあなたの御顔を私は慕い求めます。

 彼は、主の御心は、顔を慕い求めることであることを知っていました。顔を慕い求めることは、主が彼を顧み、彼をとおして主の栄光が現されることを慕うことです。

 彼は、主に変わって自分の心が主の命令として「わたしの顔を慕い求めよ。」と言っていると言い表しました。それが、主の本当の願いであることを期待していたのです。そして、彼自身は、それを信じて主の御顔を慕い求めたのです。

27:9 どうか御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。

 しかし、彼は、御顔を隠さないで下さいとも願いました。自分は、当然主によって顧みられる者であるというような態度は取りませんでした。彼のことを顧みるかどうかは、主の主権にかかっています。全てをご存知てある神の目に適うかどうかは、自分にはわからないことです。

 ですから、彼は、自分を押しのけないでくださいと願いました。

 彼は、主が自分の助けであることも言い表しました。主に見捨てられたら、助けはないのです。見放すことなく、見捨てることのないように願いました。彼にとって、この方は、救いの神です。このように言い表すことで、彼は、心から主を求めていることを言い表しています。

27:10 私の父私の母が私を見捨てるときは主が私を取り上げてくださいます。

 そして、父母が見捨てるような時があるにしても、主が取り上げてくださると確信していました。本当に信頼を寄せていたのです。

27:11 主よあなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがいますから私を平らな道に導いてください。

 彼は、待ち伏せている者がいるということに対して、主に求めたことは道を教えて下さいということです。一見、直接的な関係がないように見えますが、待ち伏せの結果もたらされることは、彼が霊的に躓く恐れです。そうならないために、神の言葉に頼るように、道をすなわち、神の言葉を教えてくださるように願っているのです。そして、彼がそのような待ち伏せによっても揺るがないように平らな所に立つことができるようにしてくださることを願ったのです。それを可能にするのは御言葉です。

27:12 私を敵の意のままにさせないでください。偽りの証人どもが私に向かい立ち暴言を吐いているのです。

 彼を陥れ者たちが、偽りの証言をしています。暴言を吐いているのです。そのような中に立たせられているのです。

27:13 もしも私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったなら──。

 ここでは、仮定の言い表しがされています。「いつくしみ」は、最良のものという意味です。主がそれを与えてくださると信じていなかったならば、彼には、救いはないのです。絶望しかありません。

 このように言い表すことで、彼は、主の救いを強く待ち望んでいることを言い表し、主の救い以外にないことを言い表しています。

27:14 待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。

 待ち望め主を。と自分自身に言い聞かせました。主は、その信頼に必ず応えて下るからと励ましているのです。

 雄々しくあれと言いました。主に信頼できるならば、雄々しくあることができるのです。

 心を強くせよと。その心とは、主の言葉を受け入れる部分です。これは、信仰です。主が応えてくださることの確信は、御言葉に根拠があります。それを信じるのです。

 そして、主が応えてくださることを待ち望むのです。まだ、答えがないのです。しかし、主を待ち望むのです。