ローマ3章

3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

 ここには、二つの質問がされています。

一、ユダヤ人の優れたところ。

二、割礼にどんな益があるのか。

 ユダヤ人であっても、形だけの割礼では意味がないと論じ、心の割礼こそ価値があると示しました。しかし、ここでは、形骸化した信仰に歩み、心から神に従うことのないユダヤ人も含めて、ユダヤ人の優れたところは何かと問うています。形だけの割礼にどんな益があるかと問うています。これは、二章のことを引き継いで語られているのであって、ユダヤ人は、律法を受け、それを誇りとしていながら、それを行っていない罪人であることが示されています。

 三章は、ユダヤ人を念頭に記されています。それは、律法を与えられたユダヤ人が、律法を守ることができなかったことを示すことで、全ての人が罪人であることを明確に示すためです。その上で、律法による義ではなく、イエス・キリストを信じる信仰による義が示されています。

3:2 あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。

 ユダヤ人の優れ手いることは、あらゆる点から見て大いにあります。ただここでは、そのうちの一点だけ示されています。ユダヤ人の優れていることは、九章以降に示されることになります。

 ここでは、その優れた点として神の言葉を委ねられていることが挙げられています。このことが取り上げられているのは、御言葉を受けていることは尊いが、それによって神の前に義とされるのではないことを言うためです。九節以降で、ユダヤ人が罪人であることが証明されています。神様の律法を受けたけれども、それを守ることができないのは一部の人ではなく、全ての人であることが示されています。

3:3 では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。

 神の御言葉を委ねられているという優れた立場にあるユダヤ人ですが、彼らのうちに不真実な者があったら、神の真実は、無に帰するのかと問うています。九節以降は、ユダヤ人が律法を行うことができなかったことが旧約聖書を引用して証明されていますが、この節から八節までは、その論証の前に、御言葉をユダヤ人に与えた神に不正がないことが論証されています。その初めがこの問いです。

 ユダヤ人のうちに不真実があったら、イスラエルを選民とし、神の民とした神様は、不真実なものなのでしょうか。

 確かに人は、ユダヤ人を見て、ユダヤ人の不真実によって彼らの信じている神を不真実なものとみなします。私たちが奇妙な振る舞いをする団体を見たら、その団体の信条がおかしいと思います。

 クリスチャンも非常に高い立場に置かれていますが、クリスチャンの不真実は、神の証しを損ないます。しかし、神の真実が無に帰するのでしょうか。

 彼らは、それによって神の証しを大いに損なうことは事実ですが、神の真実に揺るぎはありません。

3:4 決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。

 ユダヤ人が不真実であっても、神が真実であることは変わりありません。ここでは、「神は真実な方であるとすべきです。」と記されています。人の側の判断について論じているのであって、人は、ユダヤ人の不真実によって神が不真実であるように考えてはいけないのです。

 神様が裁きをされるとき、誰も神を不当だと言うことはできないのです。神様は、既に正しい道を示しているのです。御言葉によって示しておられました。裁きをなさるとき、その御言葉によって裁かれるのです。

 神様の真実は、御言葉によって証明されます。神の示していることは揺るぎのない真実です。御言葉はそのように決して揺るぐことがありません。ですから、裁くときにも、御言葉に示してあることによって神は勝利することができます。御言葉は、神の正しさを示しています。

3:5 では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。

3:6 決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。

 人の不真実によって神の真実が揺らぐことはありません。人の不真実によって神の真実が明らかにされます。ここでは、不真実が不義、真実が義と言い換えられています。人の不義によっても、神の義は揺るぐことなく、神の義が明らかにされます。そのようなことがあったとしても、裁きを下す神が不正であると言うことはできません。不義がもたらした結果にはよらず、不義は裁かれます。

3:7 では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。

3:8 「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。

 罪があるから神の義が明らかになると言う論法です。これは、人の側からの考えです。人の不義があるから神の義が明らかになるのであって、人の不義も良いことであり、これを裁くことができないというものです。

 パウロが伝えた福音に関して、どのような悪も赦され、義とされ、それによって神の大きな恵みが表されます。罪が大きいほど恵みも大きいのです。だからといって罪を犯したほうが良いと言うことにはなりません。

 人の罪は、罪を犯したことに対して責任が問われます。その罪によってさえ、神の真理は明らかにされ、神の栄光となりますが、そのことが罪を軽減したり赦したりする代償とはなりえないということです。罪は必ず裁かれることを明確にしています。

3:9 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。

 「私たち」と言っているユダヤ人は、他の者に勝っているのでしょうか。御言葉を受けているという点では勝っていますが、罪に関しては何も勝っておらず、きよいということはないのです。全ての人が罪の下にあるのです。

3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。

3:11 悟る者はいない。神を求める者はいない。

3:12 すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」

3:13 「彼らの喉は開いた墓。彼らはその舌で欺く。」「彼らの唇の下にはまむしの毒がある。」

3:14 「彼らの口は、呪いと苦みに満ちている。」

3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、

3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

3:17 彼らは平和の道を知らない。」

・「平和」→完全さ。ここでは、罪を犯すことを論じています。彼らが戦いをしているという話ではないのです。

3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 ユダヤ人が罪人であることを旧約聖書から証明しました。

3:19 私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

 三章は、律法を持つユダヤ人を念頭に記されており、そのユダヤ人が罪人であることが証明されています。それは、律法を受けたユダヤ人は、神の言葉を受けた者として優れているが、そのユダヤ人も罪の下にあるのです。そのことを旧約聖書の御言葉を引用して、証明しています。義人は一人もいないのです。

3:20 なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

 律法を受けている人々がこのように神の前に罪人であることが証明されています。律法を受けても、律法を行うことはできないのです。自分の不完全さが示され、律法を行うことによっては、義とされず、神のきよさが示されることによって、罪の意識が生じることになります。罪人であることがいよいよ明らかになるのです。

 このように律法を受けたユダヤ人さえ神の前に罪人とされ裁きを受けなければならないのですから、全世界の人は、神の前に罪人としてさばかれなければならないのです。

3:21 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

 今、別の神の義が示されています。それは、律法によるものとは異なりますが、律法と預言者によって証しされたもので、既に旧約聖書によって示されていたものなのです。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義です。神の前に義とされる道です。そして、それは、ユダヤ人かそうでないかの差別なく、全ての信じる人に与えられます。

3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

3:24 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

 全ての人が罪の中にあると論じてきました。その罪のゆえに神からの栄誉を受けることができません。義と認められるのは、ただ神の恵みによるのです。無代価で与えられるので恵みなのです。キリスト・イエスによる贖いのゆえに義とされます。

 キリスト・イエスという表現が使われているのは、人としての主イエス様がいけにえとして捧げられたことに基づきます。

3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

3:26 すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

 神は、イエス様をなだめの供え物として公に示されました。なだめの供え物は、それによって神が満足するためです。「忍耐を持って見逃してこられた」ことに対するなだめと言えます。公に御自分の義を現さずに来られたのです。しかし、イエス様のなだめの供え物によって満足されました。

 さらにそれは、イエス様の「血による」また、「信仰による」供え物とあります。神様に対しては、レビ記のいけにえの規定では焼かれた煙がなだめの香り言われています。それは、神にとって喜ばしい部分が火によって捧げられたことに対して記されています。

 そこには、イエス様の血による裏付けがあるのです。血が流されたので、罪が赦されたのです。それは罪に対する裁きであるからです。罪に対する裁きが行わなければ、神の義は打ち立てられないのです。

 「信仰による」とあるのは、人の側のことで、信じる人の信仰によって初めて、その人にとってなだめの供え物となるのです。信じない人にとっては何の価値もないものに見えます。「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」とあります。信じる者にとってなだめの供え物であり、信じる者にだけ価値あるものなのです。

3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。

 「それでは」と論じていますが、誇りについてはここで始めて触れられます。しかし、それは、ユダヤ人の間に抱かれていた考え方であったと考えられます。自分たちが律法を持ち、神の選民であることを誇っていたのです。

 しかし、行いではなく、信仰によリ。恵みによって義とされることが明らかにされた今、誇りはどこにあるのでしょうと問うています。これは、誇りは既になくなったことを明確に示すために、質問形式でそのことを取り上げたのです。

 信仰の原理によって誇りは取り除かれました。行いに対する代価として義とされるのではないからです。信仰によって神の恵みを受け入れるからです。

・「律法」→ここでは、「原理」。

3:28 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

 人が義と認められるのは、信仰により行いにはよらないことをここで明確に示しました。これが論理的結論なのです。

・「考える」→論理的結論として判断する。

3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。

 そして、ユダヤ人の異邦人を受け入れにくい心を予想して、神はユダヤ人だけの神でしょうかと問いました。神は、全ての人の神です。

3:30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。

 神が唯一なら、唯一の創り主がおられるだけで、その神が異邦人も信仰によって義と認めてくださるのです。

 二章からここまでは、自分を正しいとしているユダヤ人を念頭に語られてきました。義は、信仰によって与えられ、ユダヤ人と異邦人の差別はないということです。

3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。

 ここからは、信仰による義と律法の関係について論じられることになります。そして、この問いに対する答えは、八章に語られることになります。