詩篇24篇
ダビデによる。賛歌。
24:1 地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは主のもの。
地とそこに満ちていものは、主のものです。世界とその中にんでいるものもそうです。このことが初めに言い表されているのは、それらは、人に属するものでないことを明確にするためです。私たちの存在自体が主のものであり、私たちの生き方を思うように決めてよいということはないのです。
24:2 主が海に地の基を据え川の上にそれを堅く立てられたからだ。
それは、地は、主の御手の業であるからです。すべてを造られた主に対し、存在するするものは、責任を負うのです。全ては、神の御心のために存在するのであり、その御心に適うことが求められています。
黙示録
4:11 「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」
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24:3 だれが主の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。
ここでは、誰が主の山に登ることができるのかと問われています。それは、聖なる御前と言いかえられています。聖なることは、この世とは分離していることを表します。聖なる御前に立つことができるためには、聖なるものとならないければならないのです。
24:4 手がきよく心の澄んだ人そのたましいをむなしいものに向けず偽りの誓いをしない人。
手がきよいことは、行いの正しさを表しています。
心の澄んでいることは、御言葉を受け入れる部分の純粋さを表しています。心は、人の内面を表す言葉ですが、たましいが別に取り上げられていますので、ここでは、御言葉を受け入れる部分としての霊を表しています。
たましいは、御言葉に従う部分です。たましいを空しいことに向けないのです。空しいこととは、神の御言葉に従わないで、肉に従うことです、この世のものは、空しいのです。しかし、根本的には、それを肉が求めることが問題なのです。
偽りの誓いをすることは、主に対する恐れがないからです。主の存在を心から認めていないのです。ですから、誓いを単なる人間関係の間での取り決めのように考えるのです。主を恐れるならば、自分が損になっても誓いを変えないのです。誓いという一つのことが取り上げられていますが、主を恐れ、人前ではなく、真に主に従う信仰の態度が取り上げられています。
24:5 その人は主から祝福を受け自分の救いの神から義を受ける。
この救いは、永遠の報いを受けることを表しています。その報いは、ここでは、神からの義と記されています。神から歩みが義と認められ、報いを受けるのです。
24:6 これこそヤコブの一族。神を求める者たちあなたの御顔を慕い求める人々である。セラ
このような人たちこそ、ヤコブの一族です。神の民とされた者たちの歩みなのです。彼らは、神を求める者たちです。また、御顔を慕い求める人々であるのです。ただし、「ヤコブ」という名が用いられるときは、弱さを持った神の民を表しています。
なお、イエス様は、ナタナエルを次のように呼んでいます。
ヨハネ
1:45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」
1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
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彼こそは、神の民としての歩みを求め、実行していた人なのです。
24:7 門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。
主が入城されるので、門が上がるように命じられています。「永遠の門」と記されていますので、主が永久に王として治めるために現れる時のことであることが分かります。門は、支配権を表します。ですから、このときは、患難時代が終わり、いわゆる千年王国が始まる時です。
このような時が来るので、主の前に義なる者として歩むように促しているのです。
24:8 栄光の王とはだれか。強く力ある主。戦いに力ある主。
栄光の王についての説明が記されていて、強く力ある方として、戦いでその力を発揮されることが記されています。これは、栄光の王が戦いをされることを表しています。そして、主として現されるのです。主すなわち全てのものに対する所有権を主張できる方です。敵対する勢力を主は服従させ、力ある主として立たれるのです。これは、患難時代の最後に起こることです。
24:9 門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。栄光の王が入って来られる。
24:10 栄光の王それはだれか。万軍の主この方こそ栄光の王。セラ
もう一度、同じ句が繰り返されています。永遠の王として支配される方が入って来られるのです。
この栄光の王が、万軍の主であると言い表されています。万軍の主とは、力ある方であることを表しています。