マタイ8章
8:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
「ツァラアト」は、ヘブル語の発音で、意味はらい病のこと。今日の医学的ならい病の定義とは整合しない点があります。しかし、他の語にも起こることであるが、原語と訳語の不整合は、あまり意味を持ちません。訳語は、必ずしも原語を正確に表現していない場合があるので、その語が聖書ではどのように定義されるかを聖書から解くことで正確な意味を知ることができます。それは、原語を辞書から学ぶ以外に、聖書全体で、その語が使われている箇所を全て当たり、理解する必要があります。
また、訳語の意味にだけ頼った理解は、誤りを引き起こしやすいのです。単語の原語での意味を理解して、訳語の意味を理解することは必要です。また、意訳している場合もあります。訳者の解釈が入っているのです。
このらい病人は、イエス様のもとにひれ伏しました。これは、礼拝の行為です。
主は、絶対的な所有権を行使する人を表す言葉です。「主よ。」と呼びかけたことは、主に自分のすべての所有権があることを認めたことであり、主人と服従する者の関係を表します。礼拝行為と合わせて考えるならば、人以上の所有権を行使する方として、神として崇めたのです。
「お心ひとつで」と言い、彼の病を癒すも癒やさないも、その主権は、イエス様にあることを認めたことを表しています。
「清くすることがおできになります。」と言うことで、主がらい病を癒やす権威を持っていることを言い表しています。
さらに彼の信仰は、「癒やす」という意味ではなく、「きよめる」という言葉を使いました。らい病は、神様によって汚れているとされました。それは、霊的な比喩によって人の汚れについて教えるためです。もっと本質的には、肉の現れによる汚れについて教えています。ですから、彼は、たしかに神の前に自分は、汚れているということをよく認識していたのです。普通の健康な生活をしていたならば、気付かなかったかもしれませんが、自分がらい病になったことで、単に病気の悩みを経験しただけでなく、汚れているということについて考えさせられたのです。自分は、らい病が表しているように、神の前には、きよい者ではないということを自覚したのです。それで、彼は、「きよめる」という言葉を使いました。それが神の前にふさわしいことです。
彼は、その僅かな振る舞いと言葉によって、主の権威をよく言い表しています。
8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
そして、それがイエス様の心に適ったことであるので、きよくなれと言われました。この人が、イエス様の権威を正しく告白したので、その信仰をご覧になられて応えられたのです。「お心一つで」と言ったことに応えて、イエス様の心一つで癒やされたのです。
この時、手を伸ばして彼に触られました。心一つで癒すことができるのですが、手を触れられたのです。らい廟者として人々から離れて生きてきたその人の心に触れられました。そのような憐れむ心によって癒されたのです。
8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」
イエス様は、彼を祭司のところへ行くように、また、モーセの命じた捧げ物をするように言われました。この人が清められたことを判定するのは祭司です。捧げ物をすることで、律法に基づいて清められた者となることができます。彼は、社会復帰できるのです。そのための配慮です。
8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
百人隊長は、懇願していますが、願いの内容は、すぐには言っていません。彼が、イエス様の権威を認めた人であることを考えると、直接的に言うことを控えていたのです。彼は、「主よ。」と言い表しています。はじめらかにその権威、また主権を認めています。
彼は、僕の様子を主の前に申し上げるにとどめました。
8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
イエス様の方から、行って治すことを申し出られました。
8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
彼は、主の権威を認めた時、その方に対する恐れがありました。それで、彼の屋根の下にお入れする資格がないと言い表したのです。
また、主の権威を知ったので、言葉だけで癒されるので、言葉をくださることを願いました。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
彼は、権威がどのようなものかをよく知っていました。彼は、ローマの百人隊長として上官の命令には絶対服従していたのです。また、彼の下の兵士も、彼に権威に従っています。完全に服従しているのです。彼らは、時として命の危険も顧みず従うのです。それが権威に従うことであることをよく知っていました。ですから、主の言葉に従わないものはないと信じたのです。天地の支配者としての権威を認めました。
8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
イエス様は、驚かれました。それは、イスラエルのうちの誰にもそのような信仰を見たことがなかったからです。異邦人である百人隊長は、人として来られたイエス様を天地の支配者と信じていたからです。
8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
この百人隊長のように、異邦人が信仰により御国でアブラハム、イサク、ヤコブのような信仰者と共に食卓与ることを預言されました。信仰のない御国の子らは、天の食卓という祝福から閉め出され、信仰によって神の言葉の光を受け入れなかったので、暗闇が与えられるのです。
この人たちが受ける報いは、救いの立場に言及していません。ここでは、画一的に、地獄に落ちるとは言えないのです。御国の子らが全て地獄に落ちるという話をしているのではないのです。光を受け入れないので、暗闇に入れられるということです。ある者は地獄に落ち、ある者は、報いを失うのです。
8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
イエス様のお言葉は、「あなたの信じた通りになるように」というものです。しもべが癒されたことで、この人の信仰が確かなものであることも明らかにされました。
8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
ペテロの姑に対しては、一方的に業をなしておられます。特に信仰に対して応えたことは記されていません。これは、主の主権と権威を示すものです。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。
また、悪霊に憑かれた人が大勢連れて来られました。彼ら自身の信仰にも触れられていません。ここにも、主の主権と権威が示されています。
8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」
マタイは、この二つの例をイザヤ書の預言の成就の例としてあげています。ですから、信仰に対する応答としての記事として記しません。主が、人の煩いと病を担ったことが預言の成就として実現したことを記しています。
8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
一人の律法学者は、イエス様にどこへでもついて行くことを表明しました。しかし、主は、彼に自分について来ることの困難さを伝えました。この人にとって、イエス様は、イエス様に「先生」と呼びかけているように、教えを賜る方として捉えていました。他の人たちは、「主」と言い表して従っています。次節には、「他の弟子」という表現が出てきます。ですから、彼は、弟子であったのです。しかし、彼には、イエス様を主と認め、服従して従って行く覚悟ができていないのです。それで、困難の中にも従う覚悟がああのかを問われたのです。
8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
別の一人の弟子は、まず行って父を葬ることを許していただくことを願いました。主のお答えは、彼の父一人のことについての答えではありませんでした。「彼ら自身の死人たち」と言われ、複数形になっています。「死人たち」とは、神の前に死んでいる人たちのことです。彼らには信仰がないのです。そのような人々に、彼らの死人たちすなわち、信仰を持っておらず、神の前に死んでいる人たちの面倒を見るようにさせなさいということです。葬ることは、最後まで面倒を見ることを表現しているのです。
8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
イエス様は、大波を被っても寝ておられました。弟子の訓練のためです。すぐには何かをされないのです。
8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
弟子たちの発言は、イエス様の指摘によれば、「信仰の薄い」ことによります。まず、彼らは、イエス様を「主よ。」と呼んでいます。しかし、この方の力を限定的に考えています。彼らは、嵐が主によって沈められるということは考えていませんでした。それでも主に助けを求めたのは、彼らが死なないための何かをしてくださるという期待です。
また、彼らを殺すことが主の目的であるはずかないとは考えなかったのです。全てが神の手のうちにあることであり、この嵐も神の主権によって与えられていることを認めるならば、主がそのことに対して何をされて栄光を現されるかを待つべきでした。
さらに言うならば、彼らが死ぬことになるにしても、それが主の御心であるならば、それを受け入れることができるのです。
8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
弟子たちは、イエス様の権威について知ってはいませんでした。主と言い表して従っていましたが、天地創造の神とは、考えていませんでした。
8:28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
8:29 すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」
二人の悪霊に憑かれた人たちは、イエス様を迎えました。イエス様を神の子と知っており、ここに来た目的を知りたかったのです。彼らは、まだ、彼らが裁きを受け苦しみを受けるときではないはずだと考えていました。彼らは、自分たちが神からどのように裁かれるかも知っていたのです。
8:30 そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。
8:31 悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言った。
彼らは、イエス様がしようとしていることまで知っていました。自分たちを追い出そうとしていることです。
8:32 イエスは彼らに「行け」と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。
イエス様は、彼らの願い通りにされした。しかし、豚は、湖で溺れ死にました。それは、悪霊が初めから計画したことです。主は、それを許されました。その町の人たちが豚を飼育していたことは、汚れた動物を食べることにつながります。食べるのでなければ、飼育の意味がありません。そのような豚が死ぬことは、汚れから清められるためには、ふさわしいことです。
8:33 飼っていた人たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせた。
8:34 すると見よ、町中の人がイエスに会いに出て来た。そして、イエスを見ると、その地方から立ち去ってほしいと懇願した。
町の人たちは、イエス様の権威を見ました。その力を見たのです。しかし、イエス様を受け入れることはありませんでした。イエス様の存在は、不都合であったのです。もはや豚を飼うことはできないでしょう。それは、律法に適わないことです。しかし、彼らは自分たちの経済活動が邪魔されることを嫌いました。神から遣わされた方を見ながら、この世のことを大事にし、その方を受け入れることがなかったのです。彼らは、永遠の祝福を逃しました。