コリント第一

1:1 神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、

1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。

 パウロは、自分が使徒であると名乗りました。この手紙の権威を明確にするためです。すなわち、手紙に記すことは、神からの権威に基づいて記しいることを示すためです。そして、兄弟ソステネの名を記したのは、証人としてです。パウロ一人の考えではないことを示すためです。

 コリントの教会を「神の教会」と記したのは、手紙の内容と深く関係していて、教会が人間的な誇り、罪の汚れ、あるいは、秩序の乱れなど敬虔に相応しくない状態があったのです。この手紙は、それを矯正するためのものです。そして、初めにこの言葉を記しました。教会は、人のものではなく、神のものであることを強調するためです。

 なお、この記述を真似て、教会に宛てた手紙に、宛名に「神の教会へ」と記すことは、慎重に行うべきです。教会に対してこのように記した場合、その教会が肉的なので神の教会であることを教えるために記したと誤解されます。

 また、自らの教会を「神の教会」と差出人として記した場合、その教会は、神のものであるということを誇る意味になります。

 次に、主イエス・キリストの御名を呼び求めていることを記しました。イエス・キリストを主として告白し、その名を呼び求めてこの方の権威のもとに主に服従する者であることを表しています。

 キリスト・イエスにあって、聖なる者とされました。そして、聖徒とされたのです。聖徒は、彼らの聖さを強調しています。聖徒として召されたことは、聖くなるためにめされたのです。

 主は、そのように御名を呼び求める人全ての主です。そして、パウロたちにとって主です。主であることを繰り返し、彼らが従うべき方であることを強調しました。

1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。

 恵みは、信仰に応える神の好意です。信仰によって獲得できます。また、完全であることは、彼らが神の御心行い、御心に適った者に変えられることを表しています。それが福音の目的であり、それが永遠の命を最大限に獲得することであるからです。

・「平安」→御心を行うことによってもたらされる完全さ。

1:4 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。

 コリントの人々には、神の恵みが与えられていました。

1:5 あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。

1:6 キリストについての証しが、あなたがたの中で確かなものとなったからです。

 その恵みが豊かになっているとする理由をここに記しました。コリントの信者は、キリストの証しが確かなものとされました。これは、言葉による証言のことではありせん。彼らがキリストによって歩んでいるという歩みのことです。五節と六節を結ぶ接続詞は、「~と同じように」という意味です。もし、両者が言葉に関する事であるならば、このような接続詞で繋ぐことはありません。

 そのように、キリストの証しが確かなものとなることで、彼らの言葉、知識も豊かにされるのです。

 もし、私たちが御言葉を理解し、知りたいと願うならば、キリストがそうであられたように、神の御心のうちだけを歩む者になることです。そうすれば、知識が豊かになります。そして、確かな正しい身についた知識は、他の人を励ますことができます。良い言葉を語ることができるのです。

・「キリストについての証し」→キリストの証し。それは、彼らがキリストによって歩んでいるという証しです。

・→「キリストの証があなた方の中で確かなものとなったのと同じように、あなた方は、全ての点で、あらゆる言葉とあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました。」

・「証し」→証拠となるもの。証言。

1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待ち望むようになっています。

1:8 主はあなたがたを最後まで堅く保って、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところがない者としてくださいます。

 その結果、彼らがどんな賜物にも欠けない者とされたのです。賜物は、ここでは、報いを受けることを指しています。キリストの現れを待ち望んでいることが並行して記されていますが、喜んでキリストを迎える状態にあるからです。キリストから裁きを受けるとき、大いなる報いを受けることになるからです。

 そのことは、八節に記されているように、報いを受けるに相応しい状態を、主が保ってくださることを記すことで励ましています。私たちが責められることがないように保ってくださるのです。私たちが、キリストを現す者として、完全な状態に保ってくださることで、責められることがない者とされるのです。彼の最初の祈りは、報いとしての恵みを豊かに受けること、そして、その実現のために完全な者となることを願ったのです。

・「賜物」→神から与えられるもの。奇跡を行う力のことだけを指していない。

1:9 神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。

 はじめに神が真実であることを証ししたのは、そのことを確実に間違いなく実現してくださる方であることを示したのです。そして、その実現は、私たちが、神の御心を行うことに関して私たちの主イエス・キリストと一つのものとされたことによって確かなこととされています。キトストが私たちのうちに住まわれて、キリストの業を行い、私たちをキリストと同じ者に変えるようにされたからです。それは、神が信仰に応えて実現してくださることです。それは、また、御霊の働きでもあります。

エペソ

3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。

3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

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 これは、神の業としてなされ、御霊の働きによってなされ、内住されるキリストによって実現することです。

・「交わり」→交わりの基礎として共有されるもの。交わりそのものではなく、交わりの基礎にあるものです。信者に関しては、神の御心の実現の共有です。

1:10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。

 キリストの名によって勧めることは、この勧めがキリストの権威に基づいたものであることを示し、強い勧めになっています。それは、彼らが神の前に立つときに、良い評価を受けるためです。

 「語ることを一つにし」とは、議論において同じ結論に至ることです。異なる意見があったにしても、同じ結論に至るのです。例えば、教会の行動を決定する監督たちが、異なる考えのままに行動したら、教会に不一致が生じるのです。得た結論には、全ての人が従うべきなのです。なお、これは、同じことを話すことではありません。そのようなことはあり得ないし、意味のないことです。 

 教会の中で分裂しないのです。

 神の御心を受け入れることにおいて、同じになるのです。神の御心を受け入れるのに、それぞれが異なった受け止めをしていたならば、決して相手の考えを受けいることができません。自分が神の御心であるとしている事柄を自分で否定することは困難であるからです。今日、聖書が完成していても、解釈が異なると、違った考えを持つことになります。そして、それは行動となって現れます。ですから、御言葉を正しく理解し、受け入れることが必要です。教会が神の御心に適って行動するためには、それぞれの聖書研究は、非常に大事なものとなります。一人の人の解釈を鵜呑みにするのであれば、分裂は生じませんが、その解釈が正しいものでなければ、共倒れになります。神の目に適うかどうかが問題です。

 考えと訳されている語は、判断です。その人の持つ知識に基づく判断です。その人の知識は、神の御心に整合していることが求められています。神の言葉を受け入れることにおいて、同じものを受け入れる必要がありますし、それぞれのうちに持つ考えがその神の言葉すなわち神の正しい御心に整合し、それに基づいて判断することが必要なのです。そのようにして、皆、同じ神の御心に適った判断ができるのです。

・「お願いします」→励ます。勧める。神の法廷に立つ証拠を提供すること。

・「語ることを一つにし」→(議論が)同じ結論に至る。

・「心」→信仰により神の御心を受け入れる器官。 

・「考え」→身についている知識。意見や、判断。

1:11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。

 パウロの勧めは、コリントの教会に争いがあったのを聞いたからです。そして、その情報源も示しました。

1:12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。

 その争いは、彼らが誰につくかということを言うことで生じていました。このように言うことは、自分自身の権威づけのためであり、自分の人前での評価を高くすることを目的としています。より優れた人につくことで、自分の評価が上がることを求めているのです。キリストにつくことも、最も権威ある方につくことを表明することで、自分の評価が高まることを求めています。純粋にキリストに服従することを求めているのではないのです。もし、求めているとすれば、決して自分を現すことはないし、そのようなことを表明することはないのです。

 このようなことは、今日でも起こることで、表立って表明することはないにしても、教会の中の力ある人に擦り寄るようなことをするのです。神の働き人を尊敬することは幸いなことですが、自分の名誉を考える悪い動機があるならば、捨てるべきです。人は、神からの栄誉ではなく、人からの栄誉を求めようとするものです。

 人が肉に死んで、御霊によって歩み、神の御心を行う者となることこそ価値あることであり、それに反する問題が生じていたのです。

1:13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

 このことを言うのは、彼らの思いがキリストから離れているからです。彼らは、キリストにつくと言いましたが、キリストを彼らの所有物のように考えているのです。私たちは、キリストに服従すべき者であるのです。

 パウロにつくと言いましたが、パウロが彼らにとっての主であるのかと問うているのです。彼らが誰かを祭り上げたとしても、そのような人間にどれほどの価値があるのでしょうか。キリストに勝る価値があるのでしょうか。彼らのために十字架にかけられたのは、彼らが尊んでいるその人でしょうか。彼らは、そのキリストの愛に応えて、信仰によりキリストに従うべきなのです。

 そして、バプテスマは、彼らがつくと言ったその人の名によるのでしょうか。彼らは、キリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた者として、新しい歩みを始めたのではないでしょうか。彼らが尊ぶ人の名によるのではないのです。

1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。

1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。

1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。

 パウロは、わずかな人を除いてバプテスマを授けませんでした。パウロの名によってバプテスマを受けたとはいうことはできません。

1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

 パウロがキリストから遣わされた目的は、バプテスマを授けさせるためではありません。福音を伝えるためで、しかも、言葉の知恵によらないで伝えるためです。それは、十字架が虚しくならないためです。言葉の知恵によって伝えられた場合、人の説得力により信じることになります。しかし、人を変え、キリストと同じものにする力は、十字架にあります。それは、キリストの愛を示し、愛によって働く信仰により、御霊によって実現することです。また、十字架は、キリスト共に死ぬことを表し、新しく生まれた者としての歩みのはじめの大事な要素です。

ガラテヤ

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

5:6 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

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・「福音」→神の言葉のすべてを含む。未信者のためのいわゆる福音だけではない。信者のために語られる言葉も福音と記されています。

・「言葉の知恵」→言葉の知恵は、神の知恵ではなく、人が用いる言葉に関するもので、明晰さをもって用いる能力。単に「知恵」であるなら、神の御心や計画を信仰によって受け入れ、またそれを用いる分別。その受け入れた知識を語ることも知恵による。

1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

 十字架の言葉は、キリスト共に死ぬことです。しかし、滅びる人たちすなわち神の言葉に従って生きようとしない、肉による人たちにとって、それは愚かなのです。肉を殺すことを嫌い、あるいは、できないと考えて容認していて、肉を殺すことができないのです。

 しかし、救われる私たちすなわち、神の御心に従いキリストと共に死に、新しく生まれた者として生きる人にとっては、十字架は、神の力です。神の力は、信仰に応えて働きます。そして、聖霊の働きによって御心を行う者となるのですが、十字架によって示された愛によって、その信仰は働くのです。

ピリピ

3:17 兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

3:18 というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

3:19 その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

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 十字架が取り上げられる時は、その愛を示すことと、肉を捨てることに関連して取り上げられています。ここでは、十字架の敵と記されているのは、信者であって、肉に従う人のことです。最後の滅びは、キリストの裁きの時に報いがないことを表しています。キリストの目的は、信者を御国の相続者とすることです。御国に入ることは、いわゆる救いの立場を持つことではなく、御国で報いを受けることを指しています。

ペテロ第二

1:8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。

1:9 これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。

1:10 ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。

1:11 このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。

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 御国に入る恵みを豊かに与えられるのは、敬虔な信者に対してです。

1:19 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。

 それは、神様が知恵ある者の知恵を滅ぼされ、悟りのある者の悟りを消し去られると記されているからです。神は、それらを滅ぼされます。何の価値もないのです。人の間では崇められるかもしれませんが、私たちが求めるべきものではありません。誰が価値のないと分かっているものを追求するでしょうか。

1:20 知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

 知恵のある者は、具体的には、学者、この世の論客です。そのような人たちがどこにいますかと問い、いないことを示しました。この世の知恵を神が愚かなものにされたのではないですかと。

1:21 神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。

 この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によります。それで、神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救った(アオリスト)ことを良しとされました(アオリスト)。宣教の言葉の愚かさとは、十字架につけられたキリストを述べ伝えるからです。ユダヤ人にとっては躓き、ギリシア人にとっては、愚かであるからです。

 なお、これは、述べ伝える人の技量が乏しく、語る言葉が愚かであるという意味ではありません。言葉が正しく、分かるように語られなければ、信じることはできません。

1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、

1:24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

 ユダヤ人は、しるしを要求します。それは、イエス様のご在世当時にもよく見られました。しかし、実際、彼らは、しるしを見ても信じなかったのです。

 ギリシア人は、知恵を追求します。それは、ギリシア哲学に代表されます。しかし、パウロたちが宣べ伝えたのは、十字架につけられたキリストです。

 しるしを要求するユダヤ人にとって、神が十字架に死ぬことは受け入れ難いことです。偉大な神の力の現れとは真逆のことです。

 知恵を追求するギリシア人のように、異邦人にとっては、人による思索によって真理を追求し、その中に生きることを目指しますが、福音のように信仰によって、神の力によってそれが実現することは、人の力が一切介入しないのであり、理解し難いことです。

 そのユダヤ人にしろギリシア人にしろ、十字架につけられたキリストは、召された者にとっては、神の力であり神の知恵であるキリストです。十字架につけられたキリストにより人を神のように変えることは、神の知恵であり、神の力によることです。

1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 神の愚かさとは、人の目に愚かに見えることを指していて、それは、人の考えを遥かに凌ぐ賢さによるのです。そして、神の弱さとは、イエス様が十字架にかけられたことを指していて、それはユダヤ人には躓きです。しかし、人の目に弱いように見えても、その業を通して、人を変えることができるのです。その力は偉大です。

1:26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

 コリントの人たちに理解しやすいように、身近な社会の事柄を取り上げました。それは、彼らの召しのことです。人間的に見て、力ある者、身分の高い者も多くはないのです。それは、神様がそうされたのです。知恵ある者を恥入らせるためにこの世の愚かな者を選ばれました。強い者を恥じ入らせるためにこの世の弱い者を選ばれたのです。ただし、これは、多くはなくという表現に表されているように、そのような傾向にあることを示しています。

1:28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

 あるものをないものにするために、この世では無に等しい者を選ばれたのです。

1:29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。

 それは、肉なる者すなわち、肉に従って行動する者が誰も神の前で誇ることがないようにするためです。

 神の知恵と力が優れていることを社会の出来事に適用して教えています。それは、コリントの教会では、人間的な誇りを現す人がいたからです。

1:30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。

 キリストは、義と、聖と、贖いです。義は、キリストの贖いにより、神がキリストをよみがえらせたと信じることで義とされることです。聖は、御心を行うことで聖とされることです。贖いは、肉に死に、キリストと共によみがえらされた者としての歩みをすることであり、聖霊による歩みです。そして、将来体も贖われます。これが神からの知恵です。それは、私たちが神の御心を行うことでもたらされる完全さを獲得することです。それを実現するのは、キリストです。

1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 それで、もはや肉はないのです。キリストがそれを実現されるので、キリストを誇るのです。