ヨブ記31章

31:1 私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか。

 ヨブは、自分が正しい道を歩んできたことを再び語ります。神から裁きを受けるようなことをしていないことを示すためです。

 彼は、おとめに目を止めませんでした。目と契約を結び、決して目を留めないようにしたのです。契約という言葉を持ち出すことで、非常に強くそれを自分に戒めたことを表しています。

31:2 神が上から分けてくださる取り分は何か。全能者が高い所から下さる相続のものは。

 神が与える報いは何かと問いました。それを取り分と言っています。それは、その人のものとして永遠に相続させられるものです。

31:3 不正を働く者にはわざわいが、不法を行う者には災難が来るではないか。

 不正を働く者には、災いが来ます。不法を行う者には、災難が来ます。

31:4 神は私の道をご覧にならないだろうか。私の歩みをすべて数えておられないだろうか。

 神は、ヨブの道をご覧になっておられます。歩みの全てを数えておられます。

31:5 もし、私が偽りとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、

31:6 神は私を正しい秤で量られればよい。そうすれば神に私の誠実さが分かるだろう。

 彼が偽りを行い続け、欺きに急いだのであるならば、神が正しい秤で量れば良いといい、そのようなことは決してないことを証ししました。神が量るならば、ヨブの誠実さが分かるだろうと。

31:7 もし、私の歩みが道からそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手に汚れがついていたなら、

 彼は、自分の歩みが道から逸れていたとしたらと言いました。それは、後半に具体的に語られるように、自分の心が自分の目に従って歩むことであり、また、汚れた行いをすることです。

31:8 私が種を蒔いて、ほかの人が食べるがよい。私の作物は根こそぎにされるがよい。

 もし、そのようなことをしたのであれば、彼が種を蒔いたとしても他の人が食べればよいと言い、自分にはそのようなことは決してないことを示しました。また、自分の作物は、根こそぎにされるがよいとまで言いました。

31:9 もし、私の心が女に惑わされ、隣人の戸口で待ち伏せしたことがあったなら、

31:10 私の妻が他人のために粉をひいてもよい。また、他人が彼女と寝てもよい。

31:11 これは恥ずべき行い、裁判で罰せられるべき不義であるからだ。

31:12 実に、それは滅びの淵まで焼き尽くす火だ。私の収穫をことごとく根こそぎにする。

 また、彼が女に惑われて、その家の戸口で待ち伏せしたことがあるならばと言いました。隣人の戸口ということで、決してそのような不義を行ってはならないことを強調しています。それは、愛すべき隣人です。

 もしそのようなことをしたのであれば、自分の妻が他人のために粉を挽いてもよいと。それは、妻として仕えることを表しています。また、他人が彼女と寝てもよいと。彼は、それが恥ずべき罪であると承知していました。裁判で罰せられ、律法では、石打ちにされるべき罪です。

 もし、そのような罪を犯したのであれば、彼を滅びの淵まで焼き尽くします。たとい神を信じていたとしても、もはや彼は実を結ぶことができないのです。彼は、一生その証しを損なった者であるのです。その証しを回復することはできません。彼の収穫をことごとく根こそぎにします。これは、比喩で、彼の姦淫の罪が彼の収穫に影響することはありません。彼が神の前に実を結ぶことを台無しにすることを表しています。

31:13 もし、しもべや召使いの女が私と争ったとき、私が彼らの訴えを拒んだことがあるなら、

31:14 神が立たれるとき、私はどうすればよいか。また、神がお調べになるとき、何と答えたらよいか。

31:15 私を胎内で造られた方は、彼らをも造られたのではないか。同じ方が、私たちを母の胎内に形造られたのではないか。

 彼は、僕や召使の女が彼について争った(意見した)時、彼らの訴えを拒んだ事があるならば、神の前に立った時にどうすればよいかと言い、彼は、神の前に正しいことを求めて、彼らを拒まなかったことを表明しています。

 ヨブを造られた方は、彼らをも造られたのす。胎内で形造られたという表現で、大切なものとして造られたことを表しています。そのように、彼らも神の前には大切な存在なのです。

31:16 もし、私が弱い者たちの望みを退け、やもめの目を衰え果てさせ、

31:17 私一人だけでパンを食べ、みなしごにそれを食べさせなかったのなら、

31:18 ──実は私の幼いときから、弱い者は私を父のようにして育ち、私は生まれたときから、やもめを導いた──

 そして、やもめや孤児を顧みず、彼らを助けないならばと言いました。彼は、幼い時からそのような弱い者を助けて来ました。彼らからは、父と敬われて来たのです。生まれた時からやもめを導いたと言い、物心ついた時から、彼は、そのようにして来たのです。

31:19 あるいは、もし私が、着る物がなくて死にかかっている人や、身をおおう物を持たない貧しい人を見たとき、

31:20 その人の腰が私にあいさつをすることも、私の子羊の毛で彼が暖められることもなかったなら、

 着る物がなくて死にかかっている人、身を覆う物がない貧しい人、そのような人たちを見た時、その人が腰をかがめ彼を祝福する事がないならばと言いました。その人は、ヨブがそのような貧しい人を心に留め、必ず援助してくれることを知っていたので、まず彼を祝福したのです。

 そして、彼らの体を仔羊の毛で暖めました。子羊の毛は、親羊の毛よりも柔らかく温かい、ふんわりしていてチクチク感が少ない上等な物です。そのような物を与えたのです。貧しい者に与えるのだからと粗末な物を与えることはなかったのです。

31:21 あるいは、私が門のところに助け手を見て、みなしごに向かって手を振り上げたことがあったなら、

→「私が門で私の助けを見ていて、孤児に向かって手を上げたことがあったなら」

ヨブが、(孤児が)彼の助けを必要とするのを見ていて、孤児に向かって手を上げたことがあるなら。」

 彼が門のところに座っている時、孤児がヨブの助けを求めて来る(原語では、「私の助け」とだけ記されている。)のを見た時、その孤児に向かって手を上げるような事があれば、

31:22 私の肩の骨が肩から落ち、私の腕がつけ根から折れてもよい。

 ヨブの肩から骨が落ち、腕がつけねから折れてもよいと言いました。彼は、助けを求める者を必ず助けたのです。

31:23 神からのわざわいが私をおののかせ、その威力のゆえに、私は何もできないだろう。

 もし、弱い者を助けないならば、神が裁きをされ、災がヨブをおののかせ、彼は何もできないだろうと言いました。

31:24 もし、私が金を自分の頼みとし、黄金に向かって「私の拠り頼むもの」と言ったことがあるなら、

31:25 あるいは、私の富が多いことや、私の手が多くを得たことを喜んだことがあるなら、

 そして、もし、彼が富を頼りにし、あるいは、富が多いことや、多くを得たことを喜んだならば、

31:26 あるいは、日の光が輝くのを、月が照りながら動くのを見て、

31:27 ひそかに心を惑わされ、手で口づけを投げかけたことがあるなら、

 そして、日の光が輝くのを見、月の照りながら動くのを見て、魅せられて、口付けを投げかけたのであれば、

31:28 これもまた、裁判で罰せられるべき不義だ。私が、上なる神を否んだのだから。

 これは、裁判で罰せられるべき不義です。富により頼むことは、お金持ちならしてしまいがちですが、それは、神を頼らない、また神を拒む大きな罪です。また、日や月を神として愛することは、神を拒む罪です。口付けは、愛することを表現しています。

31:29 あるいは、私を憎む者が衰えたのを喜び、彼にわざわいが下ったことに心躍らせたことがあるだろうか。

 ヨブを憎む者が衰えたのを喜ぶだろうかと。人は、自分中心に物事を考えます。ですから、そのような人に災が下ったことに心躍らせるのです。

31:30 私は自分の口を罪に任せなかった。のろいの誓いで彼のいのちを求めたりして。

 彼は、彼を呪う誓いをたてて命を求めることをしませんでした。それは、罪です。

31:31 私の天幕の者たちはみな、こう言っているではないか。「あの方のパンに満腹しなかった者がいったいいるだろうか。」

 彼の天幕の者たちは、彼のパンに満腹しなかった者はないことを言っています。

31:32 寄留者は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けて開けている。

 彼は、寄留者のために通りに向けられた戸口を夜でも開けていました。寄留者がいつでも訪ね、外で夜を過ごさないためです。

 

31:33 あるいは私がアダムのように、自分の背きをおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあるだろうか。

 彼は、罪を覆い隠すことをしませんでした。胸の中に秘めることはしなかったのです。

31:34 私が群衆の騒ぎにおびえ、一族の蔑みにひるみ、黙っていて、門を出なかったことがあるだろうか。

 彼は、問題が起こった時、門から出てその解決に当たらなかったことはないのです。群衆の騒ぎが起こっても怯えず、あるいは、ヨブがそのような行動をとることを一族の者が蔑んだとしても、構いませんでした。

31:35 だれか、私の言うことを聞いてくれる者はいないものか。──ここに私の署名がある。全能者が私に答えてくださるように──私を訴える者が書いた告訴状があれば、

 彼は、彼の言うことを聞いてくれる者はないかと問いました。彼は、自分には、神が裁きを免れさせる印があると言いました。全能者としての神からの印です。それが答えです。それがあるので、告訴状があったとしても、堂々としていられます。

・「署名」→印。神の裁きを免れる印。ת、タウというヘブル後の文字。

31:36 私はそれを肩に担ぎ、冠のように、それをこの身に結び付け、

31:37 私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにしてこの方に近づきたい。

 むしろその告訴状を肩に担ぎ、冠のように身に結びつけ、全能者の前に出たいと言いました。その時、私の歩みの数をこの方に告げます。君主のように誇りをもってこの方に近づきたいと。

 彼に与えられている印は、彼の歩みです。それを全能者に全て告げることで、彼は、裁きを免れるのです。

・「君主」→司。イスラエルの王に関して、「君主」と呼ばれている。

31:38 もし、私の土地が私に向かって叫び、その畝がともに泣くことがあるなら、

31:39 あるいは私が金を払わずにその産物を食べ、その持ち主のいのちを失わせたことがあるなら、

31:40 小麦の代わりに茨が、大麦の代わりに雑草が生えるように。ヨブのことばは終わった。

 また、彼は、彼の土地が彼の不正のために叫ぶ時、それは、労働者に適正な賃金が払われないようなことですが、あるいは、他の人の産物を食べて、代金を払わず、そのためにその持ち主が死ぬことになるならば、自分の畑で、小麦の代わりに茨が、大麦の代わりに雑草が生えるようにと言い、そのようなことは、一切なかったことを示しました。

 ヨブの言葉は終わりました。