ローマ12章
12:1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
前章までは、肉によらず御霊によって神の御心を行うことができると示されてきました。この章からは、実際的な勧めがなされていて、肉を持つ私たちに対して、実生活の中でどのように行動したら良いかが示されています。
「神のあわれみによって」と記し、人が不完全な者であることを神はご存知であり、同情しておられることを踏まえて勧めています。
体を生きた供え物とすることは、肉体にあってなす歩みを神に捧げることです。捧げ物とすることと礼拝が関連付けられていて、神に喜ばれる、聖なる生きた捧げ物にすることで、神を崇め、神に栄光を帰すことになります。
神に喜ばれるためには、神の御心に適った歩みが必要です。それは、聖なる神にふさわしい歩であり、神に対して生きたものです。
・「あわれみ」→同情。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
自分を神に捧げることと、この世と調子を合わせることは、対極にあります。
そして、自分を神に喜ばれる者、聖なる者として捧げるためには、「神の御心を受け入れる器官」を新たにすることが必要です。この器官が腐ると信仰の失格者になります。この器官を新たにすることで、神の御心を受け入れることができるようになります。
そうすれば、神の御心が何かを知ることができます。その神の御心が何かを知るとは、神の前に良いことすなわち「善」を見分けることであり、神に喜ばれることを見分けることであり、完全なものを見分けることです。
・「心」を新た→「信仰により神の御心を受け取る器官」を新たに。
・「変えていただく」→中態。
12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
この思い上がりは、賜物を誇ることです。六節に記されているように、皆、異なる賜物をもっていることを踏まえ、その賜物を誇ることを戒めています。この賜物について、パウロは、恵みと表現しています。それが与えられる程度は、信仰の量りに応じたものになります。恵みは、神が人に与えるために備えられていますが、信仰によって受け取ることができ、信仰の量りによります。
与えられた賜物に関して、考えなければならない必要な考えを超えて、それを凌ぐ考えを持ってはならないのです。
賜物は、神が分け与えた信仰の量りに応じて与えられているのです。それを与えたのは、神です。恵としての賜物を受け取る信仰についても、それは神が与えたので、慎み深い考え方をすべきなのです。
・「思うべき限度」→考えることが必要なこと。
12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
そして、それぞれの賜物は、体の器官として働くのであり、キリストにあって一つの体なのです。互いに誇るべきところはなく、一つの体の器官として、それぞれの役割を果たすのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、
賜物は、与えられた恵みによります。神様がそれぞれの人に備えてたものであり、それぞれが信仰によって受け取ったものです。異なる賜物を受けているので、その与えられた能力を用いるのです。
預言は、聖霊による明らかな奇跡の賜物です。
続く勧めは、明らかな奇跡とは言えない能力です。それも、聖霊の賜物として取り上げられています。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。
「慈善を行う人は喜んで行いなさい」→「神の契約に対する誠実によって喜んで憐れみを示しなさい。」
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
愛は、アガペーです。その愛に偽りがあってはなりません。具体的に、悪を憎み、善から離れないようにすることです。
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
→「互いに相手を優れた者として尊敬する中に、兄弟愛をもって互いに熱く愛し合いなさい。」
愛し合うことも、聖霊の働きとして実現します。
12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。
12:13 聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。
六節からここまでの勧めは、受けた賜物による奉仕についての記述です。文としては、切れ目なく続いています。その賜物は、明らかな奇跡としての聖霊の賜物のことだけではありません。人が肉にあって獲得した能力がある程度あれば、行うことができるように考えられるますが、そうではありません。この働きの全ては、聖霊による働きであり、肉の力によるものではないからです。肉によって行うことができても、全く評価されません。また、神の前には全く価値の無いものです。すべて聖霊の働きとしてなされるので、聖霊の賜物なのです。
続く節は、対人関係についての勧めです。
12:14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。
迫害する者たちに対しては、祝福します。呪ってはいけないのです。
12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。
ともに喜ぶこと、また、共に泣くことは、互いに対して同じ思いを持つことで、思い上がった考えを持たないことです。思い上がった考えを持つと、喜んでいる人や泣いている人に対しても、冷めた目で見るし、思いやることはできません。ともに喜び、泣くことは、自分を高くしないことの現れとして勧められているのです。
ただし、肉的なことを喜んでいる人と喜びをともにすることはできないし、不信仰になって泣いている人に合わせて、不信仰になることはできません。
互いが一つ心になり、思い上がらないのです。身分の低い人たちに対して思い上がった考えを持たず、心一つにして交わるのです。
また、自分を知恵のある者と考え、他の人を見下すようなことをしてはならないのです。
・「心を一つにする」は、同じことを「考える」です。また、思い上がるは、傲慢なことを「考える」で、考えることは、行動のもとになる考えを持つことです。単に心の中に思うのでなく、その考えが行動となって現れるのです。これは、傲慢な態度として現れます。「同じことを考える」という具体例が、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くことです。また、身分の低い人たちに順応することです。自分を知恵のあるものと「考える→しては」いけません。この部分は、「考える」ではない。考えた結果としての行動として「(知恵ある者と)しては」となっています。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。
悪に悪を返してはなりません。誰に対してもそうです。全ての人に対して良いことを図るのです。
12:18 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。
ここで求めていることは、教会全体に関することで、可能な限り求めるべきことが命じられています。それは、共に完全な者となって歩むことです。
神様の働きは、そこにあります。私たちを神のさまに変えるために、全能の力で働いておられます。
・「自分に関することについては、できる限り」→「あなた方の中で可能なことであるならば。」
・すべての人「と」→「ともに」
・「平和を保つ」→「神の御心を行うことでもたらされる賜物としての完全さの中に生きる」
12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
自分で復讐してはならないのです。神の手に委ねるのです。それは、御言葉に明らかに記されているからです。復讐は、主のものであると。
12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」
また、敵に対しては良くしてやることも記されています。それが敵の頭の上に炭火を積むことになるからです。主が手を下されます。
12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
私たちが敵に対して復讐することは、悪の誘惑なのです。それによって神の言葉を信じる者の証しを損なう働きです。もし、それをするならば、敗北なのです。敵に打ち勝つためには、善を行うことです。敵対者に対しても善を行うことで、勝利できます。