詩篇
指揮者のために。ダビデによる。
14:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。
愚か者がどのような者であるか示されています。愚かは、ナバルという語です。道徳的、宗教的要求に対して理解がないことです。
彼らは、心の中で神はいないと言っています。これが根本です。神はいないと考えているのですから、神が求めていることに心を留めることはないし、理解していないのです。
彼らは、「腐って」います。この語は、滅びと関係しています。
また、忌まわしいすなわち忌み嫌うべき不正を行っています。主が忌み嫌う不正を行っているのです。
さらに、善を行う者はいないのです。この善は、天地創造において「よしとされた」と記されいる語と同じで、神の目に適っていることを表します。ここでの善悪の基準は、神の目に適っているかどうかなのです。愚か者は、神の目に適っていることを何一つ求めません。
14:2 主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。
神が天から見下されたのは、御自分の目に適っているかどうかを見るためです。神の目に適っているというのは、「悟る者」です。すなわち、神の御言葉を受け入れて実践する者を指しています。神の言葉を信じ、従う人のことです。
神を求める者は、愚か者のように、神はいないという人ではなく、神を実在の方と認め、その方に呼び求め、信頼する人のことです。
14:3 すべての者が離れて行きだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。
彼らは、ことごとく背き去りました。彼らは、「無用」の者となりました。「無用」は、道徳的に堕落していることです。役に立つかどうかという意味ではなく、神の聖さから離れて、堕落した状態です。
善を行うとは、神の目に適ったことを行うことを表しています。そのようなことを行う者が一人もいないのです。
・「無用」→道徳的に堕落していること。
14:4 不法を行う者はみな知らないのか。彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ主を呼び求めない。
「彼らは知らないのか。」と問うています。彼らは、神を知らず、善悪を知らないのです。
「彼らは、パンを食べたようにわたしの民を食べている。」パンを食べたというのは、彼らの経験したことです。いましていることは、神の民を食べることです。神にとって価値ある民を彼らは自分のために食い物にしているのです。彼らには、民の価値が分かりません。全く民に対する見方が違うのです。彼らにとっては、自分を満たすためのパンほどの価値しかないのです。
主のご在世当時のパリサイ人、律法学者のように、自分を喜ばすことだけを考え、民の幸いを考えてはいませんでした。民については、神の民として導こうとしていたのではなく、自分の喜びを満たすための道具に過ぎなかったのです。
教会における奉仕についても、同じようなことが言えます。その奉仕は、神の民を建て上げるためなのでしょうか。自己満足のための奉仕であるとしたら、民を食い物にしているに過ぎません。
・「彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ」→「彼らは、パンを食べたようにわたしの民を食べている。」
14:5 見よ彼らは大いに恐れた。神は正しい一族とともにおられるからだ。
見よと呼びかけ、彼らの結末を見せました。彼らは、大いに恐れたのです。なぜならば、神は正しい者たちと共におられるからです。不法を行う者とは共におられず、彼らが虐げる神の民と共におられるからです。
14:6 おまえたちは苦しむ者の計画を踏みにじろうとするだろう。しかし主が彼の避け所である。
「苦しむ者の計画」→「謙る者の助言」ただし、この「助言」は、神の助言で、神の御心や計画を意味します。
謙る者は、主の前に謙る者であり、主の言葉を受け入れ、従う人のことです。
謙る者の計画という訳語だけでは、人が独自に立てた計画のように受け取られがちですが、へりくだる者にそのような計画はありません。なぜならば、主の言葉を受け入れ、その見心の実現を求める者にとって、主の計画だけがあるのであり、その御心の実現だけがあるから出す。ですから、愚か者がしていることは、主の御心の実現を求めて主に従っている人の歩みを妨げ、踏みにじることであるのです。
しかし、悪者のそのような企てに対して、主が彼らの避け所です。彼らは、主に身を避け、その御心の実現を主に委ねることができます。主は、それを実現させてくださいます。なぜならば、それを実行しようとしている方は、主であるからです。
14:7 ああイスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。
ダビデの願いは、イスラエル救いです。神の民の救いです。その救いについては、「囚われの状態から戻す」時です。それがシオンすなわち神から来ることを願いました。文脈からすれば、これは、敵との戦いではありませんので、捕虜となった民が返されることを言っているのではありません。神を知らない者たちの攻撃から開放されて、元の状態に戻ることです。
その時、喜べと。ヤコブは、弱さを持った神の民を表しています。彼らは、苦しみから開放されることを経験し、喜ぶのです。
イスラエルは、選民としての立場を表します。彼らは、神の栄光を見て喜ぶのです。それは、自分のことではなく、神の栄光を見るからです。
喜ぶという語が二種類使われています。