エズラ記1章

1:1 ペルシアの王キュロスの第一年に、エレミヤによって告げられた主のことばが成就するために、主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた。王は王国中に通達を出し、また文書にもした。

 主は、預言の成就のために働かれました。そのために、ペルシア王の霊を奮い立たせたのです。「霊を奮い立たす」という表現は、五節にも記されていて、主は計画されたことを実現するためには、人の霊を奮い立たせます。

 王は、自らの霊に従って通達を出し、文書を発布しましたが、主が働いておられました。このように、主は、異国の王も動かすことができます。

1:2 「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。

 王の命令は、イスラエルの民が主の命令として実行する必要がありました。そうでなければ、イスラエルの民は、心から進んで誠実に行うことはないでしょう。単に命令を実行するだけです。彼は、主に任命された者として、この命令を出したのです。彼は、その権威について、主からのものであることを言い表しています。彼に全ての王国を与えたのは、主であると言い表し、彼の権威が主から来ていることをまず表明しています。

 宮の建設は、教会を建てることの比喩ですが、その主権者は、主です。

 また、その場所は、ユダにあるエルサレムです。そこは、主の選ばれた場所です。ペルシアの他の場所ではないのです。主が選ばれたとおのものによって、主の栄光が現されるのです。次節にあるように、そこに主はおられます。

 また、その宮は、御自分のために建てられます。人のためではないのです。まして、ペルシアの王のためでもありません。 

1:3 あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。

 そして、その建設の役割を担う者は、主の民に属する者です。主の民に属する者でない者がそれを担うことはできないのです。

 今日、教会の建設に於いても同じであり、主の民に属する者だけがその役割を担うことができます。いわばこれは、特権です。

 そのように、主の民に属する者とともに主はおられ、事を行うことができるのです。例えば、どのように能力があったとしても未信者を用いることはありません。

1:4 あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」

 そして、ペルシアに残る者たちに対しても命じられました。エルサレムに上る者たちを支援するようにと。進んで捧げるものに加えて、銀、金、財貨、家畜で支援することが命じられました。

 進んで捧げるものは、神に仕えることの原則です。

 銀は、贖われた歩みの比喩です。すなわち、新しく生まれた者として聖霊によって歩むことを表してます。

 金は、義の行いです。神の御心を行うことで義とされます。

 財貨は、商売によって得られるものです。これは、イエス様のミナの例え、タラントのたとえのように、商売することに関係しています。その商売とは、王から委ねられたものを用いて、増やすことです。ミナは、御子と同じ者に変えられることに関して、タラントは、能力に応じてなす業に関して御心を実現することを表しています。

 家畜は、神に捧げるいけにえのためです。いわば礼拝です。 

1:5 そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たちは立ち上がった。エルサレムにある主の宮を建てるために上って行くように、神が彼ら全員の霊を奮い立たせたのである。

 かしらたち、祭司たち、レビ人たちは、立ち上がりました。立ち上がることは、行動を起こすことを表しています。主が彼らの霊を奮い立たせたからです。

 かしらたちは、ユダとベニヤミンだけです。北王国は、この時主の働きに与ることはできませんでした。彼らは、失われた民です。

1:6 彼らの周りの人々はみな、銀の器、金、財貨、家畜、選りすぐりの品々、そのほか進んで献げるあらゆる物をもって彼らを力づけた。

 彼らの周りの人々は、進んで捧げるものを持って力づけました。

1:7 キュロス王は、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器を運び出させた。

1:8 ペルシアの王キュロスは財務官ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を確かめさせ、ユダの首長シェシュバツァルに渡した。

 また、ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出した主の宮の器は、シェシュバツァルに渡されました。

1:9 その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、

 その数について、金の皿は、三十。金は、義を表しています。三十は、五を単位として六つです。神殿において、五は、御心を行うことを表しています。六は、人を表していて、人として御心を行うことを表しています。ですから、この義は、人としての歩みの中に御心を行うことで現される義のことです。それがイエス様の栄光となっています。そして、それは、信者の模範でもあります。

 銀の皿は、一千。千の単位で、一です。銀は、贖いを表しています。そして、それが一によって表される独り子の御子の栄光となっています。これは、贖いの業というよりも、贖われた者としての歩みすなわち新しく生まれて御霊によって歩むことに関係しています。イエス様は、御霊によって歩まれて神の御心を行いました、同じように、信者も新しく生まれた者として御霊によって神様の御心を行うのです。それがキリストの贖いと関連づけられているのです。

 香炉は、二十九。原語では、九と二十です。香炉と訳されていますが、原語は、小刀です。九は、仮庵の祭りの牛の捧げ物の数から、七と二を足したもので、数字としては、二に意味があります。これは、牛によって表されるしもべとしてのイエス様が、神の言葉に服従することで表された証しを表しています。

 そして、二十は、聖なることを表しています。神の言葉に従い通すことで表される聖です。神としての本来の神聖さではなく、歩みによって現される聖です。それは、僕として御心を行い、御心を行うことで聖なることが現されたのです。

1:10 金の鉢三十、予備の銀の鉢四百十、その他の器一千。

 金の鉢三十。人としての歩みによる義です。

 銀の鉢四百十。四百と十です。四百は、百を単位として四です。百は、聖別を表しています。四は、あらゆる方面ということを表しています。十は、到達点を表していて、あらゆる方面において聖別が完全であったことを表しています。

 その他の器は、一千です。千を単位として一です。独り子の御子の栄光を表しています。その他と纏められていますが、全ては、御子の栄光を表しています。そして、それが信者の完全な模範となっています。

1:11 金や銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに上ることを許されたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみな一緒に携えて上った。

 用具は、全部で五千四百です。五千と四百で、五千は、千を単位として五つです。千はたくさん、五は、御心を行うことを表しています。四百は、百を単位として四で、聖別が、あまねくことを表しています。あるゆる点において聖別されたことが表されてます。そして、それが神の栄光の表れであり、神に栄光を帰すことになります。何よりも尊いことは、御心を行うことです。