詩篇26篇
ダビデによる。
26:1 主よ私を弁護してください。私は誠実に歩みよろめくことなく主に信頼しています。
彼は、主の弁護を求めました。「弁護」という言葉を用いることで、彼を非難する者がいることを明らかにしています。そして、その非難は、彼の歩みに向けられていたことが分かります。彼は、自分の歩みについては、誠実に歩んだと主張しています。その歩みはよろめくことなく、主に信頼していると。
26:2 主よ私を調べ試みてください。私の心の深み(腎臓と心)まで精錬して(試して)ください。
それで、それが本当なのかどうか、主ご自身が調べてくださることを願いました。
後半では、腎臓によって表されている「たましい」と「心」すなわちここでは霊を調べてくださることを願いました。それによってその歩みが潔白であることが証明されるためです。精錬と訳されている語は、金属を試し、不純物がないことを証明することを表す語です。
たましいは、神の言葉に従う部分です。霊は、神の言葉を受け入れる部分です。ですから、これは、霊的な事柄を扱っていて、彼の信仰の歩みに対する非難から主が弁護してくださることを願いました。
なお、「調べ」、「試し」、「精錬して」の三語について、日本語訳では、三語目が他と異質になっています。原語の意味は、試す、精錬するという意味があります。「心の深みまで」と修飾されていますので、試してとするほうか適切です。
26:3 あなたの恵みは私の目の前にありあなたの真理のうちを私は歩み続けました。
彼が誠実に歩み続けていることに対して、神の恵みすなわち、主の契約に対する忠誠が、自分に注がれているのです。目の前にありと言い、彼はそれをいつも見ていたことを表しています。主は、契約に対する忠誠を果たし、彼はそれを認識していたのです。
人は、時として、主の契約に対する忠誠があっても、それに気づかないことがあるのです。
そして、彼は、その契約忠誠を喜びとして、さらに真理の内を歩み続けたのです。ここには、祝福に満ちた螺旋階段が描かれています。
・「恵み」→契約に対する忠誠。彼が誠実に歩むことに対して、神様が契約を徹底的に履行されることを表す語です。彼が誠実に歩むことに対して、契約による応答として、主が契約を果たされるのです。しかも、徹底的に。
26:4 私は不信実な人とともに座らず偽善者とともに行きません。
彼は、不真実な人と共に座りませんでした。ともに座ることは、仲間であることを表します。
偽善者とともに行きませんでした。ともに行くことは、歩みを共にすることを表しています。
26:5 悪を行う者の集まりを憎み悪しき者とともに座りません。
悪を行う者の集まりを憎みました。悪を行う者の集まり憎むことは、悪の行動を共にしないという点で正しいのです。しかし、これは、人の悪をことごとく憎むこととは違います。悪は、悪として扱いますが、人をことごとく断罪することは害をもたらします。
26:6 手を洗い自らの潔白を示します。主よ私はあなたの祭壇の周りを歩きます。
手を洗うことは、彼が潔白であることを示すためです。原語では、「潔白のうちに手を洗います。」となっていて、手を洗うことは祭壇に近づく前の儀式ですが、その儀式は、彼の歩みが潔白であるという実態を伴いました。
そのうえで、主に近づき、祭壇の周りを歩くのです。この祭壇は、神殿建設までの間、モリヤの山に置かれた祭壇です。彼が主に受け入れられる唯一の道です。そこで彼は、罪を赦されました。
26:7 感謝の声を響き渡らせて語り告げます。あなたの奇しいみわざのすべてを。
彼は、主に近付くことができました。そこで感謝の声を響き渡らせたのです。彼は、神に栄光を帰しました。
また、神様の奇しい御業の全てを語り継げました。祭壇の周りですから、民の集会に聞かせるためではなく、主に対す言い表しです。彼の経験したことから、主がなされた御業を語り告げたのです。大きなところでは、戦いにおける勝利、この詩の主題に沿えば、彼自身に関しては、たましいが神の言葉に従ったことによって、主が祝福を与えられたことなどです。
26:8 主よ私は愛します。あなたの住まいのある所あなたの栄光のとどまる所を。
彼が愛したのは、主の住まいのあるところです。そこに主は臨済されます。彼は、主を近くに覚えることができました。そこは、主の栄光の留まるところで、いつでも主の栄光を仰ぐことができるからです。彼は、自分に関して主が御業をなされることを知りましたが、そのすべてを言い表したのも、それが全て主の栄光であるからです。
26:9 どうか私のたましいを罪人どもとともに私のいのちを人の血を流す者どもとともに取り去らないでください。
そのうえで彼はもう一度、罪人とともに数えないように願っています。彼は、主の住まうところで主の栄光を見ることを願いましたが、実は、彼が罪人とともに取り去られないことは、神の栄光のためであることを含めて語っているのです。
たましいを取り去るというのは、彼の霊的な歩みが評価されないことを表しています。罪人ともに扱われて、価値のないものとされないようにということです。彼が死なないようにという意味ではありません。
命を取り去るということもそうです。このいのちは、神の言葉に従って生きることによって得られるまことのいのちのことを言っています。それは、たましいの祝福です。彼が、罪人と同じ者と評価されて、その報いのない者のように扱われないように願ったのです。
26:10 彼らの手には悪事がありその右の手は賄賂で満ちているのです。
その罪人の手には悪事があります。そして、社会においても、賄賂を受けるような悪事を行っています。そのような者と同じに扱われないように願いました。
26:11 しかし私は誠実に歩みます。私を贖い出してください。あわれんでください。
「しかし」と言い表しているように、彼は、そのような罪人とは異なり、誠実に歩んでいます。
そして、願うことは、「贖い出してください。」ということです。罪人と共に数えられるようなことのないように守られて、健全な歩みができることを、願いました。
「あわれんで」ください。と願いました。この「あわれむ」は、契約に対する忠誠を果たすという意味の動詞です、彼の歩みに答えて、主が契約に基づいて、契約に対する忠誠を果たすことを願いました。これも、最終的には、主に栄光が帰せられるためです。
26:12 私の足は平らな所に立っています。数々の集いで私は主をほめたたえます。
主の守によって、彼は、平らなところに立っています。問題から救い出され、穏やかなところに置かれたのです。彼は、その結果を踏まえて、主がどのように御業をなして栄光を現されたかを数々の集まりで、褒め称えようと言いました。このようにすることで、神の民が主の栄光を知り、主に栄光が帰せられるためです。