エペソ2章

2:1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、

 あなた方と言われている異邦人であるエペソ人が背きの中に死んでいたことは、五節の「救われている」ことと対比されています。五節で詳説しますが、救われているというのは、単に永遠の滅びから救われたこといわゆる救いの立場をもつことだけではありません。対比されている「生きる」ことは、キリストによって生きることを表していて、信仰による歩みのことです。

 死んでいることは、それと対比されていて、キリストによって生きている者でないことを表していて、キリストを信じていないことも含まれます。

2:2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

 そして、空中の権威を持つ支配者である悪魔に従っていました。それについては、「霊」と表現されていますが、人が受け入れている教えをもたらす者として霊なのです。霊は教えをもたらす者であり、教えを受け入れる者を指しています。

2:3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 「私たち」と言われているユダヤ人は、神を知らされ、神を信じてきた者たちですが、御怒りを受けるべき者であったのです。その理由は、不従順の子らである異邦人中にあって、肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ってきたからです。彼らは、神の言葉も、契約もありながら、その祝福に与ることがなかったのです。彼らは、異邦人と同じように、御怒りを受けるべき子らなのです。

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

 神は、契約を忠誠をもって徹底的に果たされ、祝福を与えられました。それは、大きな愛によってなされたことです。

・「あわれみ」→契約に対する忠誠。名詞。旧約聖書で主に「恵みH2617」と訳される語をギリシア語に訳したもの。

2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

 その祝福とは、私たちと言われているユダヤ人が、肉の欲の中に生きていて、神様に背いて死んでいたものを、キリストと共に生かしてくださったことです。これは、キリストがよみがえられたように、信じた者たちが新しく生まれた者として御霊によって歩むようになり、神の前に生きた歩みをする者となったことです。死んだ行いではなく、神の前に実を結ぶ者になったことです。

 そして、あなた方と言われている異邦人については、「救われる」と言いました。訳のように過去形ではありません。この救いは、御国で報いを受けることを指していて、報いを受けるようになることを言っています。そのようなことは、恵みによるのです。神様が備えた祝福です。これは、信仰によって獲得できます。信仰により、新しく生まれた者としてキリストと共に歩むことに対して、御国で報いを受けることです。これは、神の「あわれみ」すなわち契約によることです。大きな愛によって、その契約を徹底期に果たし、大いなる報いを相続させるのです。

・「救われたのは」→救われるのは。動詞は、現在形。受動態で、救うは、完了分詞、動詞アイミは、現在形です。

2:6 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

 よみがえらせたことは、過去のことです。これは、キリストと共に死に、新しく生まれさせたことを指しています。御霊によって歩む者にしたことです。

 天上に座らせたことも過去形ですが、御霊を与えたことは、天上に座らせることを保証しているからです。

・「よみがえらせ」「座らせて」→アオリスト。単純過去。

2:7 それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。

 これをなさったのは、来るべき世々にその恵みを示すためです。神の栄光のためです。それは、限りなく豊かなものとして示すためです。ですから、神はそのために全能の力を働かされるのです。それは、優れた、偉大な力です。

・「慈愛」→私たちの必要にぴったり合う神の親切、善。実用的な親切。

2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

 救われたという過去のことを言っているのではなく、その救いは、今も続いています。信仰によって歩むことで、報いを受ける者とされることです。私たちの内から出た義の業によるのではないのです。信仰による業です。その信仰も神から出た賜物です。

・「救われた」→救われます。現在形。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 私たちから出た行いによるのではないのです。信仰によるのです。それは、御霊が私たちのうちにあって、御心に適うことを行なわれることを信じることです。それに応えて、御霊は働いてくださいます。三章では、信仰によりキリストが私たちの心に住まわれることが記されています。私たちのうちに住まわれるキリストによる業です。

 行いによらないのは、誰も誇ることがないためです。

2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

 救いは、御国において報いを受けることです。その働きは、今も続いています。その報いを受けるためには、信仰によることが、八節に「信仰によって救われるのです」と示されています。前節には、行いによるのではないと示されていますが、本節では、良い行いをするために造られていることが記されています。前節の行いは、信仰抜きの行いです。内住のキリストが業をなさることを信じることが、ここで言う信仰です。自分の努力で良い行いをしようとすることも、信仰にはよらない行いです。

 本節での行いは、キリストがなす業としての行いです。良い行いをする機会を備え、キリストの働きとしてそれを行うのです。その行いは、あらかじめ備えてくださったものです。私たちから出たことではなく、神が備えてくださいました。信仰によってそれを行うことによってキリストの栄光が現され、父に栄光が帰せられます。また、信者は、その行いに応じて報いを受けることになります。言わばただの器にすぎないものですが、神の栄光を現す作品として栄光を与えられるのです。

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、

2:12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

 異邦人は、イスラエルとの間に結ばれた契約に関しては他国人で、キリトスから遠くはなれていました。しかし、今は、キリストから遠くはなれていた者が近い者とされました。キリストの血によったのです。

2:14 (なぜならば、)実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし(一つに造り続けています。そして)、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し(壊し続け)、

 キリストは、私たちの完全さです。イスラエルと異邦人が一つにされることは、ずっと続けられていることです。これは、一つの体を造ることが続けられていることを指しています。次節以降そこに至る過程が記されています。一つの体にするというのは、最後の段階ですが、それがはじめに示されています。その働きの目的を示すためです。

 これが最後に置かれたのでは、文章を読む人は、一連の動作の目的がわからないので、文を理解しにくくなります。

 ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し続けています。ご自分の体が打ち壊されることで、隔ての壁を打ち壊されました。

 隔ての壁を打ち壊すことは一度肉によって実現したことですが、一人ひとりの信者について、それは続けられています。

・「平和」→神の御心を行うことによってもたらされる完全さ。

・「私たち二つのもの」→イスラエルと異邦人。

2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました(廃棄し続けています)。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し(完全さを造り続け)、

 律法を廃棄したことは、それぞれの信者に適用されることですから、その働きは、今にいたるまで続いているのです。

 そして、この二つと言われているイスラエルと異邦人を新しい一人の人に造り上げるのです。新しい一人の人とは、キリストの体である教会のことです。

 一つの体を造り上げて実現しようとしいることは、「完全さ」です。キリストと同じような者とされた人々から構成されるのです。

2:16 二つのものを一つのからだとして(ともに一つの体として:一つの体にしたという動作ではない)、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました(滅ぼし続けています)。

 この敵意は、神との間の敵意です。神と和解させられたのであり、イスラエルと異邦人が和解させられたのではありません。

 十字架において裁きを下されたので、もはや罪に対する敵意はないのです。滅ぼすことが続いているのは、個々の信者において実現していることだからです。

2:17 また、キリストは来て(来続け)、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

 さらに、キリストは、来て福音を伝えました。そのことは、今も継続しています。その福音がもたらすものは、「完全さ」です。

 この訳されている「平和」をイスラエルと異邦人の間の敵意の解消とする解釈がありますが、既に見たように、そのようなことではありません。今も宣べ伝えられている福音は、イスラエルと異邦人の間の平和をもたらすためではありません。

2:18 (なぜならば)このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

 御父に近づくことは、父との近い交わりを表しています。次節に記されているように、神の家族とされることを言っています。遠く離れていたことと対比されて、近くされたことが示されています。

 その時、一つの御霊によって近づくとされていますが、一つの御霊に属するものとして一体なのです。ですから、神の家族とされて父と親しく交わることにおいて、イスラエルと異邦人の区別はないのです。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。

 それで、異邦人である彼らは、聖徒たちと同じ国の民すなわち、御国の民です。そして、神の家族です。彼らは、もはや他国人でも寄留者でもないのです。

2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。

 この節は、前節で、句点が打たれて途切れているため、本節とのつながりを理解しにくくなっていますが、主語は、「あなたがた」です。

 彼らは、使徒たちや預言者たちという土台の上に立てられています。土台は、教えのことです。その土台は、要石にかかっていますが、それがキリスト・イエスです。

2:21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。

 全体の建物が、キリストにあって、組み合わされ、主にある聖なる宮へと成長します。すなわち、神のものとされ、神の臨在する宮となります。

2:22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

 「あなたがたも」と記し、建物全体の一部としてエペソの信者もともに築き上げられるのです。最終的には、神の御住まいとなります。御住まいは、常に神のおられる場所を表します。一時的な臨在でなく、神が常におられるところとなります。

 神の御住まいは、霊の領域において築き上げられます。

 なお、これは、目に見える建物でも、信者の集団でもありません。また、組織でもありません。

・「御霊によって」→霊の(領域の)中で。