エズラ記3章

3:1 イスラエルの子らは自分たちの町々にいたが、第七の月が来たとき、民は一斉にエルサレムに集まって来た。

 第七の月にイスラエルの子らは、それぞれの町々からエルサレムに集まりました。彼らは、律法に記されているところに従って、年に三度の祭りを行うためです。

 その様子については、「一人の人のように」と記されています。民自身に律法を守る心があったのです。自ら進んで一致して行動しました。

3:2 そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築いた。

 祭司たちと王族たちは、立ち、そして、律法に書かれているとおりに全焼のいけにえを捧げるため祭壇を築きました。彼らは、規定通りに行うことを求めました。

 まだ、宮が建てられず、器具も据えられていない時ですが、祭壇によって神に近づこうとしたのです。祭壇を築くことは、宮が建てられる以前に神に近づく方法として示されています。

出エジプト記

20:24 あなたは、わたしのために土の祭壇を造りなさい。その上に、あなたの全焼のささげ物と交わりのいけにえとして、羊と牛を献げなさい。わたしが自分の名を覚えられるようにするすべての場所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。

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 ただし、祭壇を築くことは、彼らが志すならば、帰還して直ぐにできることでした。しかし、民の大きなうねりが起こるまで、そのことは実現しませんでした。

3:3 彼らは、周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた。彼らはその上で主に全焼のささげ物、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた。

 彼らは、祭壇を所定の場所、原語では土台の上に立てました。理由が記されていて、周りの国々の民を恐れていたからです。彼らは、神様の御心に適わない行動の結末がどの様になるかをよく知っていたのです。彼らは、神に背いた結果としてバビロン捕囚に会い、七十年を経て帰還したのです。周りの民の脅威がある中で、主に従わないならば、それらの人々を用いて主が懲らしめられることもあるのです。彼らの恐れは、主の裁きに対する恐れであったのです。

 彼らは、築かれた祭壇で朝ごと夕ごとの全焼の捧げ物を捧げました。これは、日々捧げる捧げ物です。この日から、祭壇の火は、毎日焚かれました。

3:4 彼らは、書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げた。

 仮庵の祭りが祝われ(守られ)、捧げ物は、書かれているとおりに捧げられました。具体的には、捧げ物の数が定められたとおりに捧げられました。彼らは、誠実に律法を守ったのです。

3:5 それから、常供の全焼のささげ物、新月の祭りやすべての聖別された主の例祭のためのささげ物、そして一人ひとりが進んで献げるものを、喜んで主に献げた。

 「それから」は、時間的順を示す接続詞ですが、訳としては不適切です。ここに記されている一覧は、時間的順の説明ではなく、捧げ物をどのように捧げたかという説明です。しかも、「すべての例祭の捧げ物」と記されており、仮庵の祭りの捧げ物もそこに含まれています。また、次節には、七月一日から全焼の捧げ物を主に捧げ始めたとありますので、時間的には、常供の全焼の捧げ物、新月の捧げ物が先になります。ですから、「それから」という訳は、不適切です。「そして」とすべきです。原語では、「またあるいはそして」「さらに」「しかし」の意味です。

 ここでは、それらの捧げ物を「喜んで」主に捧げたことが取り上げられています。

3:6 彼らは第七の月の一日から全焼のささげ物を主に献げ始めたが、主の神殿の礎はまだ据えられていなかった。

 祭壇で捧げ物が捧げ始められましたが、神殿の建設は、礎を据えることも始まってはいませんでした。

3:7 彼らは石切り工や大工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシアの王キュロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためであった。

 石切工や大工は、信者の働きの比喩です。彼らは、神殿を建てるために働きます。その報酬は、金です。彼らは、その働きに対して報いを受けます。

 シドンやツロは、異邦人の地です。彼らは、神を信じていない人々の比喩ですが、その人々の霊的祝福に与ることが比喩として示されています。食物と飲物は、イエス様のことを表しています。また、油は、聖霊の比喩です。彼らは、聖霊を受けるものとされます。その働きは、レバノンの杉を切り出して運ぶことです。杉材は、イエス・キリストの比喩です。その方を運ぶことは、証しを表しています。彼らも、イエス・キリストを現す者となるのです。

3:8 彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いて二年目の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、そのほかの同僚の祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて、工事を始めた。

 すべての人々が工事を始めました。総督、祭司、レビ人、帰還したすべての人々です。そして、レビ人は、工事の指揮者として立てられました。

 このことは、教会を建てる働きは、全員の働きであるということです。これは、もちろん公の働きだけを意味していません。一人ひとりが御心に適う者に変えら、御霊によって仕えることで実現します。

3:9 こうして、ヨシュアと、その息子たち、その兄弟たち、カデミエルとその息子たち、ユダの息子たちは一致して立ち、神の宮の工事に当たる者たちを指揮した。ヘナダデの息子たちと孫たち、そのレビ人の兄弟たちもそうした。

 レビ人たちは、祭司も含みます。彼らは、「一致して立ち」、指揮の働きに与りました。

エズラ記

2:40 レビ人は、ホダウヤ族のヨシュアとカデミエルの二族、七十四人。

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3:10 建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。

3:11 そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。

 祭司は、ラッパを持ち、レビ人は、シンバルを持ち、主を賛美し、感謝しながら歌いました。

 「いつくしみ深い」は、「良い。」で、被造物に関しては、御心に適っていることを表します。神の御心に適わないのであれば、良いとは言えません。神御自身に関してこれが当てられた場合、その「良い」は、人の判断基準によるものではありません。人にとって都合が良いことでもありません。主は、御自分の御目に適ったことをされる方として良いのです。これは、続く「恵み」との関連で考える時、いつくしみ深いという漠然としたことを言っているのではないのです。恵みは、契約に対する忠誠という意味です。契約に対する忠誠を果たすことです。民が信仰によって求め、その御心に適う時、契約を忠誠をもって果たすことです。それと同列に並べられているこの語は、主は、御心に適った良いことをされる方という意味です。

 いつくしみ深いというのは、主の性質の一面だけを表現する言葉です。主が良い方であることは、その一面だけを指してはいません。

 そして、主は契約を忠誠をもって果たされる方です。それがとこしえまでイスラエルにあることを歌っています。これは、宮の再建だけでなく、主のお取り扱いの全てに関して歌っています。

 礎が据えられた時、民は、大声で叫びました。それは、主が、主を求める民に、契約を果たされ、祝福の内に宮を建てることができるようにされたからです。 

3:12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。

3:13 そのため、喜びの叫び声と民の泣き声をだれも区別できなかった。民が大声をあげて叫んだので、その声は遠いところまで聞こえた。

 老人たちは、泣きました。それは、彼らの罪の結果として宮が破壊された事実を思い知らされたからです。その上で、再び主が応えてくださったことを覚えて、主の御業の尊さを知ったからです。真の涙は、懲らしめられたときではなく、赦された時に流されます。主が応えてくださったからこそ、彼らの心は揺さぶられたのです。破壊だけを見ていたら彼らは嘆くだけだったでしょう。

 なお、彼らの涙について、据えられた礎がみすぼらしいからという解釈がありますが、当たりません。宮の礎は、大きかったのです。それは、キュロスの命令に基づくものであるからです。

エズラ記

6:1 それでダレイオス王は命令を下し、重要文書を納めてあるバビロンの文書保管所を調べさせたところ、

6:2 メディア州の城の中のエクバタナで一つの巻物が見つかった。その中に次のように書かれていた。「記録。

6:3 キュロス王の第一年にキュロス王は命令を下した。エルサレムにある神の宮、いけにえが献げられる宮を建て、その礎を定めよ。宮の高さは六十キュビト、その幅も六十キュビト。

6:4 大きな石の層は三段。木材の層は一段とする。その費用は王家から支払われる。

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 王の命令としてその大きさが指定されていまので、規模を縮小することは許されないことです。また、その費用は、王家から支払われます。それは、王の威信を示すものでもあります。これをみすぼらしいものとしたならば、建てる者たちがその責任を問われることになります。

 他の多くの人たちは、喜びの声を上げました。彼らは、主の偉大な業を見たからです。心からの喜びの叫びであるので、非常に大きな声でした。主の御業の実現を見るとき、それは、喜びになります。