エステル記4章

4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。

 モルデカイは、イエス様の比喩です。彼の態度は、イエス様の内面を教えています。滅ぼされることを知った時、イエス様は、その救いを心から願われたのです。

 衣を引き裂くことは、栄光を捨てたことを表しています。

 荒布を纏うことは、自分の栄光を現さないことを表します。また、人の姿を取られたことを表しています。荒布をまとったままでは、王の門に入ることはできませんでした。王の門は、神の比喩である王の支配の場所です。

 灰をかぶることは、御自分を虚しくされたことを表しています。塵灰という表現は、価値の無いものを表すときに使われます。

 都の真ん中で大声で叫ぶことは、この地で神を呼び求め、民の救いを求めることの比喩です。イスラエル人の救いを心から願い求めたのです。

 これらのことは、ピリピ書の聖句に対応しています。

ピリピ

2:4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。

2:5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

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 彼の叫びは、他の人のことを顧みたことであり、イスラエル人全体の救いを願ったことです。

・「わめき叫び」→叫びを叫んだ。叫ぶことは、神を呼び求めるときに使われる語。

4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。

 荒布を纏うことは、人となられた主イエス様を表しています。ここでは、王宮に関しては、「王の門」と記されていて、王の支配の場所を表しています。人は、そこに入ることはできません。

4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。

 法令を知ったユダヤ人たちは、大きな悲しみのために、断食をし、泣き、嘆き、荒布をまとい、灰の上に座りました。彼らは、滅びの警告を知り、自分を低くしたのです。

4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。

 エステルが心を痛めたのは、モルデカイの姿です。ユダヤ人への迫害についてはまだこのときには知りませんでした。また、モルデカイの心の痛みを知りませんでした。彼女は、モルデカイが自分を低くしていることに心を痛めたのです。

 これは、教会がキリストの心を理解しないことの比喩です。イエス様が低くなられ、苦しみを受けられたことに心を震わされます。しかし、それは、人間的な観点からの場合が多いのです。イエス様が御自分を低くされた目的、進んで御心を行われたこと、父の栄光のためにすべてを捧げられたことなど、神の栄光という観点から覚えることは、もっと主を深く知ることになります。

4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。

 これは、エステルが最初から聞くべきことでした。彼女は、モルデカイのためを思ってしたことが拒まれたことで、初めて自分の考えが浅いことを知ったのです。

 彼女が着る物を送ったことは、主が栄光を受けることを願うことの比喩です。しかし、彼女の行為は、見当違いでした。

 私たちが主に仕えることに関して、主のためにしていると思っていることが、主の心を知らないために、目的外れのことをしていることがあるのです。何のための福音伝道でしょうか。あるいは、いわゆる学びでしょうか。御言葉を語るにしても、聞く人が聞いて理解し、信じるためということを忘れて、単に聖書の言葉の説明に終止していないでしょうか。あるいは、奉仕が目的になっていないでしょうか。御言葉を聞く方が神のものとされ、御心のうちを歩み、御国の報いを受けることを真に願っての言葉でしょうか。また、御言葉を聞く人についても、子守唄を聞くつもりで聞いているのでしょうか。私たちが到達すべき主イエス様は、あるいは、神は、現状の自分と同じようなものなのでしょうか。私たちが達すべきものとの乖離を覚えるならば、学んで変えるべきことは多いのです。それを追求しなければならないのです。もう御心の全てを正しく知っているのでしょうか。もう聞く必要もないし、分かっているし、もう自分の身についていることなのでしょうか。皆さんは、そうでも、私は、違います。まだ、序の口です。

4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。

4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。

4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように(→王に懇願し、そして、王の前に探し求めるように)、彼女に命じるためであった。

4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。

 ハタクは、聖霊の比喩です。モルデカイによって表される主イエス様と教会の間にあって働かれます。

 モルデカイが伝えたことは、イエス様が伝えようとしておられることの比喩です。

 自分の身に起こったこと全てが告げられました。

 モルデカイがハマンを拝まなかったように、イエス様だけが唯一、ハマンに屈しなかったのです。そして、迫害を受けました。

 私たちは、人としてのイエス様がどのように行動されたかを知ることが必要です。父神の栄光のために、その御心を行うことでした。ご自分の肉のためには、一切行動しませんでした。また、愛によってすべての業を行われました。このことを知ることで、私たちがいかに歩むべきかを知ることができます。

 そして、ハマンの働きを告げました。ハマンは悪魔の比喩です。悪魔がユダヤ人を絶滅しようとしていることを告げました。それが事実であり、そのための原資も用意されていることを告げたのです。

 さらに、法令の文書の写しを渡しました。これは、王の権威で発布したものであり、神の計画の比喩です。私たちは、御言葉から、神の計画を知らされています。将来どのようなことが起きるか知っているのです。それによって、いまどのように行動すべきかを知ることができるのです。

 そして、彼女に命じられたことは、王の前に懇願すること、そして探し求めることです。探し求めることは、助けなどを求めることです。これは、神の前に祈り求めることの比喩です。それに対して王がどのように答えるかは、王の主権によることです。 

4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。

4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」

 彼女は、王の前に勝手に近づくことはできないと答えました。これは、神に近づくことができないと考える人の姿です。彼らは、神の前に罪赦され、完全な者とされていて、神に愛されている者なのですが、自分が罪人であること、また、自分は罪深い者であることや弱い者であることなどを見て、大胆に神に近づくことができないのです。しかし、そのような姿は、信仰による姿ではありません。信仰による自分の立場を覚えるべきで、自分自身のことばかり見る肉的な思いを捨てるべきなのです。たしかに神の前に罪を犯していたならば、神に近づくことはできません。それは、法令が禁じていることと同じです。しかし、私たちは、既に罪赦されている者なので、たとい罪を犯したとしても、告白と、交わりの回復をなし、再び神との交わりに入ることができます。

ヨハネ第一

1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

1:8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

1:10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

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ヨハネ

16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。

16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。

16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。

16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。

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4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、

4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。

4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」

 彼女に求められたことは、現状に留まるのではなく、自分を捨てて王の前に出ることです。自分の現状に甘んじ、彼女ができることをしないならば、彼女は、滅びるのです。

 これは、人が信仰に立って、肉を捨て、神の前に出ることを表しています。それは、神との交わりに入り、祈りを聞いていただくためです。誰も聖くなければ神を見ることはできません。肉のままに歩んでいても、神を見ることはできません。

ヘブル

12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

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「すべての人との平和を追求しなさい」→「すべての人と一緒に完全さを追求しなさい」。「との」と訳されている語は、「with」と英訳されますが、正しくは、「in company with 連れ立って、共に」です。withでもそのような意味を表すことはできますが、この原語は、「~との」を意味しません。たとい平和と訳したとしても、すべての人と一緒に平和を追求しなさいとなり、平和の関係を持つべき相手は、特定されません。すなわち、誰と平和を持つのかは、分からないのです。

 完全さは、神の御心に適う完全さです。聖さも、神の御心を行うことで現されます。その聖さがなければ神を見ることができないのです。

ヨハネ第一

3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

3:21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。

3:22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

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 私たちは、神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。

4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。

4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

 エステルは、自分の命を捨てて、王に近づくことを求めました。神の前に、同胞のために命を捨てる愛によって行動することを志したのです。それは、ヨハネの手紙に記されているように、兄弟のために命を捨てる者です。そのような愛を現すことができるのは、神がその人のうちにいるからです。それで、神の前に心安らかにされます。たとい心が責めても、神は聞いてくださいます。