エステル記5章
5:1 三日目になり、エステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の奥の中庭に立った。王は王室の入り口の正面にある王宮の玉座に座っていた。
三は、欠けのない完全さを表します。断食は、肉を捨てることの比喩です。完全に自分を捨てたことを表しています。
王妃の衣装を着たことは、自分を現すのではなく、彼女に与えられた立場にふさわしい衣を身に着けたことであり、神の栄光を現すものとして神に近づいたことを表しています。彼女自身は、全く肉を捨て、御霊によって神に近づいたのです。聖められた者、神に愛されている者として近づいたのです。
王がその座につくことは、支配者としての神を表しています。
5:2 王が、中庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を得た。王は手にしている金の笏をエステルに差し伸ばした。エステルは近寄って、その笏の先に触れた。
自分を捨てた教会は、神の目に適うのです。そのようにして、神の近づく者を神は喜んで受け入れられます。
彼女は、殺されるかもしれないと考えていたのです。王が彼女を特別に愛していることをまだ悟りませんでした。これは、信者が神の愛を確信していない状態の比喩です。神によって愛されているのに、自分の罪深さを見て、神に愛されていると確信できないのです。
・「好意を得た」→(彼の目に)適った。
5:3 王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何を望んでいるのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」
王は、王国の半分でも与えられると言いました。王は、彼女の願いを聞きたいのです。そして、与えたいのです。それは、神の心に適っているからです。
王国の半分は、王としてそれ以上譲ることはできません。王の方が低くなってしまうからです。ですから、王国の半分は、与え得る最大限度を言っています。
ヨハネ
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。
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教会は、神によって愛されているのです。想像を超えるようなものを与えようとしているのです。
5:4 エステルは答えた。「もしも王様がよろしければ、今日、私が王様のために設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください。」
彼女の言葉は、祈りの模範です。まず、王の意向を第一としています。王国の半分でも頂ける言葉をかけられたのですが、そのように求めました。私たちの求めは、「御心ならば」と求めるべきです。
ヤコブ
4:15 あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。
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設ける宴会は、「王様のため」です。王が第一であり、王のためになされるのです。これは、神のことを第一にすることの比喩です。
彼女の願いは、小さなものでした。彼女の願いの完全な実現のためには、ハマンに関して、三回求めています。これは、王に近づいて初めて願いを聞いていただくという経験です。最終的な願いは、王が用いている側近のハマンを追い落とすことです。そして、ユダヤ人を救うことです。王が、ユダヤ人である自分に味方してくれるかどうかも分からないのです。ハマンは、王に次ぐ者です。彼を排除することは政治的には、その損失は大きなものです。王がハマンを選ぶか、エステルとユダヤ人を選ぶかわからないことです。彼女には、王の愛に対する確信がまだありませんでした。彼女は、王が聞いてくれるという確信が欲しかったのです。
信者の祈りも、このようにはじめは小さなものから始まります。神がすべてを聞いてくださることを経験として知るまでには、時間がかかるのです。
5:5 すると王は「ハマンを急いで来させて、エステルの言ったようにしよう」と言った。王とハマンはエステルが設けた宴会にやって来た。
5:6 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」
王は、喜んでその願いを聞きました。神がその願いを聞いてくださると言う経験は、貴重なものです。
酒宴の席で王は訪ねました。これは、信者が自分を捨てて神に近づく時、神は、喜んでその願いを聞き入れてくださることを表しています。酒宴が表す葡萄酒は、自分を捨てることを表しています。そのように、彼女は、自分を捨てたものとして神に近づいているのです。
・「酒宴」→ぶどう酒。雅歌書の酒宴もぶどう酒。注ぎの捧げ物から、自分を捨てることを表している。
5:7 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、
5:8 もしも私が王様のご好意を受けることができ、また王様がよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、もう一度ハマンとご一緒にお越しください。そうすれば、明日、私は王様のおっしゃったとおりにいたします。」
彼女は、その願いを告白する前に、もう一度宴会に来てくださることを願いました。その時、彼女は、王の心を見定めようとしました。
まず、「ご好意を受ける→王の目に適う」かです。神が喜んで与える方であることに対しての確信が欲しかったのです。
「王様がよろしくて」とは、王が主権を持ってそのようにするつもりがあることを知りたかったのです。また、これは、神の主権に委ねることの比喩です。
そして、「願いを許し」も王の主権によることの表明です。
「私の望みを叶えて頂けますならば」と最後に望みを語ります。彼女の望みは、もう一次宴会に来ることです。
5:9 ハマンはその日、喜び上機嫌で去って行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、身動きもしないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。
ハマンは、上機嫌でした。彼は、このとき、また安泰でした。
これは、悪魔がいまだに力ある者として振る舞うことができることの喜びです。エステルは、ハマンをなんとかしたいと思っていましたが、彼女自身、王に対する確信がありませんでした。それで、いまだにハマンの力はそのままなのです。ほうとうは、王に愛されている者として王の力を頂けるはずの者が無力なのです。これは、教会が神に愛されていながら、悪魔の働きに対して無力な状態を悪魔が喜んでいることの比喩です。
具体的には、肉によって悪魔に従っている信者を見て、悪魔は喜んでいるのです。まるで、神の力が無力であるかのようです。御霊により内住のキリストによって完全な勝利者となるはずなのに、肉に従って悪魔に敗北しているのです。勝利者として歩むことを願わないし、神に求めないのです。
ハマンの喜びは、モルデカイの態度で打ち砕かれました。ただ一人、悪魔に屈しない方を見たからです。
5:10 しかし、ハマンは我慢して家に帰り、人を送って、友人たちと妻ゼレシュを連れて来させた。
5:11 ハマンは自分の輝かしい富について、また子どもが大勢いることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを、すべて彼らに話した。
彼は、自分の持ち物、また、位の高さなどの名誉を自慢としていました。自分が高く上げられることが、彼の喜びなのです。
5:12 ハマンは言った。「しかも王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王と一緒に来させなかった。明日も私は、王と一緒に王妃に招かれている。
ハマンの喜びは、王と一緒に栄誉に与っていることでした。
5:13 しかし、私が、王の門のところに座っているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これら一切のことも私には何の役にも立たない。」
モルデカイを見ると、彼の喜びは失われるのです。彼が自分を高め、喜ばせることは、一人の人の存在で打ち砕かれるのです。彼には、その他の誉れは、役に立たないのです。
悪魔は、肉によって人々を自分に従わせました。それが、彼の喜びです。しかし、一切肉に従わず、悪魔に従うことのない方こそ、最も偉大な栄光を受けることを知って、悪魔は許しがたいのです。
5:14 すると、彼の妻ゼレシュと彼の友人たちはみな彼に言った。「高さ五十キュビトの柱を立てさせて、明日の朝、王に話して、モルデカイをそれにかけるようにしなさい。それから、王と一緒に、喜んでその宴会にお出かけなさい。」ハマンはこの進言が気に入ったので、その柱を立てさせた。
ハマンの妻と友人たちは、モルデカイを木に掛けるように勧めました。これは、悪魔がイエス様を十字架に掛けるように働いたことの比喩です。
「五十」は、五によって表される御心を行うことと、十によって表される到達点の組み合わせです。完全に御心を行うことを表しています。木に掛けられることは、神の完全な御心の実現であることを表しています。