テモテ第一
1:1 私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、
1:2 信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。
パウロの使徒としての務めは、神とキリスト・イエスの命令によりました。その神については、「私たちの救い主」と表現しています。神は、救いを目的として、パウロに使徒の務めを委ねたのです。この救いは、御国で報いを受けることを指しています。永遠の滅びに入らないことだけを意味しているのではません。
「私たちの望みであるキリスト・イエス」と記されていて、使徒としての務めは、キリスト・イエスにある望みに関して与えられた務めであることを示しています。その望みとは、私たちの体が贖われ、完全なものとされることであり、義とされ、永遠の報いを受けることです。
この「恵み」は、「救い」と「望み」に関係していて、私たちが永遠の報いを受けることです。それは、信仰によって受け取ることができます。祈りの言葉として「恵みがあるように」と記したのは、彼が信仰によってそれを受け取り、それが実現することを祈ったのです。
そして、「あわれみ」は、「契約に対する忠誠」を意味し、神が契約を果たされることを表しています。神の契約の実現としてそのことが行われるのです。それは、契約の実現であり、信者の責任が伴うものです。御言葉の内を生きることで、その契約が果たされるのです。ここには、神の契約の実現を祈るとともに、信者がみことばの内を歩むことが祈られています。
そして、「平安」と訳されていますが、「完全さ」のことです。契約の実現は、当事者が完全であることによって徹底して果たされます。ある程度御心を行うことを求めてはいません。完全さが求められています。それこそ、大いなる祝福を受け継ぐからです。
・「恵み」→祝福として備えられたものを信仰によって受け取ることで実現する。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠。
・「平安」→完全さ。
1:3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、
1:4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。
神の御心を行うためには、健全な教えが必要です。しかし、そのことに反する状況がありました。健全な教えを損なう働きがあったのです。
違った教えを説く者がありました。それをしないように命じるように求められています。
・「違った教えを説く」
聖書の言葉の意味していることをそのまま伝えるのではなく、間違った教えを説くのです。原因は、いくつが考えられます。故意に間違った教えを説くことは考えられません。正しい教えを知っていれば、それに反することを教えようとはしないはずです。ですから、根本的には、聖書の教えを正しく知らないのです。
そのような状態の人に起こることとして、聖書を正しく解釈できないことがあります。聖書全体の教えに整合していない場合があります。特定の部分からだけの解釈によるからです。
また、文脈を無視している解釈があります。これは、頻繁に見られることです。聖書の他の箇所での解釈を適用して解釈することがよく行われるのですが、その箇所に語られていることは、似てはいるが、文脈からは全く違うというような場合があるのです。
使用されている語彙を聖書の記述から意味を取るのではなく、その語の一般的な意味から解釈することによる場合があります。
また、日本語訳が既に適切な訳になっていない場合があります。このような場合は、多くの人にとってその正しい意味を知ることは困難です。
また、推測を入れて解釈する場合もあります。推測は、聖書に根拠がないのですから非常に危険です。
・「果てしない作り話に心を寄せたりしないように」
聖書から離れた作り話であるならば、多くの人には作り話とわかるでしょう。しかし、これは、書いてないことをもっともらしく作って話すのです。意図的というよりも、拡大解釈、想像で作るのです。
これは、聖書の解釈の誤りに通じていますが、自分の解釈をさらに膨らませるような場合です。特に、比喩や、預言の解釈において、その意味を正しく把握できていなのです。比喩について言うならば、聖書の比喩は、非常に緻密で、正確に解釈できるものです。少し内容が似ているからということで、二つの事柄を結びつけるようなことをしてはいけません。また、一つの比喩について聖書全体に適用して矛盾がないかどうか、最低限確認しておく必要があります。
・「系図に心を寄せたりしないように」
系図は、その人の出自を明らかにしますが、肉に関することで、霊的には、なんの価値もありません。それらは、ちりあくたです。
ピリピ
3:2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。
3:3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。
3:4 ただし、私には、肉においても頼れるところがあります。ほかのだれかが肉に頼れると思うなら、私はそれ以上です。
3:5 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。
3:7 しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
3:9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。
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犬どもについては、未信者ということではなく、信者でありながら肉を誇る人々のことです。彼らは、系図を誇るような働き人です。
本筋に戻り、これらは、議論を引き起こすだけです。役に立たないのです。むしろ争いを巻き起こします。自分が良いと思っていることが実は誤りであることを知ったならば、それを認めることは幸いですが、多くは、議論を引き起こすのです。自分は正しいと主張し続けるからです。そのような人を説得しようとしても無理です。議論を避けるほうが幸いです。
テモテ第二
2:23 愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。
2:24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、
2:25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。
2:26 悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。
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反対する人たちに対して、柔和に教え導くのです。
1:5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。
この命令すなわち間違った教えではなく、正しい教えがされるようにする命令が目指していることは、きよい心です。混じり気がないという意味です。心は、御言葉を受け入れる部分です。そこに混じり気がないことは、御言葉を純粋に受け入れることを表しています。
そして、健全な良心です。良心は、その人の持つ教えです。それは、行動の基準になります。その人の持つ善悪の基準になるのです。それが健全であることは、その人の持つ教えが、神の教えに整合しているということです。
偽りのない信仰は、正しい教えを正しく信じることです。
それらがもたらすものは愛です。神の教えを混じり気なく、正しく受け入れることにより、そこから出てくる愛を目標としています。それは、神に対する愛であり、人に対する愛です。愛は、御言葉の実践として現れるのです。イエス様の命令を守ることは、イエス様を愛することであり、その命令とは、兄弟を愛することです。
1:6 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、
1:7 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。
ある人たちとは、聖書の教えをなす人たちの中のある人たちのことです。ある人たちは、正しい教えから出てくる愛を目標とすることを見失いました。彼らは、虚しい議論に迷い込みました。その理由は、彼らが話していることについて、彼らは確信を持っており、それを主張していたのですが、残念なことに律法の言葉を正しく理解していなかったのです。
彼らは、律法の教師であることを望みました。ですから、皆に正しく律法を教えたいという願いからその働きをしていたのです。しかし、それが却って厄介なのです。自分は、正しい良いことをしていると考えているし、教えていることも正しいと確信しているのです。ですから、人に話すのです。そのような人を止め、また正すことは、非常に難しいことです。しかし、彼らの教えによる影響は大きいのです。
私たちは、良い動機で御言葉の奉仕に与っていると思います。しかし、問題は、その教えが正しいものであるかどうかです。御言葉をよく理解しないまま語ることは非常に危険です。簡単な単純なことならば、語れると思っても、そのようなものは、基本的な教えが多いのですが、そのような教えに誤りが入るならば、信仰の根幹を揺るがすことになるのです。むしろ、難解な枝葉末梢の教えについて語るほうが害が少ないでしょう。御言葉を取り次ぐ者は、御言葉を正しく理解している必要があるのです。
1:8 私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。
彼らの教えは、律法の適用に間違いがありました。彼らは、律法が今日の新約の福音の立場から、どのような位置づけにあるかを理解していませんでした。律法の適用の仕方を間違っていたのです。
パウロは、律法は、その位置づけについて知っていて、適切に用いるならば良いものであることを示しました。
1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
・「俗悪な」→信仰から離れて神に近づくため、神に近づく(知る)のにふさわしくない。形容詞。
1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、嘘をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。
律法は、具体的な罪の行為が行われた時に適用するのです。十節には、「健全な教えに反する行為のためにある」と記されています。実際、律法は、体に関する規定なのです。もちろん霊的であり、今日の健全な信者も神様の御心をそこから学ぶことができますが、直接的には、行いに関する規定です。犯罪が侵されたならば、律法に従って裁くことになります。
1:11 祝福に満ちた神の、栄光の福音によれば、そうなのであって、私はその福音を委ねられたのです。
パウロは、そのような判断を下した基準となる福音について、栄光の福音と言い表しています。それは、神の福音です。しかも、祝福に満ちた神であり、豊かな祝福をもたらすために与えた福音です。その福音こそ価値があることを示し、律法によって人を惑わすような教えをしていることの愚かさと対比しています。彼らの教えていることは、なんの祝福ももたらさないのです。これが正しくない教えのもたらす結果なのです。どんなに良い動機で、熱心に働いたとしても、教え自体が正しい御言葉の理解に基づかないならば、益がないのです。いや害になるのです。
そして、パウロは。その福音を委ねられたことを証ししました。神によって委ねられたからこそ、彼は、権威をもって正すことができるのです。手紙の冒頭に神とキリスト・イエスの命令によって使徒となったことを記したのもそのためです。
1:12 私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。
「私を強くしてくださる」は、「能力を与える。権限を与える。」ことです。ここでは、文の後半から分かるように、使徒としての務めに任命されたことを指しています。彼の体力や彼の心が強くされたということではありません。これも、彼がこの命令を与える根拠について示しているのです。これは、神が忠実な者と認め、この務めに任命されたのです。人が口を挟むことはできないことを示しているのです。
1:13 私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
そして、彼は、以前は迫害者であったことについて触れ、そのような者であったが、今の自分になった経緯を示し、決して非難されるような者ではないことを示しました。
たしかに彼は、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、その罪は、信仰を持ってからのことではなく、信じていない時に知らないでしたことでした。それで、信仰を持った時に赦されたのです。
信仰による罪の赦しを受けたのです。ここで、「あわれみ」という語を用いたのは、神に対しては、ひどい罪人でしたが、完全に赦され、さらに大きな務めに任じられたからです。その契約は、徹底的に果たされたのです。
・「あわれみ」→「契約に対する忠誠」
1:14 私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。
彼は、ひどい罪を赦され、信仰により。御心に適う歩みを通して大いなる報いをいただくことができるのです。さらに使徒としての役割を与えられ、その務めを果たすことができることが「恵み」です。
「恵み」は、主が祝福のために予め備えたものです。しかし、これを獲得するのは無条件ではありません。信仰と愛によります。まず、信仰によって受け取ることができます。また、愛によって受けることができます。愛は、御言葉の実践です。御言葉に基づいて愛を現すならば、そのことに対する報いを受け、永遠の祝福を受け継ぐのです。それは、満ち溢れるのです。
御言葉を信じない。また、御言葉を行わず愛を現さないならば、恵みを受けることはありません。
1:15 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
そして、彼は、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉を引用しましたが、それは、まさに彼に実現したことであるのです。ひどい罪人を救うために来られたことは、パウロに実現したのです。罪人の頭のような者に実現したのです。
パウロは、自分を罪深い者とずっと考えていたということではありません。自分は、教会を迫害するような大きな罪を犯した事実に基づいて、自分が罪人のかしらであると言っているのです。
キリストの救いの偉大さを示すために、パウロの実例を示したので、自分が罪人のかしらであると言い表しました。
なお、これに似た言葉が三回記されていて、パウロの謙りが深まったと言われることがありますが、当たりません。それぞれの箇所で、文脈に従って、記されているのであり、文脈を無視して考えるのは適切ではありません。
コリント第一
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
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これは、使徒として復活の証人であるという前提に立って記されています。最も小さい者であるが、復活の証人であることを示し、復活に対する教えの誤りを正しているのです。
エペソ
3:7 私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。
3:8 すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、
3:9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。
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エペソの教会に対しては、使徒であることを言う必要はありませんでした。彼の権威を認めていたからです。そして、福音に仕えることができるのは、聖徒です。罪人が福音に仕えることはできません。それで、聖徒の中で最も小さいと証ししたのです。
1:16 しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。
十三節に続いて、もう一度「あわれみを受けた」と記しています。ひどい罪人が主の寛容によって、永遠の命を受けるようになったからです。その「永遠の命」は、単に救いの立場をいただくことだけでなく、「信仰と愛とともに満ち溢れ」と記されていたように、罪赦されて救いの立場を持ち、御言葉に従って生きることで報いを受けることを指しいます。
罪人のかしらが大いなる恵みを受けたのです。それは、後から救われる人の先例となるためです。
1:17 どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
「世々の」は、朽ちることがないことに対応しています。永遠の栄光を持たれる。その方の前に栄光を求めるべきであることが示唆されています。
「王」は、目に見えない唯一の神。すなわち、支配者に対応しています。目に見えないが唯一の支配者です。誰もその主権を侵すことができない。
この恵みをもたらされたのは、その唯一の神の誉れと栄光のためです。ですから、そのことを覚えて賛美したのです。
1:18 私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言にしたがって、私はあなたにこの命令を委ねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と健全な良心を保ち、立派に戦い抜くためです。
彼の役割については、預言によって神様から示されていました。パウロの命令もそれに沿ったものです。健全な教えがなされるために仕えるのです。
それは、彼が預言のとおりに行動するためです。パウロの委ねた命令は、信仰を保ち、健全な良心を保つために必要であり、彼が御心に適った務めを成し遂げるために必要です。
1:19 ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。
健全な良心を捨てると破船に会います。その人の持つ教えが神の真理に整合していないからです。
1:20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒涜してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。
ヒメナイとアレキサンドロは、その良心が神の真理に整合しいないので、間違った教えをなし、また行動しました。しかし、それは、深刻な問題であって、彼らは結果として神を冒涜したのです。そのために、教会の交わりから外しました。彼が学ぶためです。健全になって立ち返るためです。
■キリスト・イエスにある望みについて
ローマ
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
→体の贖い。完全なものに変えられる。
ガラテヤ
5:5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。
→律法によって義と認められることでなく、信仰により、御霊によって義とされること。これは、肉体にある歩みで実現すること。その評価は、キリストの裁きの座で受ける。それで、望みと記されている。御霊による行い以外、義とされない。
テトス
1:2 それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。
2:13 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
3:7 それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
→永遠の命の望み。御国で報いを受けること。それを受け継ぐことが相続人となること。
ペテロ第一
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:13 ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
→キリストが現れるときに与えられ行いに対する報いである永遠の資産を受けること。