詩篇7篇
シガヨンの歌。ダビデによる。ベニヤミン人クシュのことについて主に歌ったもの。
シガヨンは、瞑想、あるいは黙想のこと。クシュについては、聖書にその名がここしか出てきません。
訳出されていませんが、クシュの「言葉」について主に歌ったものです。彼は、言葉によって悪を行うのです。彼は、悪を宿していて、害毒をはらんでいるのです。そして、偽りを生みます。彼のうちから出た悪による言葉なのです。これは、神の言葉に従うことと対比されてます。
彼の言葉については、二節にたましいを引き裂くような言葉、六節に激しい怒りの言葉、十四節には、不法を宿し害悪をはらみ偽りを生むものの言葉と記されています。
7:1 私の神主よ私はあなたに身を避けます。どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。
ダビデは、主に身を避けますと言い表しました。彼の求めていたことは、主とともに歩むことです。そこにこの問題が生じました。その解決は、主にありました。その方に身を避けたのです。
彼は、主を神としていたのです。すなわち、神に従って生きていました。そして、その方を「主」と言い表しています。主という御名は、存在者を表しますが、同時に契約の履行者を表します。ですから、主に信頼するならば応えてくださる方であることを信じていたのです。そのような信仰に立って、この祈りをしています。
彼には、追い迫るものがありました。特に、このクシュです。彼は、言葉を持ってダビデに迫ったのです。ただ、彼は、名指ししていません。追い迫る全てのものから救ってくださることを願いました。そして、助け出されることです。
ここで、「助け出す」と訳されている語は、「奪い去る」という意味です。この場合は、開放することを表しています。
7:2 彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き助け出す者もなくさらって行かないように。
それはちょうど獣に襲われて、引き裂かれようといているところから助け出されるようなものです。彼らは、彼のたましいを狙っています。獣によって表されている悪魔の働きとして、彼が神の言葉に従って生きようとするその歩みを引き裂き、躓かせようとしているのです。彼らは、「さらって」行こうとしているのです。この「さらう」という言葉は、一節の「助け出す」という言葉と同じ原語です。どちらも同じ言葉で訳すならば、「奪い去る」です。これは、神様と悪魔の奪い合いなのです。
7:3 私の神主よもしも私がこのことをしたのならもしも私の手に不正があるのなら
7:4 もしも私が親しい友に悪い仕打ちをした(良いことをしたことに対して悪を返した)のならまた私に敵対する者からゆえなく奪ったのなら
7:5 敵が私のたましいに追い迫り追いつき私のいのちを地に踏みにじるようにし私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。セラ
彼は、救いを求めるにあたって、神様の正しい裁きを求めたのです。そのことは、十一節に言い表されています。ですから、その裁きを求める者として、自分が正しい者でなければ、それを求めることはできません。それで、ここでは、彼の正しさが言い表されています。
一、私の手に不正があるのなら
手は、行いを表し、彼には、不正がありませんでした。
二、私が親しい友に悪い仕打ちをした(良いことをしたことに対して悪を返した)のなら
彼は、良いことに対して悪を返すようなことはしなかったのです。
三、私に敵対する者からゆえなく奪ったのなら
敵対する者からゆえなく奪うことは、犯罪です。相手が悪いから、相手に悪いことをしても良いということはありません。そのような理屈は通らないのです。
もし、これらのことがあるならば、彼を救い出さず、敵がたましいに追い迫ってもよいと言いました。敵が求めていることは、たましいです。ダビデは、神の前に御心に従って生きることを願っていたのです。そこから逸れてしまうことを恐れていたのです。
また、命を地に踏みにじり、栄光を塵の中に埋もれさせても良いと言いました。これは、たましいと関係していて、たましいが神の御心に従って生きるならば、そこに命があるのです。神と一つになって歩む命があり、永遠の栄光としての報いがあります。
それは、神からの光栄を受ける道です。それが塵の中に埋もれてしまうことは耐えられないことでした。彼は、不正を行って、そのようなものを失うことがないように歩んでいたのです。しかし、敵は、それを脅かしていました。
私たちが問題の解決を求める時、どのような観点でそれを求めているか考えることは幸いです。たましいと命と栄光のために求めるべきです。
7:6 主よ御怒りをもって立ち上がり私の敵の激しい怒りに対してご自身を高くし私のために目を覚ましてください。あなたはさばきを定められました。
彼は、自分のために神様が力を表し、裁いてくださることを願いました。悪に対して御怒りをもって立ち上がってくださるように願ったのです。裁く対象は、敵の激しい怒りです。怒りに対して、怒りを持って報いてくださるように願ったのです。
彼は、神の裁きに委ねました。神様は、裁きを定められたと確信を持って言い表しています。
7:7 国民の群れをあなたの周りに集めその上の高いみくらにお帰りください。
7:8 主は諸国の民にさばきを行われます。私の義と私にある誠実にしたがって主よ私をさばいてください。
その裁きは、彼の事柄だけを扱うごく狭い範囲の裁きではなく、諸国の民の間をさばく方としての裁きの座につかれる方の前に、その裁きが行われるのです。世界を裁く方の前に、自分のことを裁き、彼の義と誠実に従ってさばいてくださるように願いました。
私たちの問題の裁きをされる方は、全世界を裁かれるのです。その方の前に、私たちは正しい者であって、神の裁きを受ける者として立つのです。少なくとも、人の目には正しい者して歩んでいなかったら、その裁きを求めることはできないとわかります。ダビデは、神の前に誠実に歩んでいたのです。
7:9 どうか悪しき者の悪が後を絶ちあなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は心の深み(心臓と腎臓)まで調べられます。
彼の求めたことは、悪しき者の悪が絶たれることです。そして、正しい者が堅く立てられることです。その方は、心と腎臓を調べられて、善悪を裁かれるのです。ダビデは、そのような正義を求めていました。
心臓は、霊の比喩です。そして、腎臓は、たましいの比喩です。主が調べられるのは、霊とたましいです。霊は神の言葉を受け入れる部分です。たましいは、神の言葉に従う部分です。神は、いかに神の言葉を受け入れ、また、従っているかということに関心があり、それを評価されるのです。
7:10 私の盾は神にあり神は心の直ぐな人を救われます。
そのように、彼は、神の正しい裁きのゆえにこの方から盾のように守られる確信があり、直ぐな人が救われることを信じていました。
7:11 神は正しい審判者日々憤る神。
そして、神は正しい審判者であることが言い表されていて、この方のさばきを求めたのです。そして、その方は、日々憤る神とあるように、その裁きを先延ばしされることはなく、日々に裁かれるです。
7:12 立ち返らない者には剣を研ぎ弓を張って狙いを定められます。
立ち返らない者に対して、剣と弓で狙われます。彼らは、不法の者、害毒をはらむ、偽りを生む者です。
7:13 その者に向かって死の武器を構えその矢を燃える火矢とされます。
この剣は、死の武器です。彼らの悪を判別するのですが、それを適用することで、彼らは死に定められます。判断基準は、御言葉です。
矢は、刺し通すものですが、燃える火矢です。火は、評価を表します。その評価が適用されて、彼は、死に定められるのです。
7:14 見よその者は不法を宿し害悪をはらみ偽りを産んでいます。
彼らは、不法を宿しています。常に、不法が彼らとともにあるということです。害毒をはらんでいます。彼らのうちに蓄えているのです。そして、偽りを生んでいます。真実がないのです。
7:15 彼は穴を掘ってそれを深くし自分が作った穴に落ち込みます。
彼に対する裁きは、彼の掘った穴に彼が落ち込むというふさわしい報いです。偽りを語るならば、その偽りで彼は滅びるのです。
7:16 その害悪は自分の頭上に戻りその暴虐は自分の脳天に下ります。
また、害悪は、自分の頭に帰ってきます。暴虐は、脳天に下るのです。彼を徹底的に打ちのめすものであることが表現されています。
7:17 私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方主の御名をほめ歌います。
彼は、主を賛美しました。それは、その正しい裁きのゆえにです。そのなされる義にふさわしく主を賛美するのです。彼は、主が業を行われたことに対して、主の御名を賛美したのです。
私たちは、問題の解決に当たり、主に感謝しますが、主の御名が表されるという観点から祈っていないと、主の御名に対する賛美には結びつきません。自分が救われたよかったから感謝するという態度に終わります。しかし、ダビデは、そうではなく、主の正しい裁きを求めていたので、主が正しい裁きをしたことに対して、主の義に相応しく主を賛美したのです。
もし、私たちの周りにこのような人がいたならば、そのような人はいなくなればいいと思うのではないでしょうか。そして、その人がいなくなるように主に祈るかもしれません。しかし、私たちは、主が正しさに従って裁かれることを求めるべです。そうすれば、相手の方に悪があるならば、主は、それにふさわしく裁かれるでしょう。しかし、私たち自身は、そのような人を愛し、神にふさわしい行動を取るべきです。私たちがまず、神の前に正しい者として行動していなければならないのです。そして、相手の方をどのように扱うかは、主の主権によることです。相手の方を救うことが主の働きであるならば、私たちは、そのような人に対しても、神を信じる者としてふさわしく振る舞う必要があるのです。