詩篇23篇
ダビデの賛歌。
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
ダビデは、羊飼いとしての主を覚えた時、乏しいことがないことを言い表しました。羊飼いは、羊を養い導きます。羊飼いとしての主は完全な導き手でした。この詩篇の主題は、満たしです。私たちがどのように満たされるかを教えてくれます。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
その初めは、命を与えて満たしてくださることです。緑は、命を表します。緑の牧場は、食べ物が豊富であることを示しています。私たちの霊の食べ物は、キリストであり、この食べ物によって私たちは、命に満たされます。この方を知ることによって命に満たされます。それは、知識として知ることと、神の御心を行うことでこの方と一つになって歩むことで経験できる命です。
その命をはぐくむもう一つのものは、「静止した水」として表されている御言葉です。御言葉によって命が保たれ養われます。
これは霊の領域にかかわることで、霊が養われることを示しています。
・「いこい」→静止。流れていないこと。
・「いこいのみぎわ」→静止した水の際。流れは、聖霊の比喩ですが、ここでは、静止した水によって、御言葉の比喩になっています。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。
そして、次はたましいについて記されています。たましいは生き返らせられます。これは、不信者が信仰を持って救いに与ることを言っているのではありません。たましいは、信仰の歩みに関係しています。私たちの霊的状態を表しています。神に従うのも従わないのも、たましいの活動です。救いを得ていても、たましいは、神の前に死んでいる場合があります。神に従って生きていないときです。
ここで歌われていることは、たましいのそのような死んだ状態から生き返らされて、神の御心にかなった歩みに立ち返ることを示しています。それを羊飼いである主はなしてくださいます。
そして、義の道に導かれます。私たちが神の御心を行い義とされる道に歩むようにしてくださるのです。
「御名のためにそうされます。」それは、この働きが、人にはよらないことを示しています。それは人の願いや都合によるのではなく、神の働きとしてなされます。神様がそうしようと計画し、神の栄光のためにその働きをなさるのです。「羊飼い」という御名のためです。羊飼いとしての働きを全うするために人を変えて導かれるのです。もし、羊が一匹も良い方向に向かわなかったら、羊飼いの資質が問われます。神の御名がそしられることになります。私たちが、羊飼いとしてのイエス様に従うことは、イエス様の御名が崇められることになります。羊は、羊飼いの心配をよそに、迷いやすいものです。私たちは、自分のことばかり考えていて、羊飼いに目を留めないのです。そして、迷うのです。
23:4 たとえ死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。
死の陰は、死や滅びそのものではなく、暗黒との組み合わせで真理の光がない状態にある、霊的に死んだ状態を表しています。死と隣り合わせの状態を表しています。多くの者は、暗黒と死の陰の谷に座っているのです。そこにとどまっています。そして、滅びるのです。しかし、ダビデは、そこを歩んでいます。主と共に歩むのです。それは、そこにとどまるのではなく、そのように真理の光のない人々の間を歩んで進んでいくことを表しています。それはまた、神に従わない人々の中を行くのですから、死を予期させるような危険な状況です。しかし、そのようなときに、災いを恐れません。なぜなら、主がともにおられるからです。
「むち」と訳されている言葉は、聖書の他の箇所では、「支配権」「杓」「杖」「部族」と訳されています。杖を表します。そして、支配権と関係しています。「杖」と訳されている語は、「支え」「杖」と訳されていて、一般的に杖を表す語として用いられており、羊飼いの杖として使われている語です。
さて、杖に関する語が二つ記されていることで、ここでは、羊飼いの杖に意味を持たせようとしています。初めの杖を表す語で支配権を表すことで、羊飼いの持っている杖は、この場合支配権を表していることを表現しようとしています。単に羊飼いの杖だけを記したなら、その意味は様々に解釈されるでしょう。しかし、一つの杖を異なる語によって表現することで、それが羊飼いの杖であり、かつ支配権を意味していることを示しています。同じ杖を表す言葉が使われていますが、「支配者」としての主と牧者としての主を覚えることができます。
主がともにおられることは、主の主権と導きを認めることです。主が主権者であり、完全に服従すべき方であることを認めることです。そうすることは、人の本来の性質には合わないことです。しかし、そのような主権者としての主を認めることは、慰めです。私たちが、辛いことや困難にだけ目を留めていたら、悲しみしかありません。しかし、そこに働かれる羊飼いとしての主を認めるなら、主が羊を正しく導くためにすべてのことをしておられることを知り、どのようなことも恵みとして受けることができるし、感謝できます。それは、慰めとして心地よいのです。
ここでは、主が共におられることの幸いとして、悪を恐れる必要がないことです。それは、主の杖にかかっているからです。絶対的な主権者としての主が共におられるのですから、何を恐れる必要もないことがわかります。そして、羊飼いとして杖を持って導かれるので、悪を恐れないのです。この節の、前半と後半は無関係ではありません。
なお、この杖については、羊飼いの杖であるとして、羊飼いがどのようにその杖を用いているかということと関連づけて、杖について解釈しようとする試みがあります。その解釈では、羊飼いが何のために杖を持っているかというと、羊の体を操るためです。羊には綱が付いていません。羊を捕まえたり、毛を刈るために寝転がしたりするのも、杖で行えます。それらと関連付けて羊飼いををあやつるためのものとして学びます。しかし、その解釈の仕方には、無理があります。それは、聖書の根拠に基づくものではないからです。ですから、単に杖として理解したほうが良いようです。
・「死の影」→原語は、「影」と「死」からなる。光と命がないことを表す。
・「わざわい」→悪。善悪の悪。
23:5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
主は、食卓を整えてくださいます。その食事は、真に私たちを満たすものであり、私たちの食事は、主イエス・キリストです。それは、敵の前で備えられます。これは、敵の前でも、といったほうが分かりやすい思います。敵の前では、多くの者は、心のゆとりをなくすでしょう。しかし、そのような状況でも、私たちは満ち足りることができます。それは、食事を摂ることができるからです。そして、食事は、主を知ることであり、主と同じものに変えられることを表しています。いのちのパンとしてのイエス様を食べるからです。神の御心だけを行う者となります。
そして、敵の前で、油を注いでくださいます。この油は、聖霊の比喩として覚えることができます。
ペテロ第一
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
4:14 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
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クリスチャンはすでに御霊を内住していますが、御霊は、キリストの名のために非難を受けるとき、栄光を現す方として豊かに働かれます。
そして、杯は、溢れています。杯は、ぶどう酒との関連で、イエス様がご自分を捨てたことを表しています。御自分を捨てたイエス様を覚えることにおいて、あふれるほどに豊かであることを表しています。それは、油が注がれたことと無関係ではありません。聖霊に満たされるので、自分を捨てることができ、神様の御心だけを行う者となることができるのです。
これは、最も祝福された状態です。人の思いは、自分が快いことが最も祝福された状態と考えます。それが、自分の満たしと考えます。しかし、真の祝福は、キリストを知り、聖霊に満たされてキリストと同じように自分を捨て、よみがえった者としての歩みにあるのです。それは、聖霊による再生と刷新によるものです。聖霊に満たされ、自分を捨て、神の御心だけを行う状態です。
23:6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。
それ故、神のいつくしみと恵みが追って来るのです。
「いつくしみ」は、神様が天地創造の業をご覧になられて、「よしとされた」と記されているように、「良い」「喜ばしい」と訳される語で、「神の目に適っている」ことを表します。ここでは、神の目に適っていることが神から示されることです。神の目に適い、神に喜ばれるのです。さらに言うならば、その人がさらに神の目に適うものになるように御心をさらに示し行うように導かれます。このように神の好意が注がれるのです。
「恵み」は、契約に対する忠誠」です。神様に従うダビデに対して、神様が契約を忠誠をもって果たされることを表しています。それは、ダビデが自分を捨てて、神の御心だけを行う者になるからです。
それがいつまでも追ってくるのです。そのような神様のいつくしみと恵みが彼に注がれ、彼は、益々神の御心に適う者になるのです。そうすると、神様は、さらにいつくしみと恵みを注ぎ、そのことがずっと続くのです。ここには、成長の螺旋があります。
「いつまでも主の家に住まいましょう。」と言いましたが、これは、主と共に歩むことを決意している言い表しです。主の家に住むことは、掟によりできないことです。霊的に、主の御臨在を常に覚えて歩むことを言い表しています。これは、永遠の天の家に住むことを言い表しているのではありません。彼は、地上の歩みにおいて、主が共におられることの幸いを歌っているのです。その彼の全ての経験は、主が共におられるので、主の家に住むことであるのです。いつでも主とともにあることこそ幸いであることを知っている人の言い表しです。
「いのちの日の限り」、そして「いつまでも」という言葉によって、それがいつまでも継続する歩みであるのです。