詩篇2篇

2:1 なぜ国々は騒ぎ立ちもろもろの国民は空しいことを企むのか。

2:2 なぜ地の王たちは立ち構え君主たちは相ともに集まるのか。主と主に油注がれた者に対して。

 国々の騒ぎ立つこと、それは、空しい企みのためです。国民と記すことで、そこに住む人々が空しいことを企んでいました。

 そして、地の王たち、また支配者に言及されています。王たちは、自らを打ち立てようとしています。彼らは、主と主に油注がれた者に対抗して自分を王として打ち立てようとしているのです。

 地の支配者たちは、共に結び付けられたのです。

・「立ち構え」→「自らを打ち立てる」ぶっ立てる。自分を王として立てることが強意語幹で記されている。不定未来形で継続している。

・「集まる」→打ち建てる。建設する。固くする。ある事柄を打ち建てること。受動態。完了形。

2:3 「さあ彼らのかせを打ち砕き彼らの綱を解き捨てよう。」

 彼らは、自らに、「枷を打ち砕き、綱を解き捨てよう」と言いました。枷は、主の戒めです。綱は、主の導きです。そこから開放されることを求めたのです。

・「打ち砕き」→強意形。ぶち砕こう。

2:4 天の御座に着いておられる方は笑い主はその者どもを嘲られる。

 自分たちを高い者として打ち立てようとした彼らに対して、御座についておられる方は、笑いました。嘲られるのです。

2:5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ激しく怒って彼らを恐れおののかせる。

 主は、怒りをもって彼らに言ってやります。また、激しい怒りで彼らを恐れおののかせます。これは、父なる神の言葉です。

・「告げる」、「おののかせる」→強意形。

2:6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

 「わたし」という代名詞が記されることで、「わたし」が王を立てたことが強調されています。「わたしの王」ということで、人が自らを王として打ち立てることに対抗しています。また、シオンについては、「わたしの聖なる山」と言われ、ここには、主がご自分の選んだ、ご自分のものである聖なるところを強調しています。そこに王を立てたのです。

2:7 「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。

 これは、御子の言葉です。主の定めは父が語られたことです。父は、御子に言われました。まず、「あなたはわたしの子」と言われました。そのことについては、「わたしが今日あなたを生んだ」とも言われ。この方が被造物でない、父と本質を同じくする方であることが強調されています。

ヘブル

1:4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

1:5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と。またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と。

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 御使いよりも優れた方であることを示すために、この部分が引用されています。ヘブル書では、この方が御使いではなく、神の子であり、神と本質を同じにする方であることが強調されています。

 また、この箇所は、使徒たちによってイエス様のよみがえりと関連付けて引用されています。この部分は、よみがえりを直接指す預言として引用されているのではありません。よみがえりは、「生んだ」こととは異なります。それは、よみがえりによって公に神の御子として示されたことを言っています。

使徒

13:22 そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』

13:23 神は約束にしたがって、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださいました。

13:32 私たちもあなたがたに、神が父祖たちに約束された福音を宣べ伝えています。

13:33 神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。

→この引用された聖句は、よみがえりの直接の預言として引用されているのではなく、よみがえりによって明らかにされた事柄についてです。神が王として立てられた方は、神と本質を同じくする神の御子であることの証明であるのです。この言葉を引用した時、詩篇二編全体を念頭に話しているのであり、御子として示されている方が、このイエスであることを言っているのです。この方に救いがあるのです。

 先祖たちに約束された福音は、ダビデの子孫から救い主を送るというものです。その方は、王として来られます。その方は、朽ちることのない神の御子として治められるのです。神の御子であることは、よみがえりというしるしで明らかにされたのです。

ローマ

1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。

1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、

1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

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 よみがえりにより、この方が力ある神の子として公に示されたのです。

13:34 そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』

→この約束は、あなた方は生きるという永遠の契約です。それは、もはや朽ちることのない方によって実現するからです。これは、よみがえったことでもたらされる約束の永遠性についての説明です。

イザヤ

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたと永遠の契約を結ぶ。それは、ダビデへの確かで真実な約束である。

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13:35 ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。』

13:36 ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。

13:37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。

 この引用聖句が、直接的なよみがえりの預言です。

詩篇

16:10 あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

16:11 あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

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 敬虔なダビデに滅びを見せないことがよみがえりの預言として引用されています。イエス様は、この預言のとおりによみがえったのです。

--使徒13章引用終了--

2:8 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。

 わたしに求めよと言われ、それを与える方が主権者としての父であることを初めに示しました。その与える範囲は、国々であり、地の果て果も譲りとして、所有地として与えられます。

2:9 あなたは鉄の杖で彼らを牧し陶器師が器を砕くように粉々にする。』」

 その支配権は、鉄の杖であり、非常に力強いものです。その杖により牧します。これは、主に従う者を牧する働きです。陶器師が器を砕くことは、御心に適わない者に対しての裁きです。

2:10 それゆえ今王たちよ悟れ。地をさばく者たちよ慎め。

 このように、御子が強い支配権をもって全世界を治めるのですから、王たちや地を裁く者たちは、このことをよくわきまえ悟るように、また、自らを高めて支配権を打ち立てようとすることを止め、慎むように命じています。

2:11 恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ震え子に口づけせよ。

 力強い権威ある王の前に、恐れつつ仕えるのです。おののきつつ喜ぶのです。そのうえで、御子に対する愛の現れとして、口付けするのです。

・「震え」→喜ぶ。霊的喜び。

2:12 主が怒りおまえたちが道で滅びないために。御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。幸いなことよすべて主に身を避ける人は。

 そのようにするのは、主が怒り、彼らが道で滅びないためです。主とは、御子のことです。道で滅びると示されているのは、彼らの歩みに対して責任が問われることを表しています。

 御怒りがすぐにも燃えようとしているからとその理由を示し、主が力をもって裁きをする時が近いことを示しました。

 主に身を避けることが幸いなのです。主の心に適う人が主に身を避ける人であり、主の怒りを免れるのです。主を恐れ敬い、主を愛して主に従うことこそ幸いなのです。